リアリティ(真実味)とは?
前の投稿(好きな映画を想う。)にて、リアルとリアリティは違うという話をしました。
より突き詰めた話をすると、映像が編集されて加工されて"映画"として世に放たれた時点で、本当はリアル(真実)も糞もないのです。
ノンフィクションやドキュメンタリーでも同じ。
あらゆる出来事は、人に伝えられる形となった時に"物語"となってしまいます。
そういう意味で、映画にはリアルなど無いと言えるかも知れません。
では「どうせ嘘なのだから」と深く考えずに創作をして、果たして良いものが生まれるでしょうか。
現実と創作の区別が(ある程度は)つく我々ですが、時に「どうせ嘘」だとわかりきっているはずの"物語"に本気で感情移入して、泣いたり怒ったり喜んだりしますよね。
そこには"リアリティ(真実味)"があります。
それっぽさ。もっともらしさ。と言い換えても良いかも知れません。要するに嘘なんだけど、すごく上手い嘘をついてくれている、ということです。現実と錯覚してしまうほどに。
本当はこの世に魔法なんてないのかも知れません。
しかし創作物の中で、それっぽい設定のそれっぽい世界で、それっぽい格好をしたそれっぽい人物が、それっぽい呪文を唱えてそれっぽい魔法の杖を振ったら、魔法はそこに存在するのです。
正確には"存在するように見える"のです。
これを怠ると、俳優がコスプレして踊ってる映像に、CG班がVFXを付け足しただけにしか見えません。
おまけに設定や世界観、そこに至るまでの展開すらもガバガバなら、サスペンスやカタルシスなど感じられるはずがない。
つまり"どうでもよくなる"のです。
リアリティのある作品の好例として、やはり僕はディズニーピクサーの『トイ・ストーリー』を推します。
前の投稿で触れた通り、オモチャが動いて喋って生きている、というのは大嘘です。僕の知る限り。
どうせ嘘つきなのだから、魔法や奇跡が存在したって構わないはず。しかし制作陣は、ここに極めて精緻な"嘘のバランス感覚"、すなわち"リアリティ・ライン"を設定しています。
例えば、主人公のカウボーイ人形・ウッディ。彼は生きています。オモチャですが。人間の見ていない所で動くし喋るし、オモチャたちが形成する社会のリーダー的立ち位置に君臨しています。(彼らオモチャたちには、壊れる=死という概念がキチンと存在しています。逆説的に彼らは"生きている"と言えるでしょう)
しかし彼は、あくまでカウボーイ人形のオモチャです。魔法で火を操ったり、人間離れした超スピードで移動したり……なんてことはできません。
"オモチャが生きている"という、あり得ない大嘘をついているにも関わらず、制作陣は決して"生きているのはオモチャである"という彼ら自身が作ったルールを破りません。どこまでも律儀に、ウッディたちは"生きているオモチャたち"であり続けます。それ以外の何者でもなく。
(彼らの"生の意味"であるとか、オモチャとしての在り方とか、シリーズを重ねてそういう次元にまでテーマが及んでいるのは、とてもすごくてえらいことなのですが、今回は論旨がブレるので触れずにおきます)
ウッディの相棒となるスペース・レンジャーのオモチャ、バズ・ライトイヤーも同様です。彼にはイカした翼が生えていますが、決して空は飛べません。腕から放つレーザーはエイリアンを焼き殺すことなんてできないし、恐らく彼の装甲は宇宙の環境に耐えられないでしょう。市販のオモチャですから。
(この、バズがオモチャなので飛べないという"リアリティ・ライン"を、作品全体のテーマ、物語の核にまで昇華させているのが『トイ・ストーリー』1作目の本当にすごい所だと思います)
総じて、何が言いたいのかというと。
『トイ・ストーリー』の制作陣は"オモチャが生きている"という、たった一つの、奇想天外な"大嘘"を成立させる為に、膨大な努力をしている、ということ。
ウッディが走る時、彼の両腕は激しくブランブランと揺れ動きます。当然のことです。彼の腕には骨も筋肉もなく、綿が詰まっているだけなのですから。
オモチャたちの一挙手一投足、あるいは存在感そのものが"リアリティ"に満ち溢れています。彼らがオモチャとして思い悩み、葛藤や苦悩を乗り越え成長していく様は、我々に"生きた感情"の存在を錯覚させます。
本当は彼らは存在しない。ただのCGアニメーションに過ぎない。そんなことは百も承知で、しかもオモチャが生きているだなんて。荒唐無稽にも程がある。
それでも観客は、彼らに"感情移入"をしてしまう。何故か。オモチャが生きている大嘘を成立させ、観客に感情移入させる為の、制作陣による果てしない心配りがあるからでしょう。大人が大勢集まり、頭をフル回転させて、考え抜かれた"全力の嘘"をついたのです。
映画かくあるべし!
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