旅は人生?
社会人として働き、5年目。仕事もそれなりにできるようになった頃、「このままのわたしでいいのだろうか」という見えない「なにか」に大きな壁を感じた。どうしたらいいのかわからなかった。そこで、旅に出ることにした。中学1年の英語テキストを買って勉強しようと思ったのに、全然わからなくてすぐ閉じてしまった事をよく覚えている。でも旅に出る前はそんな不安よりも見えない未来にわくわくしていた。ワーキングホリデーと放浪を含めて旅4年間。辛い事もあったけれど、今ではわたしの「basement」となっている。
旅はわからない事だらけで、不安もあるけれど、なんとでもなるところが好きだ。
初めて海外で暮らした国、ニュージーランドの語学学校に行っていた時に、夏休みを使ってレンタカーを借りて旅行をしようと計画していた。泊まっていたホステルにも「あしたから2週間いってくるから〜」と伝え、当時付き合っていた彼もホームステイを終え、ふたりでホームレス。るんるん気分で全荷物をもち、レンタカーやさんで言われたひとことで全ての状況が真っ暗になる。
「オリジナルの免許証がないとレンタカー貸せないよ。」
耳を疑った。
実はわたしは国際免許証があれば海外を運転できるものだと勘違いしており、実際は国際免許証+元の免許書(日本語表記の元の免許証)でなければいけなかったのだ!
彼がめちゃくちゃ焦る。
それもそう。夏休み=クリスマス+年越しとみんなが旅行をする時期で、特に私たちがいたクイーンズタウンという町はニュージーランドで一番と言っていいほど観光業が盛んな小さな町なので、ホテルやホステル、バックパッカーなどもう予約でいっぱいなのだ。
「どうしよう…」
まずは今日の寝床を確保しなくちゃいけない。近くのキャンプ場に電話して、テントは張れるのか確認して(時期的にテントも張れないぐらいいっぱいになるのがふつう)、レンタカーやからスーツケースをひいてとぼとぼと途方に暮れながら歩いた(途中でそんな私たちをみかけて、キャンプ場まで車で拾ってくれた方がいた。神様だった。泣きそうになった)
そのあとよくふたりで話し合った。せっかくの夏休みをこんなハプニングで無駄にしたくない。でも宿もない。うちらホームレス。
出た結論。ヒッチハイクをしてみよう!
ヒッチハイクは聞いた事はあったけれど、実際やった事がなかった。決まったからにはなるべく荷物を軽くしなくてはいけないということで、次の日に早速朝からショッピングセンターに行きバックパックと寝袋、キャンプ道具に必要なものを調達。キャンプ場でダンボールをもらい、いらない荷物をホームステイでお世話になった方の家においてもらうことにした。
ヒッチハイクを始めるといろいろ気づく。ヒッチハイクする場所や時間帯、目的地をかいたボードを持ってるかもってないかで、止まってくれる回数に影響する事。最初に乗せてくれた方、とてもいい人たちで、拙い私たちの英語にも合わせて話してくれた。最初はとても緊張してうまく話せなかったのをよく覚えている。
ニュージーランドはあまり横道がない。大きい国道のようなものしかないけれど人口も少ないので渋滞を見た事がなかった。なのでヒッチハイクをするときは大体皆の目的地も同じようなところだから拾ってもらいやすいけれど、町から町が3、4時間は普通なので、その時間他人を乗せることをよしとするニュージーに住んでいる人たちは寛容としか言いようがない。
旅をしているなかで、博物館に行くことが多かった。博物館の入館料は無料。ニュージーランドの先住民族「マオリ」の文化をより知ってもらうためにでもあるそう。マオリ族に対しての国の取り組みやこれからも彼らの文化を引き継いでいこうという意思が様々な分野からみれるのもわたしがニュージーランドを好きな理由の一つである。
ヒッチハイクをしながら、結構楽しんでいた。毎日違う人に乗せてもらい、知らない町に行く。キャンプ場を探しテントを張って、町を探索して、買い物して、夜ごはんをつくる。(サンドイッチとかカップラーメンとか)その場所が気に入ったらもう一泊するとかして、明日がわからないことを存分に楽しんだ。
乗せてくれる人は口を揃えて「僕もやってみたいし、こうやって話をきかせてもらうのはすごく楽しい」と。私たちは乗せてもらっている側で、いつもそれ以上の価値をお返しができているか不安だったけれど、その言葉を聞けて純粋に嬉しかった。
しかし、楽しい事ばかりではなかった。ある日、朝から2時間ヒッチハイクをしてもなかなかつかまらず、ヒッチハイクしやすいと思ったところまで歩く。歩く。歩く。途中から雨が降ってきて、疲れと雨と、荷物の重さと、先々の不安にイライラしてしていた。1時間半ぐらいあるいて、またヒッチハイクをしたところ、パトカーに拾われて、ヒッチハイクポイントまで移動するのを助けてもらった。人生初のパトカーに乗った。
パトカーから降ろしてもらった時はもうすでに14時ぐらい。次の町まで少なくても2時間はかかり、そして宿を探すというミッションも抱えたまま、必死に右手を上げる。前も後ろも草原のような素敵な場所だったが、この時はこれが恐怖に感じた。
30分ぐらいして止まったのはおじいちゃん。
しかしこのおじいちゃん、「乗ってけ〜」というものの、車の中には大量の酒の瓶。飲酒運転はある程度までだいじょうぶなNZもこの瓶の量だと、絶対に免停確実。(さっきのパトカーがなんだかドラマのような展開だ)
彼は「いまここで乗るしかないよ!」という。それもそう、時間も15時すぎて、なにもない、荒野のようなこの場所で、もしかしたら「野宿」の2文字が頭をよぎる。
いや、でもここでもし事故にあったら、酒飲んでるおっちゃんとともにどこか放り出されたらもともこもないよな。の判断で、結局断った。そのあとわたしはなぜか悲しくなり、泣き出してしまった。
彼も「泣かないで、僕もかなしくなってくる」と。そりゃそうだ。彼女についてきたらこのざまだ。彼の方が荷物も重いのに、この時のわたしはこのチャンスを自分の手からはなし、なんだかもう全てが嫌になってきた。
そんな中、ヒッチハイクを再開したら5分後、ドイツのカップルが止まってくれた。とてもいい感じの二人で、次の町まで乗せてくれた。
この時は本当にありがたかったし、「安堵する」とはこのことなのかと心の中で思った。
車に乗りながらも、目的地は決まったので、宿のチェックなど大忙し。どこもいっぱいだったが、バックパッカーに電話したら「テントだったらガーデンに貼っていいよ!」の一言をもらって、到着してからすぐにそこに向かい、暗い中テントを張り(オーナーの人が照らしてくれた)、なんとか就寝する事ができた。
旅はこのように、突然思いがけない事がおこり、それに対して、どう対処しなくちゃいけないのか、即座に判断しなくちゃいけない時がある。それはわたしのなかでは「感覚への挑戦」だったりする。今まで育ってきた中で、いざという時にどのようにしたらいいのかという嗅覚みたいなものが、このような時に試されるような気がしてならない。このおじいちゃんのときも、もし車に乗ってたら、また違った未来があって、もしかして大丈夫だったのかもしれないけれど、わたしは次の5分後にキャッチした車に乗れて、本当に良かったと今でも思う。
旅は人生のようだと誰かが言っていた。
うれしい事や楽しい事、そして「もう無理だ」と悲しくなってしまう事が次々と起こり、人と人との温かさに触れたり、変えられない現実にぶつかったり、様々なことを経験して、心の成長を感じることは、「旅は人生のようだ」という言葉が存在する理由なのかもしれない。
結局、日常の中にはたくさんの選択があり、どれを選んで生きていくかは「自分」である。様々なものを見て、聞き、触れ、経験することで、その時の自分に必要な「道」を選ぶ事ができるのではないかと思う。
旅は今も変わらず私の深い部分で強く生き続けている。
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