『アラビアンナイト千と十一夜珈琲店:X版』②(死者たちの復活の祈り集)草稿中
■アイリッシュ珈琲をおいれしたつもりはありません
「きれいねぇ。ちゃらくない素敵男子発生率はそんな高くないと思うの。稀に見る逸材って騒がれてたのはわたしでも知ってる。そういうことね。納得。一見にしかず。日本版アラン・ドロン。古いかしら?誰にも似てないわ、Xさんよ!まっすぐさと透明度と貫禄まであって色気もあるなんて」
翔子は興奮しているがXは静かに珈琲を飲んでいる。声が聞こえているのか聞こえていないのかわからない。
「珈琲飲む姿も素敵。あ、ごめんなさい。プライベートなんだから、まじまじ見られるの困るわよね。芸能の世界の方も人なんだから」
翔子はさっと目を珈琲に向け、小花が咲いた優雅な形をしたカップを口元に運んだ。
「おやおや、アイリッシュ珈琲をおいれしたつもりはありませんよ」
「顔、赤い?よね、赤いよね。やだ、春が来たわ」
翔子は頬を手で覆ってから珈琲を見つめて言った。
「わたし確かに変わった見たい」
「何がですか?」
「年齢と聞いたらすぐにわたしは年だから、なんて答えてたのが、今じゃアラフォーは若い、随分と若い、これからよ、なんて言ってるのよ。あの人格豹変剤のセロトニン投与なしで言ってるの。これってマスターの洗脳技術かしらね」
「洗脳ですか?これはこれは」
マスターは食器をふきんで拭きながら渋みのある声を響かせた。
「あら言葉が悪いかしら?言葉選びでえらく違って聞こえるわよね。伝言ゲームみたいに、いいものもいつのも間にかかびだらけのふきんみたいになっていることがるわ。あら、失礼。洗脳よりもコーチングって言う方が合ってるかしら?コーチングだって一種の洗脳じゃない?ご本人をいい方向に向かわせるために洗脳技術を駆使しているんでしょう?社会的な更生だってこれも洗脳よ。洗剤も洗脳、調味料も洗脳、住宅ローンも洗脳」
「ふふふ。さしずめ宗教にはまった方は、脱洗脳という洗脳かしら」
と、芽依は首を傾げた。Xは珈琲の香を味わっては口に運んでいる。所作には品が備わっている。
「じゃ、作用とでもいおうかしら。わたしたちってほら、出会ったらなにがしかの作用を受けるものだわ。ただ通りすがりの人でさえもわたしたちは何かの情報を得たり安全か否か好ましいか否か、無意識下で判断してる。
チームを組む、友人の輪に入る、家族になる、上司になる、そんな身近な関係にでもなれば、作用は自然大きくなる。」
翔子は人差し指を立てて続けた。
「シンプルに、幸せ度合いがますか減るかよ」
■なたの影響の受けやすさはいかほどですか
「そうですなぁ。影響をうけやすい受けにくいは人によって違うでしょう。太陽に当たればある人はほとんど変わらず、ある人は黒く焼け、ある人は赤くなってからのち白きに戻り、別の人はただれ腫れまるで火傷をしたかボクシングで戦い抜いたのかと思えるほどの状態になる。そんなことは何も太陽の光だけではなくて外界の刺激に総じて言えること。
人の社会性について言えば、新しく人と出会い関わりを持てば充実度がますか否か、言い換えれば自己受容感がますか減るか、ですな。程度はといえば人の数だけあるのです。
時が重なれば出会いによる自己受容感の蓄積がまるで富士山のように高くなり、ついで山頂まで登ってご来光を浴びでもしたかのような至福感情をしばしば感じるようになることもあれば、気が付けばマリファナ海溝の奥に沈み込み暗闇で佇む、そんなこともあるのですから」
「生き甲斐に近づくか遠のくか、仕事で新しい道を開くか行き詰るか、貯金が増えるか減るか、持てる才をつぶれる方向に偏るか、伸ばし活かせる道に進むか、あらゆるところで環境の影響はありますわ。人は環境の生き物ですもの。どんな環境でも屈しない志を見つけ育てることは、ことさら大切ですし、人や環境のせいにしない、自主気鋭の精神を持つ、これは物事をうまくやり遂げるうえでとても大切なことと思いますけれど、それはあくまでも気持ちのありよう。環境の影響は多分にありますわ」
翔子は芽衣の語ることに神妙にうなずいた。芽衣は以前の職場で上司からモラルハラスメントを受けていたことを翔子に話した事があった。
※
「芽衣さんほどの人ならどこでも働けそう」
と翔子が芽衣の博識に慨嘆したとき芽衣はここにいる理由を伝えたのだ。
「ありがとうございます。マスターを手伝いたいのです。マスターが志すところと、わたくしのそれの方向性が同じですから。それに、ここにいた方が今のところ一番うまく人様のお役にたてると思いますの」
ここにやって来た理由については多くは語らなかった。生真面目さや自らを問い詰める性格、周囲への過敏さがためにモラハラが深刻化し、右も左もなくなり気が付けばここで珈琲を飲んでいて、やがてここでマスターの手伝いをするようになった、翔子が知っているのはそれだけだった。
「わたし紅茶派でしたのよ。それなのに、うふふ、珈琲を飲んだんですの」
と目を輝かせて語ったのだった。珈琲は神妙な飲み物で黒はあらゆる色を含む、とは翔子の記憶に残っている言葉だった。
芽衣はこの珈琲店の成り立ちを遠の昔に知っていたし、いつでも入り口とは別の扉に出口が用意されていたのだが、珈琲の香り漂うこの場にとどまることに決めていた。店内には、00の音楽が流れていた。
「人は出会うで人で変わるのですよ。よくも悪るくも。」
マスターのサックスのような音が響いた。
■外界へのセンサー
「当たる人によってはとんでもない地獄を見ることだってあるのが人との出会い、それは納得だわ」
「擦り切れ摩耗して気が付けばぼろ布になってる、そんなこともありますわ。ぼろ布さんはお疲れ様ってお礼を言ってリサイクルして新生することが断捨離の基本ですわ」
「芽衣さんたら」
「人との出会いが陰と出るか陽と出るか、さいころをふったような偶然性ではなく必然ではないかと思いますな。出会ったときの心の状態といいますか、自己認識の精度によるといますか。
似たような状況に置かれてもご本人の状態で随分と過程も結果も変わるものです。わたしたちはなるだけ環境やら人様やらに影響をうけないようなぶれない軸というものを築いていくものですし、『自己責任』の名の元、環境のせいにしない自立精神を尊ぶものですし、事に当たるにはそうあるべきと私も考えますが、元々生来的に影響を受けやすい人もいれば受けにくい人がおりますな。人はおもしろいですな。豹でも鴨嘴でもいるかでもないわけです。人なわけです。それでいて一卵双生児といえども同じであることはあれませんから」
「一卵双生児でもオリジナルがあるのですわ。ご両親からひきついだもの以外の遺伝があるのです。」
「子供オリジナルの遺伝がるってこと?」
「はい。そこにその方の個性や才能が眠っているのではないかとも言われていますの。遺伝学はやっと登山の入り口に入ったところです。この先が楽しみでなりませんわ」
「遺伝詳しいわねぇ」
「好きですの!知ることが。それをもとに考察するのが趣味ですの。人を知ることって結果わたくしを知ること、わたくし自身のことを知ることは果てのないことですけれど、とても喜ばしい。この喜びは素直に従ってもいい喜びだと、マスターが教えてくれましたわ」
「翔子さんは、遺伝子お調べになったことおありになります?」
「ないない、ないわ。息子の調べたいわ」
「遺伝子でその人が決定されることなんてありませんけれど、
それでも今ではビッグ5なら調べることができますわ。
刺激の受けやすさは当然ですけれど人はみな違いますわ。その差はレオナルドダヴィンチとわたしの描写力との差ぐらいあることも普通にあると思いますの」
芽衣は胸元に隠れていたペンダントを出した。そこには猫の絵がパステルカラーで描かれていた。確かにお世辞にも上手とは言えなかったがこじゃれていた。
「かわいいじゃない。カラーリングがおしゃれ」
「ふふ、ありがとうございます」
「同じ人でも例えば若い頃は刺激を受けやすい。『若い人は教育されたいんじゃない、刺激を受けたいのだ。』なんて言ったのはわがゲーテです。若きは自らを高みにもたらす人、環境に惹かれるものですな。なぜって刺激の受けやすさを意識してか無意識化、知っているんじゃないかと思うのですよ。で、若いころの外界の刺激で自己を形づくっていくのでしょうな。感受性の高い時期は若いころにとどまらず、成熟してからも高い人もいますな。よく子供のこおろ充分な自己愛が育たないまま大人になった人をインナーチュルドレン、なんていいますがそういう人たちは子供のままの高い感受性を維持しているのだと思ういますよ。良くも悪くも子供のように外界の刺激を受けやすい。遺伝的にもとから感受性が高ければ拍車をかけて外界へのセンサーが高くなるとわたしは考えています。あ、これは心理学者が言っているわけではなくてわたしの意見ですよ。」
「扁桃体モスラーってとこね。それで、恐怖や不安やらの負の刺激を受ければ受けるほどさらに扁桃体モスラは大きくなる。」
「うふふ、モンスターだなんて、翔子さんったら。扁桃体のおかげで、わたしたちはサバイバルしてきたのですし、記憶も想像も扁桃体」
「
頭と筋肉使えば使うほど発達しても肌はかけばかくほどかゆくなる。扁桃体もどんどん大きくなる。この一貫性が陽に出るか陰に出るか、ものによるのね」
「本当ですわね」
■
「意識にのぼることもなく知らずと外界の力で大きく揺らされた振り子の上で踊らされることもありますよ。。」
マスターはカウンター越しで00をしている。
「あはは、わたし踊ってたわ、ほんと見事に踊らされてた。擦り傷かすり傷心の傷でへっとへとになったわ。満身創痍ってもの。地球の自転では宇宙に放り投げられることもないというのに、振り子からブォイと飛ばされてね、それから慣性の法則ってものかしらね、踊りに踊るのよ。華麗で優雅なバレエの舞台ともTickTockで1分踊るのとも違う次元でね、ダンス。茨の森通り越してたどり着いたのは苦虫をすりつぶした汁でできた沼の中。どっぷん。息を吸うことも苦痛。息を吸うこともままならない」
「翔子さんったら」
「こんなおしゃべりじゃなかったのよ。まぁいいわ。それがね、今ではとまらないぐらいにおしゃべりできるわ。
それに何よりただいるだけでねほぉっと幸せな気持ちで満ち満ちるのよ。不思議なものね。ただ在るだけで幸せってこれっていいのかしら?」
「わたしは人間的成長のひとつの敷居だと思ってますよ。そこからまた新たな始まりがあるのではないですかな」
「あ、それわかる。これから本当の人生が始まるって思うのよ。本当も嘘もなくて今までも人生。幻っていったって人生なんだけどね、そう思ったの。不思議ね」
Xが珈琲カップを置いた。かちゃりと小さな音がした。珈琲店の音である。
「不思議でもなんでもないですよ。珈琲の力で目覚めたのですよ。この魔法の珈琲の力は偉大なり!あなたの明晰性、悟性、知性、感性を覚醒しに絶妙のバランスを提供する、魔法の飲料がアラビアンナイトの珈琲です。珈琲新しくお入れしましょう」
Xはかすかに微笑むと、Xは壁を観察し始めた。何も聞こえてないようでもあり、聞こえてくる音の源を探すようでもあった。
■
マスターは首をまわし腕を回しそれから屈伸を始めた。正当派老舗珈琲店さながらの服装だが足元はスニーカーである。珈琲を入れる準備をはじめたのだ。まるで実験室のようなガラス用具が整然と並んでいる。
芽依はもちろん、翔子もマスターの体操を見慣れていた。
「いつも言葉と思考に母を求めて三千里ぐらいの距離があったはず。あ、古い?それがこんなにぺーらぺらと話してるって不思議」
「珈琲の力ですよ。発話の手前に喉につかえていたものがなくなるのです。飲む人にとっての真実を語らずにはいられなくなるのですよ。世に真実は人の数だけあるところのご本人にとっての真実を語らずにはいられない」
「納得。楽なの。いつも相手にどう伝わるか、誤解があったらどうしようか、こういったほうがいいんじゃないか、って考え過ぎて、HSPの典型よろしくへろへろになってたのに、今は話すのがすごく楽なの。以前よりずっと私らしくあれるように思う。珈琲かしらね。のどのつかいがとれっちゃった。マスターと芽衣さんの人柄な気がしないでもないけどね」
「両方です、といきたいところですな。珈琲とわれわれの人格、両方ですと、ははは。」
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「しかし嬉しいですな。翔子さんは、まぁなかなか腹を割って話さない人でしたから。まだ話きっていないことがあって翔子さんから出るのを待っているようですが、明るくなりましたね」
「でしょう?母は太陽、なんてあったわよね。わるいわね、わたしは陰の照らない月、灰色の夜に星のうしろで黒く隠れる月夜、なんて思ってたのはいつだったか。そこのほおずき色のランプより明るいでしょう」
オレンジ色のランターンには蠟燭の炎が揺れている。
「この店にやってきた当初はまず語らない。リャドロの置き物のように下向き加減でだまったまま、たまに瞬きながら珈琲を飲み続けている。何か聞けば死んだような眼をしてこちらに口元だけの笑いを向ける。やっと口を開いたかと思えば、もう年よ、先などいらないしそんなものないわ、過去だって無に帰すのよ、未来は異空に吸い込まれて消えてしまえばいい、ただ消えたいとまぁ・・」
「消えたいっておもってからが人生よ」と翔子はさらっと言ってからXを見た。
「ね、仏像って心洗われるでしょう。あの穏やかな慈しみが自分の心にうつるんでしょうね、仏像はそれで本望だって喜んでいると思う。で、人にうっとりしちゃうのってこれって、セクハラかしら?」
「ははは。どうでしょうな。何をどう受けとるか、自由といいますか、人間の第一の反応に罪がありましょうか。その反応にどう対処するのか、その選択に責任はあるのでしょうな。
それにしても
いやぁ、嬉しいですなぁ、翔子さんは変わった。誰も彼も珈琲豆だって岩だって、刹那として同じ状態はありませんな、惑星は周り太陽は燃え素粒子の世界では右へ左へ上へ下へ、瞬間移動までする変化の連続なわけですから、翔子さんが変わったのは自然なことでしょう」
「翔子さんは良くなられたのですわ」
「ははは、そうです。良くなられた。一人が変われば、その周囲の10人が変わる。それでその周囲の100人も変わって行く。ははは。いいですなぁ。ははは」
マスターは眉を動かし快活らしく笑った後、さりげなくXを見た。Xは黙々と珈琲を飲んでいたが、その頬に赤味がその目にまっすぐとした生気が加わったのをマスターはしっかりと観察してほほ笑んでから
ごほん、と咳払いをした。
「最近では自分は若いと思っている人は実際に細胞レベルで若いそうじゃないですか。楽観性は大切ですな。それに、脳の寿命は今のところ200歳とも言われているそうですし脳の神経細胞も増えるとか。一昔前は脳細胞は減り続ける、なんて言われていましたが、覆った。増えるんですよ」
「それね、言い訳ができなくなったわね。漫然と暮らしていれば、紫外線やら電磁波、時の経過、つまり老化にさらされた肌のように動かさない筋肉のように衰えゆく。一方運動に適切な食事の日常が伴えば、筋肉同様に頭蓋骨の脳は若々しくいられる・・。これってね、もう年だからが効かなくなるってことよ。やれ有酸素運動でミトコンドリアが活性化。それBDNFか、ABDNFGZあー、頭痛い。知って仏か知らぬが仏か」
翔子が机に顔を付けて臥した。
「翔子さんったら。うふふ」
芽衣は翔子の珈琲カップをカウンターに持って行った。
Xは?透った眼差しには知性と理性が数段目覚めてみえる。
■
「そもそも時間なんてものもなくわれわれも無だというじゃないですか。それを物理の博士さんがたが証明しなすった。ね、芽依さん。」
息が弾むマスターに芽依はほほ笑んだ。
「まるで禅じゃないですか。色即是空。感覚だけではない、そもそも宇宙が無。だからといって、目の前のサイフォンもビーカーも指をならせば消えるってことはありませんし、お客さんがやってきては出発される、宇宙には阿吽がある。始まりがあって、終わりでワンセットですなぁ。幻とはとうてい思えません。遺伝子が見せる色、感触、視覚、もろもろの感覚は幻であっても消えることもない」
「願っても消えないわよぉ。しょせん囚われてて、囚われも幻想だっていったって、とらわれてるのよ」
「ははは。手を動かせる、屈伸ができる、呼吸ができる、自由なところに目をむけるしかないですかな。
阿吽の間に生きるわたしたち人間にとっては、確かに過去があり今がありそして未来もあるように感じられる。苦楽もしかり。どんなものも永続しないし、そもそも永遠なぞないというのだけれどもそれと気が付かないうちは、変えられる遺伝と変えられない遺伝から作られた体と
自分で作った箱の中でもがく。妙な生き物ですな、われわれは。一体われわれはなんなんでしょうな。」
「あなた方は、アラビアンナイトナイト珈琲店のマスター、芽依さん、それから翔子さん。それで僕って、一体だれですか。」
徐にXが顔をあげた。
場がすんと静まった。
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