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スタジオベイカー短編小説「ディレクターズチェア」第9話

第9話「フィルムの中の声」

不気味な体験を経て数日が経ったが、光田浩一の中には今も恐怖と興奮が混じり合っていた。あの夜に見たスクリーンの影、そして耳元で聞こえた「振り返るな」という声――それらはどこか現実離れしていたが、同時にあまりにも鮮明で、頭から離れなかった。彼は、それが佐伯監督が未完成の映画に込めた「何か」と関係しているのではないかと確信し始めていた。

「もし佐伯監督がこのフィルムに、映像だけでなく“音”も残していたとしたら?」

光田は、音響技師の渡辺沙織に相談することにした。彼女はフィルムの音声解析に長けた技術者であり、映画制作の仲間の中でも特に冷静で頼りになる存在だった。光田は、佐伯監督の未完成フィルムを手渡しながら説明を始めた。

「この映像には、何か異常なものが含まれているかもしれない。特に音だ。聞こえるはずのない声やノイズが、実際にフィルムに記録されている可能性があるんだ」

沙織はその言葉に興味を抱き、すぐに作業に取り掛かった。古びたフィルムをデジタル化し、音声を抽出。波形データとして解析を進める中で、彼女はすぐに異変に気づいた。

「光田さん、これは普通じゃない。確かに音声トラックに奇妙なパターンが含まれているわ。通常の録音された音ではなく、何かが“追加”されている感じがする」

「追加?どういうことだ?」

沙織はモニターを指さしながら説明を続けた。「このフィルムには、もともと撮影時に録音された自然音や環境音が含まれている。それに混じって、不可解な高周波のノイズが時折現れるの。そして、そのノイズを特殊なフィルターで抽出すると、低い声が聞こえるのよ」

光田は目を見開いた。「低い声…?」

「ええ。でも、人間が普通に話す音声とは違う。言葉としては聞き取れないけど、何かが“囁いている”ような音なの」

沙織は再生ボタンを押し、音声を聞かせた。スピーカーからは、微かな風の音や木々のざわめきに混じって、不気味な低い声が流れてきた。それはまるで、何かを伝えようとしているかのような、断片的な囁きだった。

「……これは、誰の声なんだ?」

光田は背筋に冷たいものを感じた。沙織も同じように顔を曇らせたが、さらに調査を進めるため、ノイズのパターンを細かく分析することにした。そして数時間後、彼女はある重大な事実に気づいた。

「光田さん、この声、フィルムに自然に記録されたものじゃないわ。人工的に“加えられている”の。誰かが意図的にこの音を挿入した可能性が高い」

「誰かが…挿入した…?」

光田の頭の中で疑問が渦巻く。佐伯監督自身が意図的にこの音を加えたのか、それとも別の誰かが何らかの目的でフィルムに手を加えたのか。どちらにしても、この音声がただの偶然でないことは明らかだった。

さらに解析を進める中で、沙織は驚くべき事実を見つけた。その声の波形パターンを細かく分解していくと、断片的にではあるが、人間の言葉らしきものが浮かび上がってきたのだ。それは微かにこう聞こえた。

「……暗闇を見つめろ……影に触れるな……」

「これって……佐伯監督の言葉?」光田は驚きとともに椅子から立ち上がった。佐伯監督がこの音を意図的にフィルムに仕込んでいたのだとすれば、それは彼がこの映画に何か重要なメッセージを込めようとしていた証拠ではないだろうか。

沙織は冷静に言葉を続けた。「でも、これだけじゃ分からないわ。この音声の意味や、なぜ挿入されたのかを探るには、もっと情報が必要よ」

光田は深くうなずいた。「このフィルムに何が込められているのか、もっと深く調べる必要がある。佐伯監督が残した他の資料を洗い直してみよう。そして、この音声の謎を解き明かすんだ」

しかしその夜、光田は再び夢を見ることになる。暗い森の中で聞こえる低い囁き、スクリーンの向こうから彼を見つめる影。目が覚めた時、彼の胸には、ただならぬ恐怖が広がっていた。それは単なる夢ではなく、フィルムの中に潜む“何か”が彼に警告を発しているように思えたのだ。

「佐伯監督……あんたは、この映画で一体何を伝えようとしていたんだ?」

フィルムの中に刻まれた声。それは過去からのメッセージなのか、それとも何か異界の存在が光田たちに語りかけているのか――その答えは、未だ闇の中だった。

(第10話へつづく)
(文・七味)

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