軌跡 3 ~暴力の果て 自殺未遂~
誰しも一人一人それぞれの歩いてきた軌跡や
それぞれのドラマがある。
これはクソだらけの私の軌跡のページ。
クソだらけの人生を歩くつもりは無かった。
だけど、いくつもの選択肢があった中選択し
自分が決めた道はほとんど全てクソ過ぎた。
トイレまで追いかけてきた兄の
「やれるもんならやってみろよ!」との言葉に
包丁を向けている私はパニックになった。
近づいてくる兄。
でも幼い頃と違って私には兄を刺す勇気は無く
包丁を降ろし、もう諦めるしか無かった。
そうして殴られて、階段から落ちた。
祖父は打ちどころが悪く
寝たっきりになったみたいだけど
私は大丈夫だった。
ただ、殴られたお腹と壁に
ぶつかった背中がズキズキ痛むだけで済んだ。
(*`ω´*)ドヤッ
流石にやりすぎたと思ったのか
それ以上はしてこなかったけれど
その頃からずっと「死にたい」という気持ちが
少しづつ芽生えてきた。
兄のタチが悪い所は
見える場所や顔は殴ってこなかった事。
祖母は知らないフリ
母はそんな兄妹を見てもう呆れていた─────
(´・ω・`) ショボーン
時を同じくして小学校では
いじめられっ子と一緒にいて
ハブられるだけじゃなく
目に見えるいじめにまで発展していた 。
ある日は靴がゴミ箱に。
ある日は靴に画鋲。
机に“死”の落書き。
ある日は人が沢山いる中で
肘で攻撃された事も。
ただ家での出来事の方が辛いから
全然平気だったし
そのくらいの事ならやり返した。
入れられた画鋲とかは
その辺に巻き散らかしたし
死と書かれたのは机蹴って
教室出て学校サボったし
肘で攻撃されたのは
そのまま肘で私もお返し等。
(o゚Д゚)=◯)`3゜)∵
ある日「死ねばいいのに」と言われたから
そのまま「別にいいよ~」ってカッターを
自分に当てて刺そうともした事もある。
何もかもがどうでも良くなったからだ。
勿論、見つかった担任にビンタされて
「死のうとしたならこれは痛くない!!
世の中には生きたくても生きれない人がいる」等
沢山言われたけど正直ビンタされた頬が痛くて
ほとんど聞き取れなかった。
今思えば小学校5年生にて問題児だったと思う。
(#)Д`;;)イタイ!!!
担任にビンタされてから
小学校にまともに行かなくなった。
家の押し入れで隠れるように寝たり
病気のフリしたり。
そうして休んだ学校、
母はパチンコに夢中で
兄は学校、祖母は老人ホームに行って
誰もいない家に1人ひたすら寝ていた。
そんな私を見て兄は
次第に暴力を振るわなくなった。
死んだように毎日
寝ていたからかもしれない。
仮病を使っていたから
母は怒っていたけど。
ある日“薬を大量に飲めば楽に死ねる”
そう思った私は家にある薬をかき集めて飲んだ。
死のうと決意したのだ。
下剤、風邪薬、ロキソニン・・・
多分50錠くらいだったと思う。
飲んだ後は眠くなって
「このまま死ねるのか」と嬉しい気持ちになり
不謹慎ながらもわくわくして寝た。
しかしそんな気持ちとは裏腹に
気持ち悪くなり起きた。
猛烈な嘔吐だけを繰り返し
結局私は死ねなかった。
黄色くて苦い水をずっとその日は吐いていた。
_| ̄|○、;'.・ オェェェェェ
人は簡単に死ねない生き物なんだと思い
小学5年生での浅はかな自殺未遂は
ひっそりと幕を閉じ
怒りの捌け口はリストカットしかなかった。
手首から流れる血だけが唯一、私が楽になる
そんな気持ちにさせられた。
学校をたまに行っては休みを繰り返し
中学生になった頃。
最初は何だかんだ真面目に行ったし
ずっと親友と一緒にくっついてたと思う。
部活もやっていたけど
私には何をやっても才能が無いのか
途中で諦めて、勝手に帰宅部になっていた。
勉強も正直小学生の時に
休んでばかりで追いつけなかった。
何もかもが
どうでも良かった気持ちになっていたから
何をしても続かなかったのだと思う。
中学生にもなれば
母も完全に育児放棄だった。
それも今までを考えると
そうなるかもしれないと納得させていた。
ただ言えるのは、手首を切りたかったし
寝たかった。眠たくて仕方なかった。
夢の中だと唯一幸せな気分になれる。
そう思って過ごしていたけど
家ではご飯は用意され無いからお腹は空く。
いつの間にか昼に学校行って
給食だけ食べて帰って寝る日々を過ごしていた。
:,('ω' ))ムシャムシャ
勿論、そんな私だったから
好きな物を買って貰えず
好きな服も中々買って貰えなかった。
お年玉も貰ったことはない。
けれど中学2年、母が兄の携帯を契約するついでに
私の分も契約してくれた。
初めての携帯、当時はガラケーだけど
物心ついて初めて嬉しかった瞬間かもしれない。
ワァ───ヽ(*゚∀゚*)ノ───イ
それからというものの、私は
死にたいという掲示板に「死にたい」とか
くだらない事を書いたり
モバゲーしたりとかの日々だったと思う。
行き場のない心の吐き場所が欲しかったんだ。
そういう日常を過ごしていたら
中学校側から教室に居なくていいから
相談室に通って下さい。と言われて
教室に通わなくていいならそれでもいい
そんな気持ちで通うようになった。
トコトコ(((((*´・ω・)
相談室は楽しかった。おばちゃんが
大嫌いな勉強じゃなくて
生け花を教えてくれたり、絵を書いたり。
何かビーズみたいなのを重ねて
アイロンをかけて一つの作品にしたり。
楽しいあまりに
おばちゃんが開催し、誘ってくれた
YOSAKOIにも積極的に参加していた。
踊りは目に入れたら
痛すぎる下手さだったと思う。
(((└( 'ω' )┐)))ドンドンチャカカ
夢の中じゃなくて初めて現実での
居場所を見つけたようなそんな気持ちになった。
多分この日々があったから
私は物を作ることが今でも好きなのだと思う。
そんな感じで私が相談室で充実していたら
いつの間にか、親友も相談室に居座っていた。
途中で2人で色々と
習い事みたいなのをしていた気がする。
しかし中学2年生になる頃に
おなら事件に続く事件がやってきた。
その頃の兄は高校生になっていて
悪友達と一緒に家に入り浸っていた。
入り浸っている部屋を横切る時はいつも
煙草の煙がとても臭くて
賭け麻雀をしているように見えた。
( *`ω´)y━・~~
理不尽な暴力が無くなって以来
お互い無関心でいたから
兄と兄の悪友が何しようと
私にはどうでも良かった。
─あの日までは─
─────4へつづく·····
/⌒ヽ
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E ̄U) ε |
E ̄∩) ・ >
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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