好き、とはなんだろうか
「好きなもの」と当たり前に使ってしまうのだけれど、そもそも好きとはなんだろう。
わからない。
ブレーンストーミング的にだらだと書いてみようと思う。
わからないけど、使ってしまう。
ヘッダの画像は、最近遊んだDave the Diverで「なんか好きだなぁ」と思った魚(なんて名前だったかな)。
なんで好きなんだろう、こういうの。
目と口、かな?
小学校低学年の時、「女の子と書いて好きって読むんだぞ!」って声高らかに言ってた同級生がいたっけな。
彼は元気だろうか。
好きなものについて喋り合いたい人は割とよく見かけるが、なんでなのだろうか。
推測だけど、大抵の人は、会話が好きなのだろうと思う。
そして、誰にも言いたくないくらい好きなものをそれ以上にたくさん持っていると、そう信じたい。
自分の好きなものについて、それぞれの共通点を探してみると「他人があまり好きそうでないもの」だと思う。
横文字だと「マイナなもの」ともいうかもしれない。
メジャが嫌いではないが、本当に好きだという人がその中に幾人いるのだろうか。
誰かが好きだから、自分も好きだと思いたいだけではないだろうか。
ただこれは、中学生が洋楽を聴き始めるのと同じような動機かもしれない。
マイナであろうと、それに情熱をかける人がいるのであるから、好きにな理由としては十分ではないか。
そういう点でいえば、熱さが好きかもしれない。
猫舌だけど。
ただ、マイナであればあるほど、本当に純に好きだという人が多いように感じている。
いやいや、私がなにが好きかではなくて、好きというのはなにかという話だった。
そろそろあったまってきて筆のノリもいい具合になってきたところだ。
まず、好きというのは、あまり具体的ではないように感じる。
本当に具体的であれば、類する物はすべて好きになるはずだ。
だが、必ずしもそうではない。
具体的ではないというか、定量的ではない。
どちらかといえば定性的なもの。
そして「こういったものが好き」というよりは「なにかで好きが生じる」ということだと思う。
これが好き、といってしまうのであたかも好きなものが確からしい存在だと思ってしまうが、そもそも好きは「あるもの」ではない、ということだ。
これなら、そこにある物は変わらないのに、好きじゃなくなることと矛盾しない。
なんでもなかったものが好きになる、これとも矛盾しない。
ものは何度でもつくれるが、好きだけをつくることはできない。
なのでこれまで書いてきたことはすべて、〜で好きが生じた、である。
どちらかといえば、「好きが齎される」のではないか。
もたらされる、と読むらしい…さっき変換で知った。
そう考えるとすんなりいくところも多い。
反対に何かが好きじゃくなったのではなくて、好きが齎されなくなってしまった。
感受性ともいうのだろうか。
どうすれば生まれるだろう。
私は嫌いよりは、好きの方が好きだと思う。
嫌いが好きな人がいたら申し訳ないが、SNSにはそういった人もいるように感じる。
なんで嫌いを見つけて騒ぎ立てるのだろうか。
私は嫌いを齎されように、とでもいうべきか、できるだけ目を伏せようと思っている。
誰だったかな「はっきりを見るのではなく、どのあっていない眼鏡をかけたようにぼんやりとみることだ」というのを聞いたことがある。
そういうコツがあるのだ。
焦点をずらすことで、齎されないようにできた。
ということは逆をすれば良いはずである。
つぶさに見る。
ここで、つぶさは具とか書けるそうだ(これもさっき変換で知った)。
不思議なもので、好きという抽象的な概念は、具体的に物事をみることで生まれるのだと思われる。
工学的な知見から具体的に物事を観測する方法を考えてみたい。
光であるなら、焦点距離を知るため、まずは距離を把握することである。
自分の位置、対象とそれぞれを測るための基準点。
おそらくは自分がどこにいるかを知るのが最も重要だろう。
そして、必要なレンズを使いわけることだ。
複数の波長を持っていることだろうから、色収差が生じないようにも注意を払うべきだろう。
とまぁダラダラ書いてしまったが、一言で表現すれば、知る、ということである。
逆も考えてみたい。
何かを受け取ってその自分の反応から、自分の位置がわかる。
外を具に見ることも重要だが、うちに向けて得るものがあるだろう。
そして、私の好きなアルバムに「THROUGH THE EYES OF OTHERS」というものがある。
日本語訳は「直感」。
鈍っていないだろうか。
鈍っていると感じるのであれば、誰にも言わず、しっかりと味わう時間が必要かもしれない。
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