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スタジオベイカー短編小説「ディレクターズチェア」第3話

第3話「失われたフィルムの謎」

翌日も、光田浩一は「シネマ・エトワール」の映画館へと足を運んでいた。あの椅子に座ってからというもの、彼の心には得体の知れない高揚感と不安が入り混じっていた。頭の中に鮮明に焼き付いた映像、あの場面の細部や音、カメラアングルまで。自分が一度も描いたことのないシーンが鮮明に流れ込み、彼の思考を離れなかった。

映画館に入ると、ロビーの奥で管理人の老人が待っているのが見えた。光田は勇気を出し、老人に声をかけた。

「昨日は、佐伯監督の話をしてくれてありがとうございました。彼が最後に撮った映画、どんな内容だったか知っていますか?」

老人は少し驚いたような顔をしたが、すぐにうなずき、遠い目をしながら語り始めた。

「佐伯謙一郎…そうだ、彼はこの映画館で何度も作品を上映してくれた監督だった。その情熱と才能には誰もが魅了され、そして畏怖の念を抱いていたよ。だが、彼の最後の作品『月夜の囁き』がどういう内容だったのか…それについては誰も知らないんだ。なにしろ、そのフィルムは完成しなかったのだから」

「未完…ということですか?」

「そう。佐伯監督はその作品を最後まで撮り続けたが、編集に入る直前、突然姿を消した。彼が残した未完成のフィルムは、一度も観られることがなかったんだよ」

老人の話に、光田は胸がざわつくのを感じた。映画監督が突然姿を消すというのは異例だ。特に、長年の情熱を注いだ作品を未完のまま放置するなど、考えられないことだ。

「そのフィルムは、今どこにあるんでしょう?」

老人はしばらく黙り込み、光田の目を真っ直ぐに見つめると、低く呟いた。「…ここだよ」

驚く光田に、老人はロビー奥の小さな扉を指さした。古びた木製の扉が、ほとんど忘れ去られたかのようにひっそりと佇んでいる。光田が扉に手をかけると、重い金属の軋みとともに開かれた先には、小さなフィルム保管室があった。埃まみれの棚にフィルム缶が並び、その中に一つだけ赤錆に覆われた缶が異様な雰囲気を漂わせている。

「それが佐伯監督の最期のフィルムだ」と老人が囁くように言った。

光田は心臓が高鳴るのを感じながら、フィルム缶を手に取った。思ったよりもずっしりと重く、錆びた蓋の冷たさが指先に伝わってくる。この中に、佐伯監督が残した未完の映像が眠っているのだと思うと、何か恐ろしいものに触れているような気がしてならなかった。

「このフィルム…観てもいいんでしょうか?」と光田が尋ねると、老人は静かにうなずいた。

「ただし、気をつけなさい。佐伯監督はこの作品を作りながら次第に追い詰められていった。それが彼の失踪につながったのかもしれない。何かに取り憑かれたように…」

光田はフィルム缶をそっと抱え、映写室へと向かった。フィルムをセットし、映写機を起動させると、やがてスクリーンに古びた白黒映像が映し出される。光田は食い入るようにスクリーンを見つめた。

映像は、薄暗い森の中で一人の男が歩く場面から始まった。ざわざわと風に揺れる木々の音が不気味に響き、男の影が揺れている。まるで観客をもその場に引き込むかのような錯覚に襲われ、光田は息を呑んだ。

しかし、映像は突然途切れ、次のシーンへと飛ぶ。次の場面では、誰もいない家の中に男が立ち尽くしている。男の表情は不安げで、誰かに見られているようにキョロキョロと視線を彷徨わせている。何かを言いかけるように口が動くが、音はない。フィルムのノイズが強くなり、不鮮明な映像が続くが、その不自然な編集が逆に光田の興味をかきたてた。

「まるで…夢の中にいるみたいだ…」

スクリーンに映る男は次第に苦悶の表情を浮かべ、暗闇の中で何かに怯えているようだった。急に彼が振り返り、何もいない場所に手を伸ばすと、フィルムがプツリと切れた。

光田は映写室の静寂に包まれながら、映像に見せられていた感覚から目が覚めた。佐伯監督が一体何を描こうとしていたのか、ますます謎が深まった。しかし、スクリーンに浮かぶあの不気味な静寂と暗闇は、確かに自分の心に何かを刻みつけていた。

「佐伯監督が、何を恐れていたのか…」

彼の未完成の映画には、まだ見えない深い闇が潜んでいる気がしてならなかった。

(第4話へつづく)
(文・七味)


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