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スタジオベイカー短編小説「ディレクターズチェア」第10話

第10話「現れる影」

映画館のホールに佇むディレクターズチェア。その椅子の存在感は、時間が経つにつれて光田浩一と彼の仲間たちにじわじわと影響を及ぼし始めていた。佐伯監督が遺した未完成の映画『月夜の囁き』に挑むという大義のもとで集まった彼らだったが、最近では誰もが奇妙な違和感や異変を感じていた。

その夜、光田は再びフィルムの映像を見返していた。渡辺沙織が解析した音声に含まれる謎の声――「暗闇を見つめろ」「影に触れるな」という言葉が頭から離れず、その真意を探るべくフィルムの細部に注目していた。しかし、同じ場面を何度も見直すうちに、どうしても理解できないことが一つ浮かび上がってきた。

「影の位置が…変わっている?」

フィルムに映る森のシーン。木々の間に佇む影のような存在。それは以前に見たときよりもわずかに画面の中央に近づいているように感じられた。位置だけでなく、輪郭も不鮮明ながらどこか人間らしく、形を成し始めているように見える。光田は目の錯覚だと自分に言い聞かせたが、その不安は徐々に強くなっていった。

「こんなはずはない…映像の内容が変わるなんてあり得ない…」

光田は頭を抱えながら映写室を後にし、映画館のホールへと向かった。ホールは薄暗く、古い建物特有のひんやりとした空気が全身を包み込む。誰もいないはずの空間なのに、妙な気配が漂っているのを感じる。まるで誰かがじっと見つめているような感覚に苛まれる。

その時、不意に背後から「カタッ」という音が聞こえた。振り返ると、ディレクターズチェアがわずかに揺れている。光田は思わず息を呑み、椅子に歩み寄った。

「……誰か、いるのか?」

声をかけても返事はない。ただ、椅子の背もたれが微かに揺れるのを見ていると、次第に恐怖が募っていく。光田は懐中電灯を取り出し、椅子の周囲を慎重に照らした。だが、そこには何もない。ただの椅子だ。

「気のせいだ…ただの気のせいだ…」

自分にそう言い聞かせながら椅子に手を伸ばそうとした瞬間、ホールの隅にあるスクリーンが突如白く光り始めた。光田は驚き、椅子から手を引っ込めたままスクリーンを見つめる。

スクリーンには例の森のシーンが映し出されていた。誰も映写機を操作していないはずなのに、勝手にフィルムが再生されている。映像の中では、影がさらに明確な人型を取り始めていた。細長いシルエット、揺れるような動き。影は徐々に画面の手前に近づいているように見える。

「……何だ、これは…?」

光田が震える声で呟いた瞬間、スクリーンの中の影が突然動きを止めた。そして、その影がゆっくりとこちらを向く――まるでスクリーン越しに光田を見つめているかのように。

「やめろ…!」

光田は叫びながら映写機を止めようと映写室に走った。しかし、部屋に入った瞬間、全身が凍りついた。映写機の前に立っている影――それはスクリーンの中にいたはずの存在が、現実の世界に現れたかのように見えたのだ。

光田はその場で足がすくみ、何もできなかった。ただ、影がゆっくりと彼の方を振り返るのを見つめるしかなかった。その瞬間、懐中電灯の光が消え、映画館全体が真っ暗闇に包まれた。

光田が気がついたのは翌朝だった。映画館のホールで目を覚ますと、ディレクターズチェアは以前と変わらずそこに佇んでいた。スクリーンも映写機も何事もなかったかのように静まり返っている。昨夜の出来事が夢だったのか現実だったのか、光田には判断がつかなかった。

ただ一つ確かなのは、影がより近くに迫ってきているという感覚だった。それが彼の心に深い恐怖を植え付けると同時に、映画制作への執念をさらに燃え上がらせた。

「影の正体を突き止める…佐伯監督が何を見ていたのかを明らかにする。それが俺の使命だ…」

光田は自分にそう言い聞かせながら、再び映画館の闇に足を踏み入れた。その時、彼はまだ気づいていなかった。影が彼だけでなく、仲間たちにも徐々に影響を及ぼし始めていることに。

(第11話へつづく)
(文・七味)

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