スタジオベイカー短編小説「ディレクターズチェア」第5話
第5話「夢と現実の境界」
佐伯監督のノートを読み終えた夜、光田浩一は奇妙な夢を見た。暗い森の中で、彼自身が何かに追われるように歩いている。木々の間から差し込む微かな月明かりだけが頼りで、進むべき道はぼんやりとしか見えない。振り返ると、背後に何かの気配があるようだが、目には映らない。ただ、その存在がすぐ近くに迫っているのを、背筋で感じるだけだった。
「振り返るな…」
心の奥でそう囁く声が聞こえる。それが自分の声なのか、誰か別の声なのかも分からない。だが恐怖に耐えきれず、光田はついに足を止め、振り返った。
その瞬間、真っ黒な影のようなものが一気に彼を覆い尽くした。息苦しさと圧倒的な恐怖感に苛まれ、光田は叫び声を上げた。目を覚ました時には、汗でシーツがびしょ濡れになっていた。
「なんだ、この夢は…?」
彼は大きく息をつき、頭を抱えた。夢の内容は現実とは異なるものの、そこに流れる映像や空気感は、佐伯監督のフィルムそのものだった。特に、「振り返るな」という声が、ノートの一節と完全に一致していたことが頭から離れない。まるで自分が佐伯監督の思考の中に入り込んでしまったような感覚だった。
翌日、光田は再び映画館に足を運んだ。椅子の前に立ち、その存在を見つめる。どうしてもこの椅子に引き寄せられてしまう自分がいた。
「昨日の夢は、この椅子のせいなのか?」
光田は恐る恐る椅子に座った。その瞬間、またもや頭の中に鮮明な映像が流れ込む。暗い森の中を歩く視点、誰かの不安げな表情、そして耳元で囁く「振り返るな」という声。それは夢で見た映像とも、佐伯監督のフィルムとも一致していた。
「これは…佐伯監督が見たものなのか?」
椅子に座るたび、光田は現実と夢、そして佐伯監督の記憶の境界が曖昧になっていくように感じた。夢の中で見た映像が現実に混じり合い、自分がどこにいるのか分からなくなる。椅子を離れると、その記憶がすっと消えるわけではなく、頭の中に残り続ける。
さらに、撮影現場のような音まで聞こえてくるようになった。カメラのフィルムが回る音やスタッフの指示する声が、彼の耳に微かに響いてくるのだ。だが周りには誰もいない。
「これじゃまるで…監督の幽霊にでも取り憑かれているみたいだな」
そう呟いてみたものの、光田の中に湧き上がる不安は消えなかった。なぜこの椅子に座るたび、夢と現実の境界が曖昧になるのか。佐伯監督がどこかで「見ていた」ものを、自分が追体験しているような感覚は、彼を徐々に消耗させていった。
光田は、この不可解な状況の理由を探るため、さらに深く佐伯監督の過去を調べる決意をした。映画館の管理人に聞き込みを続け、佐伯監督が最後に接触した人物や当時の業界関係者の名前を収集する。だが、その過程で分かったのは、佐伯監督が『月夜の囁き』を撮影していた頃、周囲に不自然なほどの孤独を抱えていたということだった。
「彼はこの映画を完成させる過程で、何かに取り憑かれていたんじゃないか」という噂が、当時のスタッフの証言として残っていた。佐伯監督の周りでは撮影中、しばしば奇妙な現象が起きたと言われる。カメラのレンズに映り込むはずのない影、誰もいないスタジオで響く足音、台本に書いていないセリフを役者が自然に口にするなど、説明のつかない出来事が続いたという。
その話を聞いた光田は、次第に自分が同じ道を辿っているのではないかと感じ始めた。夢と現実の境目が崩れつつあるのは、佐伯監督が経験した「何か」が椅子を介して自分に伝わっているからではないのか。
「佐伯監督が見た“影”とは、いったい何だったんだ…?」
光田はもう一度、椅子に触れることをためらった。だが同時に、この謎を解き明かさない限り、自分の映画監督としての道は次へ進めないという思いも強くなる。椅子はただそこにあるだけなのに、何かをじっと訴えているように見える。
夢か現実か、過去か未来か。それが曖昧になるほどに、光田はディレクターズチェアの深淵に引き寄せられていった。
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(第6話へつづく)
(文・七味)