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スタジオベイカー短編小説「ディレクターズチェア」第4話

第4話「未完の映画の構想」

埃まみれの映写室で、光田浩一は再び佐伯謙一郎の未完成フィルムを観ていた。何度見ても、その断片的な映像が脳裏に焼き付いて離れない。男が森を歩く不安げな姿、誰もいない家の中で怯える表情、暗闇の中で振り返り何かに手を伸ばす仕草。どの場面も曖昧でありながら、強烈な印象を残していた。だが、そこには筋道も目的も感じられない。ただ、不可解な空気感が漂うだけだった。

「この映画は一体、何を描こうとしていたんだ…?」

光田はフィルムに残された物語を解き明かしたいという衝動に駆られ、映画館の管理人に再び問いかけた。

「佐伯監督は、この映画をどんな内容にするつもりだったんでしょう? 彼のノートや構想が残っていないんですか?」

老人はしばらく考え込んだ後、小さな鍵を取り出した。

「構想については私も詳しくは知らないが、監督が最後に使っていた部屋には、彼のノートが残されているかもしれない。この映画館の2階だ。あの部屋には、誰も手をつけていないんだ」

光田は鍵を受け取り、急いで2階へ向かった。螺旋階段を上るたびにギシギシと音が鳴り響き、埃の匂いが濃くなる。到着した先には、古びた木製のドアが彼を待ち構えていた。鍵を差し込み、重いドアを押し開けると、部屋の中はまるで時間が止まったかのようだった。

机の上には撮影で使われたカメラやシナリオ用のメモ、散らかった紙が山積みになっていた。その中に一冊だけ目立つ黒いノートが置かれている。光田は恐る恐る手を伸ばし、そのノートを開いた。

中には、文字よりも絵が多く描かれていた。構図や人物の動き、背景のラフスケッチ。森の中を歩く男、遠くにぼんやりと立つ謎の影、振り返る瞬間のカットなど、フィルムに映っていたシーンの元となったようなスケッチが並んでいた。そのどれもが不気味で、どこか異質な雰囲気を漂わせている。

ページをめくると、文字がびっしりと書かれた箇所が現れた。それは映画のコンセプトについて記されたもので、そこには次のような一文が目に留まった。

「人は記憶の中に囚われる。過去に向き合うことで、真実を見つけるのか、それとも絶望に飲み込まれるのか」

光田はその言葉を何度も読み返した。「記憶の中に囚われる」。佐伯監督がこの映画で描きたかったテーマは、人間の記憶や過去の重さについてのものだったのだろうか。しかし、次のページにはさらに奇妙なメモが続いていた。

「暗闇に立つ者は、過去を手放せない。彼らが見る影は、未来ではない」

光田は頭を抱えた。言葉が抽象的すぎて意味を掴めない。ただ、一つ確かなことは、この映画が単なるスリラーやホラーではなく、監督自身の深い内面を反映したものだということだった。

さらにページをめくると、最後の方は荒れた筆跡で記されていた。そこには、一つの言葉が繰り返し書かれている。

「彼は振り返るなと言った。だが振り返らなければならない」

振り返る…何を? 誰が? 光田はその言葉に妙な重さを感じた。まるで佐伯監督自身が、自分の中で何かと格闘し、最後にはそれに屈したような印象を受けたのだ。

ノートを読み終えた光田は、部屋の中央に置かれていたもう一脚の椅子に目を向けた。それは、ホールにある佐伯監督のディレクターズチェアとは異なる、普通の木製の椅子だった。しかし、どこか不自然な違和感がある。彼は何の気なしにその椅子を動かそうとしたが、床に固定されたかのようにびくともしない。

その時、ノートの間から一枚の紙がひらりと床に落ちた。拾い上げると、それは撮影計画のメモだった。そこには「未完」と大きく赤字で書かれており、最後のページに追加のシーンが詳細に記されていた。

「森の奥。最後に見たもの。それは影ではなく、自分自身だった」

光田は震える手でその紙を握りしめた。佐伯監督はこの映画で、自分の中に潜む何かに向き合おうとしていたのだろうか。そして、それが原因で彼は姿を消したのではないか。

「この映画…完成させるべきなのか?」

光田の中で新たな決意が芽生えつつあった。同時に、それがどれほど危険な行為であるのかを示唆するかのように、部屋の電灯がかすかに揺れ、窓から冷たい風が吹き込んできた。

(第5話へつづく)
(文・七味)


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