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アニメ映画「ジョゼと虎と魚たち」は進化する現実を見据えた傑作

※ネタバレあります※
2020年12月25日にアニメ映画「ジョゼと虎と魚たち」が公開された。田辺聖子の原作も読んでいて、実写版には強い思い入れを持っていた人間として、不安・期待内混ぜで、行きつけのイオンシネマへ。休日夕方だったのだが、客はそこそこ。もうちょっと入ってもいいのにな〜と思いつつ、鑑賞。
まず結論として、予想を遥かに超える素晴らしい作品で感動というか驚愕した。めったに買わないパンフレットも購入。ただ、自分はジョゼに感情移入するバイアス(内部障害持ち)があるし、実写版と全く異なる展開なので拒否反応はあるだろうなとネットで感想をレビューサイトなどで見ていたが、好意的なものが多くホッとした(それも実写版見ていない若い層が多いようだ)。
それでも、実写版からの改変の異議もいくつかあった。特に手厳しく話題になっているものは自身も車イスで脳性麻痺の障害を持っているダブル手帳さんの論考だ。

名作『ジョゼと虎と魚たち』アニメ版は“純愛推し”だが…消された「性被害」の重み

当事者ならではの見落とされがちな性愛の厳しい現実など様々な角度から批判しているのだが、以下の言葉に集約されている。

観客の居心地を悪くしそうな要素を排除する努力が行き過ぎて、物語の屋台骨までをも取り除いてしまった点

その他も今のところアニメ版への批判として主たるものは「綺麗すぎる」「リアリティがない」というものだ。アニメ版では実写版にあった屋台骨は確かに取り除かれている。それでも「現実の進化」を踏まえた新たな屋台骨がアニメ版ではしっかり構築されている。それを以下書き連ねアニメ版批判への批判を試みたい。

虎から目を背けてるのは実写版

「ジョゼと虎と魚たち」は田辺聖子の1984年出版の短編作品だ。

以下あらすじ(ウィキペディアより)

肢麻痺の山村クミ子はジョゼと名乗り、生活保護を受ける祖母と二人暮らし。祖母はジョゼを人前に出すのを嫌がり、夜しか外出させない。ある夜、祖母が離れたすきに何者かがジョゼの車椅子を坂道に突き飛ばす。車椅子を止めたのは大学生の恒夫だった。恒夫はジョゼの家に顔を出すようになる。ジョゼは恒夫を「管理人」と呼び、高飛車な態度で身の回りの世話をさせる。恒夫は就職活動のためジョゼの家から足が遠のく。市役所に就職が決まり、久しぶりにジョゼを訪ねると、家は他人が住んでおり、ジョゼは祖母を亡くして引っ越したという。
引っ越したアパートを探し当てるとやつれたジョゼが杖をついて出てくる。ジョゼは引っ越しのため家財道具を売り払い、二階に住む「お乳房(ちち)さわらしてくれたら何でも用したる」という中年男性に悩まされていた。心配した恒夫が「痩せて、しなびとる」と口にすると、ジョゼは激昂し出ていけと叫ぶが、恒夫が帰ろうとすると引き留め、すがりつく。その夜、二人は結ばれる。
翌日、恒夫は車を借りて、車椅子を積み込み、ジョゼとドライブする。ジョゼは動物園に行きたいとせがみ、車椅子で虎の檻の前に行く。虎の咆哮に怯えるジョゼは恒夫にすがりつき「一ばん怖いものを見たかったんや。好きな男の人が出来たときに」という。
ジョゼと恒夫は「新婚旅行」という名目で九州の海底水族館に行く。ジョゼはホテルの対応に悪態をつきながら、水族館の海底トンネルを堪能する。夜中に目を覚ましたジョゼは、自分も恒夫も魚になった、死んだんやな、と思う。それから恒夫はジョゼと籍も入れず親にも知らせない結婚生活を続けている。ジョゼはゆっくり料理を作り、洗濯をして、一年に一遍二人旅に出る。ジョゼは「アタイたちは死んだモンになってる」と思う。ジョゼにとって完全な幸福は死と同義だった。

その原作を踏まえて2003年に犬童一心監督、妻夫木聡と池脇千鶴が演じて映画化された。

まず私は実写版については否定的な立場だ。原作通り、実写版は足が不自由な女と健常者の男の恋愛を描くという古典的な設定なのだが、日常のささいな情景や空間を丁寧に描写することで平坦になりがちな物語を多面的に膨らませることに成功している。ジョゼのキャラもわがままだったり恒夫も大学生らしく行き当たりばったりと紋切り型の人物描写を周到に避けていて、デタラメな世界で二人が繋がっていくという、ありそうもなさに、観客は心を動かされるのだ。

しかし映画は終盤、社会人となった恒夫はジョゼが負担になって別れ、上野樹里演じる元彼女と復縁する設定が加えられている。その描かれ方と消費のされ方に何とも言えない気持ち悪さを感じる。

もちろん、逃げた後に恒夫が罪悪感で嗚咽するシーンはある。しかし、ジョゼは恒夫を許し、自立して生活する姿を映し、くるり”ハイウェイ”をバックにエンドロールへつながり包み込むようにして映画は終わる。

この映画が製作されたのは2003年である。原作は1984年。その20年で障害者を取り巻く環境は大きく変わった。バリアフリーが進み、乙武洋匡が既存の価値観をぶち壊していた時代だ。そんな中、誤解を恐れず言えば「下肢不自由」程度の障害でびびって逃げる主人公という前時代的な設定に唖然とした(もっと大変な進行性の重度障害を持つ友人がいるだけに)。

100歩譲ってあるある話だとして、人間の心の弱さを描きたいのであれば、ジョゼをあんな都合よく描くべきだったのだろうか?一人になったジョゼが、また「お乳房さわらしてくれたら何でも用したる」性犯罪者にゴミ出ししてもらうのか、それもできずにゴミ屋敷になるのか、精神のバランスを崩して宗教にすがるという、ありそうな「リアリティ」は描かれていない。むしろ、実写版こそ「観客の居心地を悪くしそうな要素を排除する努力が行き過ぎて」「綺麗すぎ」「リアリティがない」とも言える。

ダブル手帳さんの論考にあるように障害者にまつわる性的消費、恋愛事情の厳しさは確かにあるだろう。時代が変われど変わらないものもある。ただ、その現実を踏まえて何を描いているのか?どうあって欲しいのかが重要ではないのか?私には実写版には「クソ現実」を受け入れて、身の丈に合わせて生きていくというものしか感じられない。

アートは傷を与えて、人を変える。そして変わった人たちが新しい社会、現実を作っていく。それも作品価値の一部だし、だから私はアートを必要としている(娯楽・気分転換だけなら別に温泉でも食べ歩きでもいい)。
そして優れた表現は新しい想像力を提示して社会を変える力があると思うし、そうあって欲しい(最近では映画「ボヘミアン・ラプソディ」の大ヒットによってLGBTへの受け入られ方は相当推し進められたと思う。どんなホモフォビアも惹きつけて、ひれ伏させる強さがある)。

しかし、実写版「ジョゼと虎と魚たち」では、愛した恒夫が逃げざる得ない社会構造の問題にジョゼが気付き、変革に目覚めて市議選に出馬するという想像力はない。健常者と障害者カップルの生き生きした暮らしをネットで発信して、世間を変えていき、家族・親類に結婚を認めさせるという想像力もない。泣き崩れる恒夫に冷たい目で凝視する復縁した女のカットすらない。そんな居心地の悪くなるものは誰も見たくないからだ。

ダブル手帳さんは断罪する。

本作は虎から目を背けた。しかし現実社会に生きる私達には皆、この虎と対峙する責任がある。

まさにその通り。ただし、ここでいう「本作」とはアニメ版ではなく実写版の方である。虎は「クソ現実を押し付ける世間」である。そして、アニメ版はこの虎と対峙しているし、実写版にはない「進化する現実」を踏まえた希望に溢れている。

クールジャパン

実写版から20年近く経つ今、障害者を取り巻く環境はまたさらに大きく変わった。マイノリティ当事者やその支援者たちの地道な活動、市井の人々の善意や情報革命やグローバリゼーションの成就などがおり重なることで、いわゆる「ダイバーシティ(多様性)」は世界が共有するべき価値の主流となった(もちろん、本音と建前やゴリ押しバックラッシュ問題など論点はあるのだが本稿ではとりあえず置いておく)。

しかし、日本では未だに差別や偏見は少なくないし、指摘されるような現実や悲惨な事件は数多あり、まだまだ発展途中だ。そもそも、日本人のマイノリティへの冷たさは特筆するべきものがある。

これを「文化の違い」「自己責任」「高い道徳感」と肯定できるのか?
いや、そうじゃない人も結構いるし、このクソ現実を変えて行きたいと思えるのか?

加速する「現実の進化」

昨年末、読んだ「サピエンス全史」は人類の約7万年の歴史を客観的に連ねたものでめちゃ面白かった。興味深いのは、人類は恐ろしく進化していて、現在史上最大の分岐点にあるというところだ。

作者のノア・ハラリは人類(ホモサピエンス)は遠くない未来に消滅すると予測している(今世紀中にも)。それは、核戦争でも気候変動でもなく、遺伝子工学や生命工学の躍進により人類が超人化して自然消滅するというものだ。
まんまSF映画みたいだが、実際今までにない形でシリコンバレーを中心とした革命が起きている。不老不死も今世紀半ばには実現されるのではないかとまで言われている。

このような「進化する現実」を踏まえると、あらゆる差別をなくす急進的なダイバーシティ信仰と生命工学が結びつき、500歳まで生きる健康かつ聡明な美男美女というデザイナーズヒューマンも夢ではないのかも知れない。

その時には障害者という概念そのものも消える可能性が高い。もし本当に実現すれば、精神疾患はじめ多くの難病が遺伝子治療で改善または完治される。さらに進めば遺伝子検査の恐るべし精度により先天的な障害・病気リスクは出生前に排除されていき、残された後天障害は医療の発展によりそもそも存在しない。事故などで身体不全になった場合もサイボーグまたはアバターを使って健常者と変わらない生活を送ることができる。果たしてそれは真の多様性を獲得したユートピアなのかナチスや相模原事件の植松と同じ優生思想のディストピアなのか?

「サピエンス全史」は最後、私たちに問いかける。

唯一私たちに試みられるのは、科学が進もうとしている方向に影響を与えることだ。私たちが自分の欲望を操作できるようになる日は近いかもしれないので、ひょっとすると、私たちが直面している真の疑問は、「私たちは何になりたいのか?」ではなく、「私たちは何を望みたいのか?」かもしれない。この疑問に思わず頭を抱えない人は、おそらくまだ、それについて十分考えていないのだろう。

目まぐるしく変化する時代で、改めて「何を望むか」「何が幸せか」という本質的なことが問われている。
そして、アニメ版「ジョゼと虎と魚たち」はそういった空恐ろしく「進化する現実」の中での希望や夢が描かれている。

フィクションは書き換えられる

特にアニメ版で驚いたのは、恒夫が事故で車いす生活を強いられる設定だ。色々障害をモチーフにした映画を見てきたが、「健常者と障害者」という関係を「障害者と障害者」➡︎「障害者なんてものはそもそもいない。あるのは弱い人間が支えあうこと」という変遷を経た映画は見たことがない。障害を純愛ストーリーを盛り上げるための手段どころか、真正面から問題の本質に向き合っている。

ここ日本では「誰でも障害者になりうる」と口では言っていても、異物として排除しがちなのはなぜかとずっと考えてたのだが、もはや国家成立を記した「古事記」のフィクションによる「穢れ」思想・信仰にまで遡ると最近は考えている。進化する現実のディストピア路線になり得る拠り所で障害者にとっては最大の「虎」なのかも知れない。

そもそも、日本の成り立ち自体が障害者(そして女性も!)を排除しているのだから、そうそう差別意識・文化は消えないしやっかいだ。前述のマイノリティへの冷たさ、遅々としたダイバーシティは全部つながっている。

しかし、サピエンス全史でも指摘があるように、あらゆる宗教・神話は共同体を成り立たせるために作られたフィクションである。それならば、進化する現実に合わせて新しいフィクションで書き換えればいいだけの話だ。

アニメ版のパンフレットで制作者のインタビューを見ると総じて実写版へのリスペクトに溢れているが、アニメ版は完全に上述のような、旧態依然の価値観をぶち壊す突き抜けた作品になっていて痛快だ。そうやって、若者にターゲットを絞っていると言える作品が未来を作っていくと思うとワクワクする。

まとめ

アニメ映画「ジョゼと虎と魚たち」はそういった「進化する現実」を踏まえて「高揚するフィクション」に満ち溢れている。
この映画が多くの人に見られ、現実を更新していってほしいと切に願っている。

(少しでも公開中のアニメ版の素晴らしさが伝われば幸いです。あと、同時期に見た「ブックスマート〜卒業前夜のパーティーデビュー」も「進化する現実」を踏まえた傑作です。こちらもぜひ!)


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