スタジオベイカー短編小説「ディレクターズチェア」第8話
第8話「奇妙な体験」
撮影準備が少しずつ整い始めた頃、光田浩一とその仲間たちは、「シネマ・エトワール」の映画館を拠点に作業を進めていた。古びた映画館のホールは、今や一種の制作現場のような様相を呈していた。クラウドファンディングで集めたわずかな資金で借りた機材や、小道具が散らばり、仲間たちが行き交う。活気が戻ってきたようにも見えたが、その中で光田だけは奇妙な胸騒ぎを覚え続けていた。
撮影準備の合間、光田は何度も例のディレクターズチェアに目を向けていた。それは相変わらずホールの中央に静かに佇んでいる。ただの椅子のはずなのに、そこから発せられる何かしらの「存在感」が、彼を捉えて離さなかった。そして、椅子に目を向けるたび、映画館全体の空気が微妙に変わるような感覚に襲われるのだった。
そんなある日の夜、仲間たちが帰宅し、映画館には光田ただ一人だけが残っていた。次の日の準備を進めるため、ノートを片手に佐伯監督の映像を見直していた時のことだった。ふと、スクリーンに映る映像の中に異変があることに気づいた。
「……あれ?」
再生中のフィルムは、これまで何度も観てきた佐伯監督の未完成の映像だ。森の中を歩く男のシーン。だが、今回は何かが違う。画面の端に、一瞬、ぼんやりとした人影のようなものが映り込んでいるのだ。
「こんなもの、前にはなかったはずだ…」
光田は映像を止め、フィルムを巻き戻した。そして再生を繰り返したが、その影は確かに映っている。男が木々の間を歩くシーンの奥、森の暗がりの中に、人の形をしたものがじっと立っているように見える。ぞくりとした寒気が背中を走り、光田は映像を一時停止した。
「これ…一体なんだ?」
光田は影の部分をよく見ようと画面に顔を近づけた。すると、何の前触れもなく、映画館全体の照明が一瞬だけ明滅した。慌てて振り返ると、ホール全体が薄暗くなり、異様な静寂が訪れていた。誰もいないはずの館内に、微かに人の気配を感じる。
「誰か…いるのか?」
光田が声をかけるが、返事はない。だが、確かに背後で何かが動く音がした。薄暗いホールの中を見回すと、遠くにあるディレクターズチェアがぼんやりと月明かりに照らされている。その椅子が、いつも以上に「こちらを見ている」ような気がした。
「…気のせいだ、冷静になれ」
そう自分に言い聞かせながらも、光田の心拍数は上がる一方だった。椅子に近づこうと足を一歩踏み出した瞬間、今度は耳元で微かな声が聞こえた。
「……振り返るな……」
その声は、どこか遠いようで近い。誰の声なのか分からなかったが、その言葉が佐伯監督のノートや映像に出てきたフレーズと一致していることに光田は気づいた。背筋に冷たい汗が流れる。
「これは…何かの冗談か?」
光田は恐怖を感じつつも、勇気を振り絞って椅子の方へ歩み寄った。だが、歩を進めるたびに空気が重くなり、足元の感覚が曖昧になるようだった。まるで現実ではない空間に踏み込んでいるかのような感覚に陥る。
やっとのことで椅子の近くまでたどり着き、思わず手を伸ばすと、不意に背後で大きな音が鳴り響いた。振り返ると、映写機が勝手に動き出している。止めていたはずのフィルムが回転し、スクリーンには例の森のシーンが再び映し出されていた。そして、そこには先ほどの人影がはっきりと映り込んでいる。
「……なんだ、これ…?」
光田は震える手で映写機を止めようとしたが、その瞬間、椅子の背もたれがギシリと音を立てた。まるで誰かがそこに座ったかのように。
恐怖で足がすくみ、光田はその場に崩れ落ちた。映画館は再び静寂に包まれ、ディレクターズチェアも何事もなかったかのようにただそこに佇んでいる。だが、光田には確信があった。何かがこの映画館に、いや、この椅子に宿っているのだと。
その夜、彼は一睡もできなかった。そして翌朝、仲間たちにこの出来事を話すことはできなかった。ただ一つ確かなのは、この映画制作が単なる「作品づくり」ではなく、何か異質なものを巻き込んだものになりつつあるということだった。
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(第9話へつづく)
(文・七味)