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それでもあなたは自分が私の父親だと言う 第四章①

第四章
1
 都内の支局へ異動して半年あまり、リーダーとしての業務にも少しは慣れてきた頃のことだ。9月生まれのルカは31才になっていた。私用のスマートフォンに見知らぬ番号から電話が入った。社用スマホなら珍しくないが、私用の方に登録していない番号から電話が入ることはあまりない。
 仕事中だったこともあって無視したが、着信は数回に渡り、メッセージ録音機能に切り替わると切れる。なんとなく嫌な予感がして、こちらからかけ直す気になれずに放置したら、翌日にも同じことが繰り返された。
 この日、最後の着信時にメッセージが録音された。
 録音されている間、話す相手の声は小さすぎてほとんど聞き取れない。年配の女性の声ということはわかった。あと、聞きたくない名前が出たような気がした。仕方なく、ボリュームを大きくして再生ボタンを押した。
 「雄二のことで話があるので、この番号に連絡…」
 何年もかけて閉めようとしてきた箱のふたを、簡単にこじ開けられた気がした。

 20年近くぶりに向かう下田への電車の中、ルカは何度も立ち眩みと吐き気を催した。じんわりとかいている汗は、念のために着てきたコートのせいでも、効き過ぎている車内の暖房のせいでもない。向こうからは下田市内にある総合病院に来るように言われた。命じられた、に近い。あの家に来るように言われなかったのが唯一の幸いだ。あの家に行くとなっていたら、この様子だと気を失いかねない。
 外の秋晴れが嘘のように、病院内は薄暗い作りになっていた。5階建てとはいえ、総合病院という割にはあまり大きくなく、設備も古そうだ。診察時間ではない時間を指定されていたため、1階の受付に人の姿はまばらだった。受付で要件を伝える。あの電話の後、病院の経理課の鈴木さんという方とコンタクトを取っていた。簡単な概要はその際に聞いている。
 座って待っていると、廊下の向こうから声をかけられた。
 「福永さんですか?」
 グレーのスーツ姿、白髪の小柄な男性がリノリウムの床の上をこっちへ向かって歩いてくる。その視線がルカの下から上へと移っていくのがわかった。
 「は、はい。」
 「遠いところをわざわざすみません。私が矢島総合病院、経理課の鈴木です。電話では失礼しました。早速ですが、こちらへついて来ていただけますか。」
 そのまま階段で2階へ、会議室のような小部屋に通されると、既に2人がパイプ椅子に座っていた。奥の女性は見た目にも、この場にも不釣合なブルーのトレーナー、男性はくたびれたモスグリーンのスェット、多分、上下お揃いのものを着ていた。鈴木氏はその横、一番手前に座る。既に3人の前のテーブルには紙コップ、コーヒーらしきものが置かれている。半分ほどになっているのは、ここには少し前に来ていたからなのだろう。
 ルカはテーブルをはさんで3人の正面に座った。
 「こちら、溝渕さんご夫婦です。奥の方が最初に電話した…、福永さんの叔母様にあたります溝渕美恵子(みぞぶちみえこ)さんです。」
 「あ、はい、お名前はお聞きしています。福永ルカです。」
 少なくとも自己紹介から始めてくれる常識がある人がいてくれたので、ルカはまずはほっとした。
 「本来、私が話すようなことではないのですが、溝渕さんご夫婦が、うまく話せる自信がないとのことですので、本日は同席させていただいております。」
 最初、鈴木氏からは仕事のことを聞かれたので、ルカは聞かれるままに答えた。答えている間、奥の席に座っている美恵子、叔母の様子が気なる。美恵子は先ほどから一言も発していないくせに、ときどき、刺すような視線をルカに投げてきていた。
 叔母、つまりルカの父親、福田雄二の姉とのことだが、ルカには会うどころか、話に聞いた記憶さえない。トレーナーが浮くほどの細身、なで肩の体型は、色黒でがっしりした雄二にはまるで似ていない。
 「電話では簡単にしかお伝えしていませんでしたが…」
 鈴木氏がトーンを変えた。
 「福永さんのお父様、福田雄二さんが当病院に入院されています。」
 「そ、そうらしいですね。」
 「脳梗塞です。詳しい容体は主治医から説明させますが、あまり芳しい状態ではありません。」
 「は、はぁ。」
 「まずはお父様にお会いになりますか?」
 「いいえ。説明を聞く気も、父に会う気も全くありません。」
 これをきちんと伝えるためにやって来たつもりだった。さっきから吐きそうなのを必死にこらえているのも、これを言うためだ。
 「あんた、まだそんな勝手なことを言うの!」
 美恵子が急に立ち上がって叫んだ。血走ったその眼が父親とまったく同じで、ルカは気を失いそうになった。

 ルカの父親、雄二はこの年の夏の終わりに、自宅で倒れ、救急車で搬送された。福田の家には両親、ルカの祖父と祖母もまだ住んでおり、すぐに救急車を呼んだこともあって、命に別状はなかった。しかし、後遺症で手足が麻痺し、意識障害も出ているため、未だに入院している。高齢で痴呆も出ている両親には、手続きなどの事務作業が頼めない上に、高額にかさんでいく入院費用を払うあてもなさそうで、困った病院側がやっとのことで両親から聞き出したのが、長らく連絡を取っていなかった福田家の長女、雄二の姉の美恵子の存在だった。
 病院からの連絡を受けて、結婚して姓が溝渕になっていた美恵子は、もろもろの手続きなどは済ませるも、入院費用を払うことは拒否する。彼女の夫の意向でもあった。さらに困った病院が提案したのが、実の娘、ルカへの連絡だった。その連絡が10月になったのは、ルカの連絡先がなかなかわからなかったためである。

 「雄二さんは要介護になっていますので、入院が続くことで費用は膨らんでいくのも確かですが、退院を急いで自宅治療に切り替えたところで、そのお世話が必要になります。それらをお願いできるのはご家族の方しかいないのです。」
 「はぁ?家族と言われても、私は父とはずっと、それこそ家を出てから20年近くも会っていませんし、それを今更、面倒を見ろと言われても。」
 何かを言いかけた美恵子を留めるように、溝渕氏が口を開いた。
 「ずっと疎遠なのは、うちの美恵子も一緒ですよ。それでも、急に連絡が来てからは、いろいろ骨を折ったんだ。その上、入院費もこれからの介護も、そこまでの責任はうちにはないと思いますけどね。」
 「いや、それは申し訳なかったとは思います。でも、私はとっくに福田ではないんです。中学の時から母方の福永になっていますし。」
 「あんた、それでも娘か!父親を可哀そうとは思わないの!」
 美恵子がまた叫んだ。
 「福永さん、」
 今度は鈴木氏が美恵子を遮るように口を挟む。
 「福永さんがお母様の姓になろうが、福田家の戸籍から抜けようが、雄二さんの実子であることに変わりはないのです。同様に美恵子さんも雄二さんの実のお姉さまであることに変わりはありません。このことは溝渕さんにもお伝えしております。」
 美恵子は、今度は血走った眼を鈴木氏に向けた。
 「私から、どなたに請求しますとは言えませんので、なるべく早急に、病院への支払いをどうするかをご家族、介護者である皆様で話し合われて決めてください。」
 「私にも支払い義務があるということですか?」
 「はい、残念ながら。という言葉が不適切なら、すみません。でも、福永さんにはこれを拒否する権利はありません。これは法律で決まっていることなのです。」

 結局、この日、ルカは雄二に面会させられた。
 主治医からの説明も聞いている。
 「これでも随分と良くなっています。今は子供、幼児に近いような状態ですが、リハビリを続ければ、意識はもっとはっきりしてくる可能性はあります。体の麻痺については、現段階ではどれだけ回復するかを申し上げることはできません。」
 ベッドに横になっている雄二は、白いシーツに申し訳ないほど、どす黒い肌をしていた。ルカの記憶が正しければ、まだ54才のはずだが、くぼんだ眼、定まらない視点、たるんだ頬、開いたままの口は、不健康な老人にしか見えない。それなのに、肌は異常に脂ぎっていた。言葉なのか、ただのうめき声なのか、始終何かを発しているが、全く聞き取ることはできず、ベッドからはみ出た左手はずっと小刻みに動いている。ルカを見ても、認識はできていないようだ。
 ちょうど、リハビリのための車椅子に乗せる時間にあたったようで、複数の介護士がその作業を淡々とこなしてくれていた。
 -すみません。
 いつものようにルカが申し訳なく思った瞬間、病院着の隙間から雄二の局部が見えた。
 「ごめんなさい。」
 ルカは病室を飛び出し、トイレに駆け込んだ。そして、吐いた。昨日からほとんど何も食べていない胃には吐くものがなく、ただ酸っぱい胃液だけを吐き続けた。


2
 この数日後、ルカは都内の弁護士事務所を訪ねる。
 以前に伺ったことのある駅ビルの最上階近くのワンフロアを貸し切ったオフィスではなく、駅から少し離れた雑居ビルの2階、ほんの一区画を借りた、お世辞にも重厚とは言えない、小さな事務所だった。
 「ルカさん、お久しぶりです。お声をかけていただいて光栄です。」
 以前は長かった髪を、今はばっさり短くしていた。それが似合っていると思えてしまうのは、少しは彼女の性格をわかっているからだろうか。相変わらずきれいに揃えた前髪も彼女らしかった。
 「もう何年前になりますか?お母様のマンション購入は。」
 絶対に覚えているだろうに、こちらに話をさせてくれる気遣いも昔と変わらない。
 「祖父が亡くなったのが2009年の夏でしたから、かれこれ、7年前になりますかね。」
 「あぁ、もう7年にもなりますか。確かに、当時はまだ学生みたいだったルカさんがすっかり大人の女性になってますものね。」
 「いやいや、私は老けただけですよ。大塚さんは全然、変わらないですね。というか、髪も切ってますますお元気そうで。」
 「またまた。お世辞は要りませんから。あれから私も独立したりして、ずっとバタバタしていまして、身の回りのこととかはぜんぜん構ってないんです。言い訳ですね。けど、そう聞くとお世辞でも嬉しい。」
 大塚真麻弁護士、祖父の死後、母親への財産相続でいろいろお世話になった方だ。

 「ごめんなさい。今、事務の子が出ていて、もうすぐ帰ってくると思うんですが。えー、何か飲み物は…。このまま始めます?」
 「どうぞ、おかまいなく。」
 「ごめんなさい。」
 二人で顔を見合わせて笑ってみた。
 事務所の奥のちょっとしたブースに入って、簡易ソファに対面で座った。
 「お母さま…、春香さんはお元気ですか?」
 母親とはマンション購入の手付きの一切合切をやってあげた時点で別れた。あれ以来、会ってもなければ、連絡さえしていない。娘としての義理は十分に果たしたつもりだ。別れ際に「ありがとう」や「さようなら」の一言もなかった。それでいいと思っている。
 「いや、あれきりですね。多分、あのマンションで私の知らない人と暮らしているんではないでしょうか。」
 「そうですか。そう聞くと、私はまた弁護士としては言ってはいけないことを口にしてしまいそうです。」
 当時、祖父の会社に雇われていた側だったはずの大塚さんは、相手側の付き添いに過ぎないルカのことを随分と親身に心配してくれた。その時から「福永さん」ではなく「ルカさん」と呼んでくれるようになっている。
 ルカの中で頼れそうな人はこの人しかいなかった。

 「電話では少しだけお聞きしましたが、今日はもう少し詳しいお話を聞かせてください。」
 ルカはまず、今回のあらましをできるだけ詳しく話した。そのためには、自分がどんな境遇で育ったのかも話す必要があるとわかっていたのに、中学以前のことはあまり上手く話せなかった。
 大塚さんはテーブルの向かい側でメモを取りながら聞いている。録音することも承諾していた。
 「つまり、ルカさんはお父さんの面倒を見る気はない、ということですよね。」
 「はい、全くありません。」
 「その理由は、ルカさんがご両親に育ててもらったとは思わないから、ということでよろしいですか?」
 「そ、そうなりますかね…。」
 「可能ならば、明確に答えていただきたいのですが、ご両親から虐待はありましたか?」
 「…はい。」
 「どのような虐待があったかを具体的に話すことはできますか?」
 思い出せないのか、思い出したくないのか、自分でもわからなくなって、ルカは言葉に詰まった。
 「変な話になってもいいですか。」
 「どうぞ。」
 「私は学校の給食おかげでここまで大きくなれたと思っています。家できちんとした食事を取った記憶はほとんどありません。そういう意味では国に感謝しています。学校の給食制度がなければ、私は食事をどうしていたのだろうと怖くなります。」
 「はい。」
 「でも、国には不満もあります。法律は私を守ってくれなかった。大人は誰も私のことを気にもしてくれなった。」
 「はい。」
 「国民の三大義務でしたっけ。私、これでも自分の境遇から抜け出すために必死で勉強してきたつもりなんです。『子どもに教育を受けさせる義務』とか笑っちゃいました。うちの親は教育どころか、食事さえ与えてくれなかったよって。」
 「…」
 「昔のことを話そうと思っても、よく覚えていないというのが本当のところです。ただ、毎晩『明日、このまま目が覚めませんように』って目をつむっていたのは覚えています。あの時には二度と戻りたくありません。」
 「…」
 「生んでくれたことを両親に感謝すべき、と言う人もいますけど、私は生んでほしくなかった。育てる気がないから何で生んだんだ、とずっと思ってました。」
 「…」
 「熊本でしたっけ?育てられないと思った赤ちゃんを預かってもらえるの。育てる気もないのに、生んでしまったんだったら、せめて、そういったところに預けろよ、とも思ってました。」
 「…」
 「ずっと辛かったです。ずっと怒ってます。」
 「…」
 「ちょっと違いますね。辛いとか、怒るとか、今考えるとそうかもしれなかったと思うだけで、当時の私には多分なかったです、そんな感情。私は…」
 大塚さんはペンを置いて、ルカを正面から見つめた。
 「ただ、生きてました。生きてただけです、私。私は生まれてからずっと、ただ生きてきただけなんです。幸せのことなんか考えたこともありません。」
 ルカは大塚さんの視線を受け止めて、続けた。
 「別に両親を恨んでいるわけでもないんです。あの人たちはあの人たちで、私が生まれなかったら違う人生があったのかもしれないし。」
 ルカの表情には特に喜怒哀楽は見て取れない。
 次の瞬間、いつもの笑顔に戻った。
 「うーん、とにかく、もうほっといて、って感じです。私は私で自分の人生を生きていくから、あなたたちはあなたたちで勝手にやって。もう私に関わらないで、って思ってます。」

 「やっぱり、何か飲み物いれますね。コーヒーでいいかしら?」
 「はい。」
 考えたこともなかった言葉が自分の口からつらつらと流れ出たことに驚いていた。
 -あのまましゃべっていたら、全部思い出したんだろうか…
 そう思うと、間を置いてくれた大塚さんの気遣いが嬉しかった。

 ルカが口にしたのは「赤ちゃんポスト」のことだ。
 熊本県の慈恵病院が、「こうのとりのゆりかご」計画を申請したのは2006年12月。当時の蓮田太二病院理事長らがドイツを訪問し、「ベビークラッペ(ボックス)」という取り組みに影響を受けたこの計画は、その後、「赤ちゃんポスト」と呼ばれるようになった。2007年5月に運用開始し、2017年3月末までの約10年で合計130人の子どもが預けられている(「こうのとりのゆりかご」第四期検証報告書)。レイプなどの望まない妊娠、出産に悩む女性が、嬰児殺しなどの犯罪に手を染めないための取り組みであり、さらに、生まれた命を一個の人格を持った人間として認め、生かすためのものとも言われている。
 未だに賛否両論があるとはいえ、ここで救われた命があることは紛れもない事実であろう。ゆりかごに預けられた当事者である少年の「赤ちゃんポストに入れてくれたから、今の僕がある。ありがとうと言いたい」という言葉は、それを証明していると言えないか。
 同じ無責任ならば、ただ一緒に住んでいるというだけで何も構わない無責任よりも、預けて育児を他者に任せる無責任の方がまだましではないか、ルカはそう思っている。

 「それで、ですね。ルカさん。」
 インスタントコーヒーの入った紙コップを置いて、大塚さんが話し出した。
 「電話をいただいてから、それなりに調べてはみたんです。」
 「はい。」
 ルカも紙コップを置いた。
 「勿論、詳しい話をお聞かせいただけるなら、もう少し調べることはできますが、少なくとも現状では厳しいお話になります。」
 「はい。」
 「先ほどルカさんは、法律は…と話されましたよね。」
 「ああ…、はい。」
 「その法律が『直系血族及び兄弟姉妹は互いに扶養する義務がある』と定めています。結論から言うと、子どもは親を扶養する義務があり、介護を放棄することはできません。」
 病院で鈴木氏から聞いていた言葉でもあり、自分でも少しは調べていたので、予想はしていた言葉だ。予想はしていたが、法律の専門家から聞くのはやはりショックだった。
 「うちの親は、私を育てる義務を放棄したのに、私は親の面倒をみる義務を放棄することはできない、ということでしょうか。」
 「詳しく話します…。」

※熊本の慈恵病院に関する記事が2023年4月20日の朝日新聞に掲載されました。

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