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それでもあなたは自分が私の父親だと言う 最終章①

第五章
1 2019年5月
 5月、ルカは俊介の故郷、香川県を訪ねた。
 「初デート記念日、旅行しない?」
 「初デート記念?」
 「上野だよ。もしかして覚えてない?ショックなんですけど。」
 「いやいや、覚えているけど。そっちが覚えているのにびっくりしただけ。」
 「あのねぇ、そういう大事なことはちゃんとしているつもりだよ。」
 そうなのだ。俊介はそういう、人を喜ばすツボを心得ている風があった。
 年始に俊介がこう言ったことがきっかけになって、早々と計画だけはしていたのに、実際に航空チケットを取ったのは4月に入ってからになった。この年のGWは稀にみる大型連休で、4月30日の火曜日さえ有休をとれば10日以上の休みになったにも関わらず、懸念していたとおり、学校からの断れない、人にも代わってもらえない仕事が直前に入ってきた。実は、俊介には言えなかったが、人の仕事を代わってあげたのはルカの方だった。
 俊介だけが先に帰省し、ルカは5月1日、2日の祝日も仕事して、3日金曜日の朝一の飛行機で俊介を追いかける。
 高松空港に着くと、俊介が迎えに来てくれていた。空港前の駐車場に実家の軽自動車を乗り付けており、ルカのスーツケースも運び入れてくれた。
 「車の助手席、初めてだね。」
 「そういやそうだね。安全運転ですのでご安心を。」
 俊介は福岡時代含めて、営業にはリースカーを使うことが多い。ルカは神奈川時代からなるべく公共の交通機関、どうしてものときは自腹を切ってタクシーを使うほどのペーパードライバーだった。
 「このまま、香川観光でいい?荷物だけ先にホテルに預ける?」
 「いいよ。観光しよう。」
 この日の夜からは二人でビジネスホテルに泊まることになっていた。
 「もう、ご家族とはいいの?」
 「十分に親孝行してきました。というか、香川、一泊したら十分で、やることないんよ。」
 「パパもママも喜んだでしょ。」
 「まぁ、そうかな。親父とはほとんどしゃべってないけど。おかんとは結構しゃべったな。二人とも小さくなっててびっくりした。70超えたしね。」
 雄二は確か57才だったような…、ルカは慌てて心を閉じた。
 「で、どこ行く?」
 「お任せあれ。と言っても何もないけどね。うどんは美味いよ。」
 車はそのまま高速に乗って西に向かった。ときどき、右に瀬戸内海が見える。
 同じ海が見える景色でも、下田と違って、田園が広がり、奥に可愛い山々がポコポコとある香川の風景はルカをのどかな気持ちにさせてくれた。
 「着いたよ。」
 昨日までの激務と、朝早く起きたことで、飛行機の中でもぐっすり眠ったはずのルカは、車でも寝てしまっていた。
 「えっ、ここどこ?」
 「香川というのはわかってる?」
 俊介は笑いながら、ドアを開けてくれた。
 「金毘羅さんです。さぁ、歩きますよ!」
 歩ける格好でおいで、と俊介が言っていた意味がわかった。スニーカーにして正解だった。
 「石段が1300段以上続くらしい。ごめん。俺も来たのは初めて。」
 「えぇっ?」
 「いやいや、そんなもんでしょ。地元民、行かんって。いい機会だと思ってね。」
 駐車場から5分ほど歩いて辻を曲がった途端、人が行き交う通りに出た。両脇にお土産さんが並んでいる。
 少し歩いては10段ほどの、また少し歩いては20段ほどの石段となっており、登りながら段を数えていたルカは100段も行かないうちに数えることをあきらめた。途中途中に段数を書いてくれていたこともある。
 「あ、これ食べたい!寄ってこ。」
 300段ほど登ったところで既に息が上がってきたルカは、それを俊介に言うのもしゃくで、お土産屋さんの軒先に飛び込んだ。
 「疲れたんでしょう?」
 「違うよ。ほら、ソフトクリーム美味しそう!えっ、釜玉うどん味だって!」
 「まぁ、いいか。のんびり行こう。」
 俊介はお見通しだ。
 「金毘羅さんって何の神様?」
 「いや、だから俺も知らんって。まぁ、小説で読んだ記憶では、昔は船の航海で沿岸の明かりや景色を頼りに自分たちが今どこら辺にいるかを確認していたから、覚えやすい風景はそれだけで神がかりだったらしいよ。この山、象頭山(ぞうずさん)って言って、特徴ある形らしい。」
 「何でもよく知ってるよね。」
 「ありがとう。でも、あなたが何も知らなさ過ぎなんだと思うよ。」
 「何それ。」
 「いいよね、今から知ることが多くて。」
 「羨ましいでしょ?」
 その後も、何度かの休憩を挟みながらのんびりと登った。いや、のんびりと、は俊介だけでルカはかなり必死に登った。俊介は学生時代から今でも毎日走っている。
 特に700段を越えた後の急こう配の石段の連続は、途中で休みたくても休むところも少なく、膝も笑ってしまい、どうしようかと思った。
 最後の石段を登り切った正面に本宮があった。本宮の木の階段を上って二人でお参りをした。
 「何をお願いしたの?」
 「初詣でのときと一緒。こっちの神様にもお願いしてみた。」
 「だから、それは何?」
 「言うわけないじゃん。ご利益がなくなる。」
 「けちぃ。」
 本宮の右には展望台があった。家族連れも多い。
 「ほら、あれが瀬戸大橋。」
 「うわぁ。俊くんの家はどっち?見える?」
 「俺の家は見えないよ。香川の東の方だし。」
 「そっか、香川県の西の方に来てるんだね。」
 「そうだよ。愛媛の方に来てるね。」
 「そっかぁ、俊くんはこんな平和な風景の中で育ったんだね。」
 旅行前に俊介からは、両親に会う?と聞かれていた。それをルカは断っていた。俊介の気持ちは嬉しかったが、まだ踏ん切りがつかなかった。のんびりした風景を見ながら、俊介の少年時代を思い浮かべてしまうと、自分が俊介の平和な部分を踏みにじっているような気持になってきて、またルカは心を閉じた。

 夕方、ホテルにチェックインした後、車を返すために俊介は一旦、実家に帰った。
 「ホントにいいの?もっと家にいていいんだよ。私、一人でも大丈夫だし。」
 「大丈夫、大丈夫。実家には何泊もしたし、もうやることないの。今日の夜からは友達んとこに泊るって言ってるし、そのまま、東京に帰ることにもなってるの。」
 「なんか、ママに悪いなぁ。」
 「でもさ、ここに戻ってくるのは遅くなるかも。電車、1時間に1本かもしれん。」
 「うそだ。」
 「まじやって。」
 そう言いながらも俊介は2時間もしないうちにホテルに戻ってくる。
 「おかんが車で送ってくれたわ。」
 「だから早かったんだ。」
 「ほんで、今日の夕飯、部屋で食べん?」
 「いいよ。でも、何食べるの?」
 「おかんが弁当、作ってくれてた。友達と食べまいって。あっ、食べなさいっていうことね。」
 「えー、いいの。ママの手作りでしょ。一人で食べた方がよくない?」
 「もう十分に食ったし。それに、うちのおかんのコロッケは絶対、美味いけん。」
 「すっかり、香川弁に戻ってない?」
 「えっ、讃岐弁に?」
 「うん。ま、普段からなまってるけどね。」
 「うそぉ!いつもは標準語しゃべっとるやろ?」
 「どこまでが本気?」
 包みからはまだ少し暖かいコロッケとから揚げ、おにぎりが出てきた。から揚げも美味しかったが、俊介の言う通り、コロッケは本当に美味しかった。海苔を巻いた三角おにぎりを一口食べてルカは涙が出そうになった。上野動物園で食べた、俊介の作ってくれたおにぎりと同じ味がしたのだ。おにぎりには梅干しが入っていた。
 次の日には電車一日乗り放題券を買って、栗林公園や屋島を巡った。東京ではまだ残っている桜がどこに行っても散っていることに、南に来たんだなぁとルカは妙に感動する。電車は1時間に2本だった。
 翌日は市内観光、俊介の通った高校にも案内してもらい、6日の月曜日に東京に帰った。
 こんなにずっと一緒にいたのは年末年始以来で、すぐに会えることがわかっているのに、品川駅で別れる際にルカは泣いてしまった。
 「最高の初デート記念だったよ。」


2.2019年7月
 外回りに出かける準備のための一番忙しい正午前の時間帯、私用スマホが鳴った。エアコンが効いていても淡いピンクのブラウスに汗をにじませていたルカは、その通知番号を見て、出るかどうか瞬間躊躇った。叔母、美恵子からだった。出なければ、数回は着信が続くはずだ。
 「はい。」
 「何してんの。早く出なよ。」
 名乗らないのはいつものことだが、
 「雄二が、元気になったから家に帰せって。」
 この日はスマホを叩きつけたくなった。

 市の地域包括センターに紹介してもらった施設は下田半島の南の方にあった。この3年の間、何とか施設には行かずに済ませていたものを、今回はどうしてもということになり、断ることができなかった。
 「お若いこともあって、随分とお元気になられていますよ。」
 施設内の医務室の先生の言葉が、意図していないとはいえ、ルカの心をえぐる。
 「少々、元気が過ぎて困っているんです。」
 8人の大部屋にルカが向かうと、ベッドに雄二はいなかった。
 「るかぁ、あいわらず、いいしり、らなぁ。」
 後ろから声をかけられて、ルカは悪寒で声を上げそうになった。呂律は怪しいが、それは紛れもなく雄二の声だった。
 振り向くと、歩行器のようなものを使って、雄二が立っている。左手は震え、足も引きずっているようではあるが、確かに雄二は立っていた。たるんだ頬、開いたままの口、脂ぎった肌は変わらずに、雄二は自分で立っていた。定まらない視点で、ルカの全身を舐めまわすように見ているのを感じる。
 「おれは、ここをでるらら、おまえが、おれの、めんろお、みろ。」
 何より、ルカを認識したことに吐き気を覚えた。
 「おれは、おまえろ、ちちおや、らから、なぁ。」
 ここでも雄二はヘラヘラと笑った。

 施設を出てすぐに弁護士事務所、大塚さんに電話を入れて、週末に会ってもらうことにした。
 「お休みの日にすみません。」
 「いやいや、お気になさらずに。」
 「ご家族の方とか、ご迷惑をおかけしていますよね。」
 「こちらも何のお構いもできませんので、お相子ということにしましょう。」
 大塚さんはいつもの隙のないスーツ姿ではなく、薄手の紺のジャケットをブラウンのパンツに合わせている。それが何の嫌味もなくよく似合っていた。
 大塚さんは早めに来てくれていたのだろうか。事務所内は寒すぎない程度に、エアコンを聞かせてくれていた。前回と同じに、簡易ソファに対面で座る。
 「何から話していいものか…」
 ルカは先日の出来事と自分の気持ちを話した。大塚さんに話すことで気持ちを整理したかった。

 「歩けるほどに回復しつつある、雄二さんが家に帰りたいと言っているんですね。」
 「はい。ですが、福田の家には高齢者しか住んでませんし、実際に介護をできるような人はいません。」
 「ルカさんとしては、父親と一緒に生活することだけは絶対に避けたい、ということですよね?」
 「はい。一緒に住む…、言葉にするだけでも頭がおかしくなりそうです。」
 「本人の希望だけですぐに状況が変わるということはありませんので、安心してください、と言えると思います。」
 「だといいんですが。施設中を歩き回ったり、女性の介護士さんに変なことをしたり、追い出される可能性もあるそうなんです。」
 「うーん、それは確かに不安になりますね。」
 ここで大塚さんは顔をしかめた。
 「実はこちらからも連絡するかどうか迷っていたお話があります。」
 「大丈夫ですよ。私、慣れてますから。」
 ルカは笑った。
 「あれから私、ルカさんにとって有益な情報がないか、ずっと気にはかけていたんです。岡崎の事件って聞いたことありますか?性的虐待に絡むお話です。」
 「いいえ。」
 知らなかった。正確には、そういうものに目を向けない、視野に入れないように過ごすことが普通になっているだけだ。
 「当時19歳の女性に実の父親が性的虐待を行っていたかどうかを争っている裁判なんですが、3月の1審で無罪判決が出ました。」
 大塚さんはルカに、岡崎準強制性交等事件の概要を話してくれた。
前提:
・児童虐待防止法第2条では、性的虐待を、児童にわいせつな行為をすること又は児童をしてわいせつな行為をさせること、と定めている。
・2017年7月の刑法改正により、監護者強制性交等罪が新設されてもいた。「18歳未満の者に対し、その者を現に監護する者であることによる影響力があることに乗じてわいせつな行為又は性交などをした」者は、強制性交等罪と同様に処罰されることになった。つまり、保護者が親という影響力で子どもを支配し、子どもが拒めない状況でわいせつな行為を行った場合も、性的虐待にあたるということである。
岡崎準強制性交等事件:
愛知県内で2017年、当時19歳の実の娘に性的暴力を加えたとして準強制性交罪に問われた父親(当時50)について、2019年3月の1審では、「(娘は)抵抗し、(父親を)拒めた時期もあった」などとして、「抗拒不能の状態だった」という検察側の意見に対し、「合理的な疑いが残る」と判断し、父親に無罪判決を言い渡している。

 「つまり、父親に性的虐待を受けたと証言したところで、裁判では負けるということでしょうか?」
 「そ、それは、勿論、証言だけなくそれを証明できる物証があるかどうかなども関係しますし…」
 珍しく大塚さんが言い淀んだ。
 「まだ1審が終わったばかりです。この1審の無罪判決をめぐって、全国で性暴力を撲滅しようと訴えるキャンペーンが始まりました。『フラワーデモ』って、聞いたことないですか?参加者が花を身に着けて集まるところからそう呼ばれていますが、この運動が4月に東京駅で開催され、5月以降、毎月、全国へすごい速さで広がっています。私は、第1審の判決が覆る可能性は十分にあるとみています。」
 確かに、大塚さんの言う通りにはなる。
 2019年3月の第1審の判決に対し、2020年3月の2審判決は、娘が中2から性的虐待を受けており、「継続的な性的虐待の過程で抵抗する意欲や意志をなくし、本件行為時、精神的、心理的に抵抗できない状態だった」と認定した。さらに「1審判決は父親の実子に対する性的虐待の実態を十分に評価していない」と批判もしている。これを不服とした被告、父親側が上告するも、2020年11月、最高裁第3小法廷(宇賀克也裁判長)は、この上告を棄却した。これにより父親を無罪とした1審名古屋地裁岡崎支部判決は破棄され、懲役10年とした2審名古屋高裁判決が確定している。
 異例のスピード判決と言ってよいが、それでもこの物語の今現在からは後年の話だ。

 「そうだとしても、数年、もしかしたら数十年はかかるんですよね。」
 「…」
 「親は子どもに何をしても許されるのでしょうか?」
 「もう一つ、話さないといけないことがあります。」
 「どうぞ。」
 ルカの笑顔は変わらない。
 「仮に、です。仮に、ルカさんが性的虐待を受けていたとして、裁判をするなら、それがいつだったかを証言する、できれば実証する必要があります。」
 「えっ?」
 「時効があるということです。」
 「虐待に時効が?」
 この当時の性的虐待を含む強制性交罪の公訴時効は10年だった。被害者が18歳未満の場合には、これに18歳になるまでの期間が加算される。
 なお、2023年2月にまとめられた要綱案には、強制性交罪の公訴時効が5年延長されて10年が15年になることが含まれている…。
 「よくわからないんですけど…」
 「未成年の時期に性的虐待を受けて、それを裁判にかけるなら28才までに訴えなさい、ということです。」
 この時、ルカは33才。今日、ここに来てから初めてルカの表情から笑顔が消えた。
 大塚さんの表情も消える。
 「ルカさん、今となってはと思うでしょうが、質問させてください。この質問はこれっきりにします。」
 「はい。どうぞ。」
 「性的虐待はありましたか?」
 「…」
 「…」
 「答えたくありません。」
 答えたくない、これが答えであることを2人とも理解していた。
 重苦しい沈黙を先に破ったのはルカだった。
 「大塚さん、」
 「はい。」
 「法律…、法律っていったい何のためにあるんですかね?」
 「社会的に弱い立場の人たちを守るためのものです。私はそう信じています。」
 「私は弱い立場ではないのでしょうか?」
 「…」
 「親は子どもに何をしても法律で許されるのに、好き勝手にされる子どもを法律はちっとも守ってくれないじゃないですか。」
 「それは違います。」
 「選挙に出るような人たちが、『女性に優しい社会を』とか散々に言ってても、世の中、いつまでたっても、女性の一人暮らしには厳しいままじゃないですか。」
 「そ、それも違います!」
 「ごめんなさい。大塚さんのことを言っているわけじゃありません。子どもを守るため、女性を守るための法律が新しくできるのも勿論、いいことだと思います。でも、今の私を守ってくれるものは何もありません。私は今、今を生きているんです。」
 ルカは大塚さんの目を真っすぐに見つめた。顔は笑っていない。ルカが言いたいことを言えるのは、この人だけかもしれない。俊介にもまだ言えないことがある。
 大塚さんはゆっくり目を閉じ、しばらくして目を開けると、ルカを見つめ返した。
 「ルカさん、やっぱり私、弁護士としてふさわしくないことを言います。」
 「…」
 「そう、日本の社会は女性が、特に独身女性が、一人で生きるにはあまりにも法整備ができてない。」
 「…」
 「だから…、今を生きる女性はそれを受け入れるしかない。」
 「…」
 「ルカさん、あなた、結婚しなさい。できれば、仕事もやめて専業主婦になって収入がなくなるくらいがいい。あなたの配偶者に介護義務は発生しないから。でないと…」
 「でないと?」
 「このままいくと、下田にいる祖父母の介護も引き受けることになるよ。」


3.2019年9月
 2019年9月10日、日曜日。土曜日と日曜の午前中にルカが仕事だったこともあり、この日、久しぶりにルカと俊介は駅で待ち合わせをした。駅で待ち合わそう、と言ってきたのは俊介だ。
 仕事場から直帰したルカはスーツ姿だが、先に駅で待ってくれていた俊介も、日曜に関わらずスーツ姿だった。といっても、普段着ているようなビジネススーツではなく、ストライプの入ったカジュアルなものだ。俊介にしては珍しい。ルカとしては、サプライズ好きな俊介のことだから何かあるんだろうな、くらいの心準備はできている。
 駅から二人で商店街を歩いていると、俊介がいつにも増して落ち着きなく、せかせか動くのがやたらにおかしかった。緊張しているようにも見える。
 「今日はここ!」
 俊介が案内してくれたのは、以前に商店街を散歩した時に見つけていた、商店街からは一本入った通りにある小さなフランス料理屋だった。外に出ている木製のメニュー表には値段が書いておらず、その時は入るのを取りやめて、後から二人でネット検索したところ、小さいとはいえ、なかなかのお値段だった。それだけ期待できるともいえる。
 「えぇ、ホントに?」
 「まぁ、こんな日にしか来んやろうし。今日はごちそうします。」
 「いいの?大丈夫?」
 「当たり前じゃん。何でも好きなの、頼んでいいから。」
 とは言いつつ、優柔不断なルカはいつも俊介に決めてもらう。ルカが好きそうなものを俊介がポイポイと選んでくれるのが、今更ながらに不思議だった。
 すぐに飲み物が運ばれてきた。
 俊介は赤ワイン、ルカはグレープジュースをワイングラスに注いでもらい、二人で乾杯する。
 「お誕生日、おめでとう。」
 ルカは34才になった。

 食事を済ませた二人はルカの部屋に入った。
 「あのさ、プレゼントなんだけど…」
 部屋着に着替えたルカがお茶を入れて、ベッドに座ると、すぐに俊介が切り出してきた。俊介もルカが用意しているいつもの部屋着に着替えている。
 -あぁーん、ずっと落ち着かないように見えたのはそのせいか。
 「さっき渡すつもりだったけど、いろいろ考えて、店の中で出すのはやめたんよ。今から渡す。」
 本が好きな俊介からの誕生日プレゼントは、一昨年は「はじめての料理」、去年は「誰でも簡単、レンチン料理」、どちらもほぼきれいなまま、ルカの本棚を彩ってくれている。
 「先に言っとくけど、変に思わんといてほしい。しかも、今日、渡しても無駄になるかもしれんし。」
 「いいから。大丈夫だから。」
 俊介はリュックの中をごそごそとかき回している。なかなか煮え切らない。
 「俊くんがくれるものだったら、私は何でも絶対に嬉しいから。」
 俊介がやっとリュックから取り出したのは、小さな紙袋だった。さすがのルカでもそれだけでわかる。指輪だった。
 「重く受け止めんでほしい。ぜんぜん高いもんやないし。」
 俊介はそのまま指輪を渡してきた。
 「だいたいサイズが合ってるどうかも自信ないし。」
 ルカは指輪を自分で左手の薬指にはめてみた。
 「入った?」
 「嬉しい!!」
 「えっ?嬉しいの?ぜんぜん、その指でなくてもいいし。」
 「嬉しい!!!」
 「えっ、いやいや、あなたは普段、指輪とかアクセサリー、ぜんぜん身に着けんやん。金属アレルギーかなとか思って、いろいろお店で聞いてみたんよ。18金だったらアレルギーでも大丈夫って言われたんやけど…。俺、騙されてる?」
 「嬉しい!!!!」
 「指のサイズもわからんかったし、俺の左の小指の第一関節くらいとのいうのを、ここ最近、手をつなぐ度に確認してたんよ。よかったぁ。交換にいかんでよさそう。」
 「嬉しい!!!!!」
 ルカが軽度の金属アレルギーであることは確かだが、普段、何も着けてない理由は他にある。営業先の女性教師から何を言われるかわからないので、就職してからはほぼそこに関心を向けなくなったのだ。同じ理由でメイクもナチュラルだし、ネイルはしない。
 ジュエリーショップで店員さんを相手にあたふたしている俊介を想像すると、堪らなく愛おしくなった。ルカから抱き着いて、唇を重ねる。ルカは泣いてしまっていた。
 しばらく抱き合った後に、俊介がルカを離しながら言った。
 「まだ話は終わってない。」
 「嬉しい!嬉しい!嬉しい!」
 「聞けい!」
 「あい。」
 「素直でよろしい。」

 「来週、事例が出る。」
 「うん。」
 「で、俺、異動する。」
 「えっ?」
 「10月から大阪。」
 「えぇーっ!やだぁ。」
 「相変わらず平のまんま。」
 「やだぁ。やだよぉ。」
 「東京、大阪は2時間で来れるし、時々は泊まりに来るし。」
 「うぇーん」
 ルカは本当に「うぇーん」と泣いた。さっきとは違う涙がこぼれた。
 胸に顔を押し付けて泣くルカの頭を撫でながら、俊介は話を続けた。
 「あなたがさ、仕事のことを大切にしてるのはわかってるつもりなんだ。」
 「うぅ」
 「で、それを変えてくれと言うつもりはない。」
 「あぅ」
 「まぁ、俺が言ったところで、あなたが仕事のスタンスを一切変えないこともわかっている。」
 日常生活では優柔不断なくせに、仕事となるとテキパキ決められる自覚はルカにも確かにある。俊介に何をアドバイスされようと、納得しなければ、それを聞くこともない。最もそれはお互い様で、俊介もルカに何を言われようが、仕事のスタンスはほとんど変えない。
 「このまま行くと、あなたは出世するよ。絶対。」
 俊介曰く、二人の働く会社はグレーどころか、今や立派なブラック企業らしい。
 一時期の会社はリーダー陣に「イエスマン」を揃え、どんなに現場で人望がなくても、上司から好かれる人間だけが出世した。その後、さらなる低迷期に陥いり、回復の兆しもまったく見えない現状に直面して、漸く会社は「イエスマン」ではダメだと思い知る。自分で思考しない「イエスマン」は、当然、責任感がなかった。
 そこで次に会社は、出された命令を躊躇なく遂行するのは当然として、命令遂行のための方法を自分で試行錯誤し、結果が出ない場合は自ら責任を取る、「ペンギンマン」のような人財を求めるようになった。
 「ペンギンマン?」
 「俺が勝手にそう呼んでるだけ。知らん?コウテイペンギンの話。」
 南極に生息するコウテイペンギンは外敵の少ない内陸で繁殖・子育てをする。海から内陸への移動、パートナーを見つけての産卵、ここまでの約2か月、ペンギンたちは絶食状態で過ごす。産卵後、生まれてくる我が子のためにエサを取りに海へ戻るメスに対して、オスはさらに2か月間、絶食のまま卵を温める。極寒の吹き曝し、‐60度の環境の中、足の甲の上に置いた卵を、ほぼ直立したまま、卵を落として割らぬよう、大地に接して凍らさぬよう、メスが戻るより先にヒナが生まれぬよう、細心の注意を払いながら温め続けるそうだ。
 「会社が求めているのは女性なんだけどね。なら、ペンギンウーマンか?」
 俊介は、会社は求める人財に「女性進出」をうまく利用しようとしている、と言う。
 ここ数年、女性社員が急速にリーダー職に持ち上げられている。無論、そのこと自体は正しいことであろう。一方で、役員クラスが男性、しかも年寄りばかりというのは変わっていない。文科省と繋がっているからだという噂は絶えないが、一般職ならとうに退職させられる年齢、そう、定年のない彼らは事実上の永年役員だ。こちらがどんなに事前資料を準備しても、一切目を通さずに会議に出てくる彼らは、そのときに思いついたことだけを口にする。自分が前回と正反対のことを言っても気づきもしない。俊介は、ここが代替わりすることは早々ない、ましてや、女性がここに加えられることは絶対ない、と断言する。リーダーに登用された多くの女性社員、ほとんどが数名しかいない小さなチームのリーダーは、見ていても可哀そうになるくらい、役員たちに従順であり、従順であることに喜びを見出しているかのようだった。
 「今まで冷たい待遇を受けていた分、意気に感じちゃっているのかなぁ。よく見れば、わかりそうなもんだけど。重職に女性は登用されてないのに。」
 「女性を馬鹿にしているように聞こえます。」
 漸く泣き止んだルカが反論した。
 「ごめん、ごめん。本当にそんなつもりはないんだ。女性をいいように使っている会社が嫌なんだよ。」
 「会社だって、そんなすぐにばれるようなことはしないでしょ。」
 「そう、そこなの。確かにこの先、永年役員はなくても、何人かは女性社員を重要ポストに就けると思う。多分、数年内に会社初の女性社長も作るでしょ。」
 「そうかなぁ。」
 「あなた、そのラインに乗ってるよ。」
 「絶対にないよ。私、頭、よくないし。」
 「そうは思わないけど。頭の良し悪しは二の次、大事なのは見た目。傀儡社長でいいし。」
 「らいらい?」
 「傀儡(かいらい)。操り人形っていう意味。」

 俊介は再び、ルカを胸から離した。俊介の部屋着、胸のあたりがルカの涙でべっちゃべちゃになっていた。
 ルカを真っすぐに見つめてくる。
 「俺ね、あなたと結婚したい。」
 ルカはまた泣きそうになる。
 「でも、あなたは結婚の話をしようとするといつも話、逸らすでしょ。自惚れだったら申し訳ないけど、俺はあなたから好かれていると思っている。あなたが結婚をしぶる理由って仕事くらいしか思いつかない。」
 ルカは必死に首を横に振った。言葉が出てこない。
 「俺と結婚したら、女性社長のラインは切れるよ。自慢じゃないけど、俺はじいさんたちからは嫌われてるし。だから、すぐに返事をくれとは言わないけど、今までよりはもう少し真剣に…」
 「…くん」
 「結婚ことを考えて…」
 「俊くん、」
 「何?」
 「俊くん、あなた、普段は賢いのに、ほんと、おバカね。」
 「何??」
 「あのね、私が仕事を理由に俊くんのことを諦めるとか思ってるの?」
 「いや、だって、仕事になると馬車馬みたいになるじゃん。」
 「だとしても、仕事は仕事。生きるために仕事は辞められないけど、俊くんと会えなくなるくらいなら、仕事は何でもいいよ。言っておくけど、私、出世したいなんてちぃーっとも思ってないからね。」
 「じゃぁ、結婚は?」
 「確かに話は逸らしてたかも。ごめん。それには理由がある。それをきちんと話すための準備をする時間をください。」
 ルカは必死に考え出した。
 -俊くんとずっと一緒にいるためにはどうすべき?


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