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スタジオベイカー短編小説「ディレクターズチェア」第2話

第2話「椅子に座る瞬間」

光田浩一は、再び「シネマ・エトワール」の映画館に足を運んでいた。かつての映画界の巨匠・佐伯謙一郎のディレクターズチェアに出会って以来、頭からその椅子が離れない。気がつけば彼は、この古びた劇場へと足が向いていた。自分でも理解できない衝動に駆られながらも、椅子に吸い寄せられるようにして映画館のホールにたどり着いた。

ホールの奥に佇む椅子は、前に見たときと同じように静かで、まるで何も知らぬような無言の威圧感を放っていた。古びた木製のフレームとくたびれた黒いキャンバス地。どこにでもありそうな形だが、この椅子には何かが「宿っている」ように感じられた。それはただの記憶や物理的な存在ではなく、佐伯監督の残した未完成の思念、あるいは彼の消えない想念が漂っているかのようだった。

光田は心の奥で僅かな抵抗を感じつつも、手をそっと椅子に伸ばした。触れると木製のフレームは冷たく硬く、指先にざらつく感触が伝わる。息を飲み、彼は意を決して椅子に腰を下ろした。

その瞬間、彼の周囲が薄暗い靄に包まれるような感覚に襲われた。まるで映画館全体が彼を包み込んでいるようだった。次の瞬間、光田の頭の中に鮮やかな映像が流れ込み始めた。まだ一度も考えたことのない新しいストーリーが、鮮明なシーンと共に次々と湧き出してくる。追いかけても追いかけても尽きないイメージが、止まることなく流れ込んでくるのだ。

「これが…佐伯監督が残した“何か”なのか…?」

光田は驚きながらも、その圧倒的なインスピレーションに胸を躍らせた。自分の中から自然に湧き出たと思えるほど鮮明な映像が浮かび、それは情熱的で、これまでのどの作品よりも力強さを持っていた。彼はまるで自分が佐伯監督そのものになったような感覚を覚えた。息を呑むほどの創作意欲が、体の中で膨れ上がる。

だが同時に、奇妙な違和感も彼を蝕み始めた。光田は椅子に座っている自分の姿が、自分ではない誰かの視線から見られているような感覚に囚われたのだ。心の奥底に、冷ややかで暗い視線が重くのしかかっている。その視線がどこからともなく椅子に絡みつき、彼の背中に冷たい汗を滲ませる。

「…誰かが俺を見ている?」

光田は椅子から立ち上がろうとしたが、どういうわけか体が動かない。彼の手足は凍りついたかのように硬直し、まるで椅子が彼を放そうとしないかのようだった。動けないまま、彼の頭の中には映像がさらに次々と押し寄せる。鮮明なシーンとセリフ、カメラアングル、そして一連の物語が流れ込むが、それは彼が描きたいと思った内容ではなかった。むしろ佐伯監督が「見ていた」シーンが脳裏に焼き付いてくるように感じられるのだ。

光田は心の中で叫び声をあげ、やっとのことで体を引きはがすようにして椅子から立ち上がった。息が荒く、心臓が鼓動を打つ音が耳に響く。彼の視線は椅子の方に向いたが、その存在は今までと変わらずただそこにあるだけだった。静寂に包まれた椅子は、何事もなかったかのように無言で彼を見つめ返しているようだった。

光田は深呼吸を繰り返し、なんとか心を落ち着けようとした。しかし、椅子に座っていたほんの数分間で彼が見た映像や感じた創作意欲、そして不気味な視線の記憶が彼の中で消えることはなかった。その体験がまるで刻まれたかのように、深く彼の脳裏に残り、静かに揺れ続けている。

「これが…この椅子の“力”なのか」

光田は再び椅子に視線を送り、深く息を吸い込んだ。この椅子には確かに何かがある。しかし、それが果たして自分にとって有益なものなのか、あるいは危険なものなのか、光田にはまだわからなかった。ただ一つ確信しているのは、自分がこの椅子に再び座るだろうということだ。

未知の力を秘めたディレクターズチェアに引き寄せられるようにして、光田は深くその魅力に囚われ始めていた。

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第3話へつづく)
(文・七味)


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