スタジオベイカー短編小説「ディレクターズチェア」第1話
第1話「伝説の映画館」
光田浩一は、映画監督を志してから苦しい日々を送っていた。期待と情熱を胸に業界に飛び込んだものの、なかなか芽が出ない。撮影に関われば必ず予算やスケジュールの壁に阻まれ、脚本を完成させてもスポンサーには相手にされず、映画祭での評価も振るわない。キャリアのスタートを飾るはずのデビュー作は思わぬアクシデントで途中打ち切りとなり、気づけば追い詰められた状況にいた。
そんな夜、光田は行き場のない苛立ちを抱えながら街をさまよい歩いていた。歩き疲れてふと顔を上げると、古びた看板が目に留まった。黒ずんで錆びつき、かろうじて「シネマ・エトワール」と読めるが、今ではまるで廃墟のように見える小さな映画館だ。ここにかつての賑わいの面影はまったく感じられない。
「こんなところに映画館が…?」光田は戸惑いつつも好奇心に引き寄せられるように入口へ向かった。錆びたドアを押し開けると、古い映画のポスターがかすかに壁に残り、埃が薄暗いロビーに舞っていた。空気には独特の湿気と歴史を感じさせる重みがあった。光田は映画館の中へ一歩、また一歩と進み、古ぼけたカーペットの軋む音が耳に届く。
「君も映画好きかい?」突然、どこかから声がした。驚いて振り返ると、ロビーの片隅に老人が立っていた。白髪混じりの髪に少し猫背、古びたスーツを身にまとった男が、光田を静かに見つめている。
「ええ、映画監督をやっています…一応ですが」と光田が答えると、老人はにっこりと笑ってうなずいた。
「なるほど、監督さんか。ここには不思議な伝説があるんだよ。かつてこの映画館で、多くの観客を魅了した名作が次々と生まれた時代があった。そのすべてを手掛けたのが、一人の偉大な監督…佐伯謙一郎だ」
老人は懐かしそうに話を続ける。佐伯謙一郎という名前に光田は少し驚いた。佐伯監督は一時代を築いた天才監督だったが、ある作品を最後に忽然と姿を消したと噂されていた人物だ。映画業界の伝説のような存在で、彼の最後の作品は「幻の映画」と呼ばれるほどで、誰もその完成を見た者はいないという。
「そしてな、この映画館には佐伯監督のディレクターズチェアが残っているんだよ。彼はあの椅子に座り、数々の名作を生み出したという。椅子の力なのか、監督の才能なのか、それは分からんがね」
老人の話に引き込まれるように、光田はふとホールの奥を覗いた。すると、薄暗いステージの中央に一脚のディレクターズチェアがぽつんと佇んでいるのが見えた。埃をかぶり、長い年月を感じさせる風格がありながらも、不思議な存在感を放っていた。その椅子には何かが宿っているような気がして、光田はじっと目を離せなくなる。
「もし興味があるなら、試してみるといいさ。佐伯監督もきっと喜ぶだろうよ」と老人が軽く笑う。
光田は誘われるように椅子に近づいたが、まだ座る勇気はなかった。ただその場に立ち尽くし、椅子の存在に圧倒されていた。彼の中で何かがざわつき始め、胸に新たな感情が湧き上がってくるのを感じた。自分のこれまでの努力や悔しさが次第に心の中で膨れ上がり、彼を突き動かしているようだった。
「俺も、この椅子に座れば…」
その時、老人の姿はすでに消えていた。気づけば映画館には光田一人きり。誰もいないホールに佇む椅子だけが、彼を見つめるように存在している。
不思議な静けさの中で、光田は椅子の前に立ち続けた。
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(第2話へつづく)
(文・七味)