
突然思い立って、ひとりで幻の魚を釣りに行く
一本の釣り動画に頭をぶち抜かれる
朦朧とするインフルエンザの高熱の中、私の心は全く別の熱に浮かされていた。
釣りにも行けず、悶々と見ていたSNSに流れてきたひとつの短い釣り動画。なんかビビッと来た。釘付けになった。たった40秒の中にキラキラのロマンが詰まっていた。
昔から何かにロマンを感じると、なりふり構わずに飛び付いてしまうクセがある。
一度心を奪われたらもう、誰にも止められない。
自分で経験しないと気が済まない。
子供の頃の口癖は、「私がやる!」だったらしい…。
三つ子の魂百までとか言うけど、これが100歳まで続いたら絶対にしんどいと思う。
とにかくこの時、ある釣り動画にこの上ないロマンを見い出し、その釣りをしに病み上がり片道500キロの大冒険をすることが決定してしまったのだ。
その動画は、氷上のサビキ釣りというタイトルで、分厚い氷の張った湖に小さい穴を開けて『シナノユキマス』という魚を釣るというものだった。
一面氷の世界で、シナノユキマスとかいう妖精みたいな儚げな名の魚を釣る。しかもサビキ釣り?
?しかもシナノユキマスは長野のごく限られた湖にしかいないらしい。
正確には、1975年に旧チェコスロバキアから養殖魚として導入され、以降県内5湖沼(立岩湖、柳久保池、青木湖、松原湖、白樺湖)のみに釣魚として放流されている。当時他県でも導入が試みられたが、うまく定着しなかったようだ。長野の気候や河川の環境がシナノユキマスの遠い故郷と似ていたのかもしれない。(現在は近種が他県にも養殖されているが、シナノユキマスを稚魚として分譲されたものが元になっているそうだ。)
これをロマンと言わずなんと呼ぶ!?
なんかどこにあるかもよく分からんけど行くしかないでしょ!!
知識0、持ち物0、フィジカル0からはじめよう
そうとなれば情報収集。
とりあえず漁協に電話で、釣果状況や細かいルールの確認などする。
釣果は大分厳しいみたいですね…釣れなくはないと思うけど…いや保証はできないけど…
この歯切れの悪さ。この時点でだいたい察する。もうシーズンも終わりかけだそう。
仕方ない、知ったのが今だったんだから。
釣れてないとか関係ない。
こっちはもう行かないと気が済まなくなってる。
次に何が必要か調べる。アイスドリル?テント?スパイク?結構高いしこんなかさばる物この為だけに買うのか。タックルも持ってない。
ていうか車大丈夫か?たどり着ける?
…どう考えても不安しかない。
連れて行って、案内してくれる方を探せば良いのかもしれない。でもどうしてもひとりでやり切りたかった。なぜならそれがロマンだから…!
ずっと鼓動が早いのは高熱のせいだけではない気がする。
とりあえず休みの日に湖のほとりの宿を押さえて、行かない選択肢を無くしておいた。仕事では決して発揮されないこの釣りに対するストイックさはなんなんだろう…。
動画を見てからここまで約30分の出来事である。
片道500km、釣りキチ三平の世界へ
その後もネットや、穴釣りに詳しい方に聞いたり、必死に情報収集をして、当日を迎える。
寒波が来ていたし、私の古軽バンでは命の危険を感じた為、長野の車屋さんに相談。応援したいから、とすぐに四駆の軽を用意してくださった。命の恩人だ。
運転すること8時間、ついに現地の看板が見えてきた。
釣りキチ三平のイラストに、シナノユキマス、と書いてあった。
矢口高雄先生が昔、シンポジウムで訪れたらしい。まさか、三平もシナノユキマスを釣りに来ていたとは。
林の中にしんとした氷の世界。時折小鳥のさえずりだけが響く。
本当に、漫画の中に迷い込んだみたいだった。
釣れていないのか、ほとんど釣り人はいなかった。
明日の朝マズメ狙いで、初日は早めに寝ることにした。
翌日、まだ暗い時間に準備を始める。
どうしよう…ワクワクがとまらない…!
初めての釣り、幻の魚、氷の上…
とんでもないところにひとりで来てしまった。
釣りを始めるのが先か、体力が尽きるのが先か
真っ暗な氷の上でひとりでいる不安や恐怖心は、一歩氷を踏み締めた瞬間に、踏み潰してやった。
なんとか湖の真ん中へ荷物を運び込んだ。
湖の端っこは、氷が薄く危険な為乗らないようにと伺った。
ここは常に管理者が居る釣り場ではない為、全て自己責任。無責任な1人の為に釣り禁になる可能性だってあるから、細かいルールを確認し、細心の注意を払って動かなければならない。
遂に新品のアイスドリルを使う時が来た。
買う時に思った。私はこの1万円の、背丈ほどもあるクソデカドリルを、この先の人生で何回使うんだろう…。それかなんかDIYとかで使えたりするかな。
組み立て方すら合ってるかよく分からないまま、氷の上で回してみる。かき氷機みたいに少しずつシャリシャリと削れていく。
めっちゃしんどい…!このまま日が暮れるんじゃないかと思い始めた時に、ズボッと水の感触。
感動した。ああ、ここは本当に湖の上なんだ。
一面雪が積もって、ただの広場のようだったのに。
理想と現実の狭間で…
シナノユキマスはサビキ仕掛けか、ワカサギ仕掛けで釣れるらしい。
ただし、コマセを撒いても良いかどうかがよくわからなかった。考えた結果、漁協の方の迷惑にならなそうなお昼頃電話で確認することにして、今日は一旦ワカサギ仕掛けで狙ってみることにした。
刺し餌のウジを小さく切って針に付けて、穴に落とす。
小刻みに誘ったりして、あとは置き竿。
ワカサギより結構大きい魚だから、アタリがあればすぐ分かるだろう。
その間に優雅におでんでも温めて朝食としよう。
これも氷上釣りのロマンというものだ。
ルンルンでコンロを回すも、点火する気配が全くない。
ガスだけが虚しく蒸発していく。
刺し餌を付け替えたり、竿も見ないといけないし、この半凍りのおでんはなんとしても溶かしたい。せめて常温くらいには…!
ガチャガチャガチャガチャ、全然優雅じゃない。持ってきた携帯ガスストーブもガチャガチャガチャガチャ。もちろん点かない。
…あれ?やりたかったのとなんか違うぞ。私はさっきからガチャガチャずっと何をやってるんだと思ったら、なんか笑えてきた。
いやでも、これが自分らしいと言えばそうかもしれない。
一方で置き竿はまだうんともすんとも言わない。早くひったくるようなアタリが見たい!
日が上り外気が温まってきた頃にやっとコンロとストーブが点火した。一番寒い時になんの役にも立たなかったな。
やっとの思いで温めたおでんはこの世で一番美味しかった。
もうなんか、釣れる気配もないし、これを食べにきたと思って味わおう…。そう思いながら噛み締めた。
アタリのないまま、もう釣れそうな時間帯は大分過ぎてしまった。
釣れはしないが、風もなく雲ひとつない晴天の下で、のんびり竿を眺めながら過ごすのは素晴らしい時間だった。外界から隔離された世界。他者の介在しない、私だけの時間。
救世主現る…!
もう、今日は無理かな。また明日頑張るか。そう思った時。近くでワカサギ釣りをはじめた常連さんが、あまりにも釣れない私を見かねて話しかけに来てくれた。本当に釣り人って優しい方ばっかりだ。
アタリ、本当にわからないくらいちっちゃいよ。
穴を開けた一投目が勝負だからとにかく集中して。
少し他の場所にも穴を開けて、点々としてみて。
オモリ、軽くしても良いかも。
的確なアドバイスをくれるお兄さんが、一瞬釣りキチ三平に出てくる三平の師匠、魚紳さんに見えた。
…うん、アタリ多分全部見逃してたな。
オモリを1号下げて、汗だくになりながら離れた他の場所にも穴を開けた。
教わったことを全部やってみよう。
釣れなくても楽しいけど、やっぱりどうしても一匹釣りたい。だってシナノユキマスを釣りに来たんだもん。どんなに小さくても良いから、ロマンの一匹が釣りたい…!
君に会うために来たんだよ。
開けたばかりの穴に、仕掛けを落とす。置き竿せずに、集中。風か、波か、わからなくてもとにかく合わせてみよう。
絶対釣る…!
穂先を見つめていると、若干ふわっと揺れた気がした。さっきまでは絶対に合わせていなかったくらいの弛み。
間違えても良いから合わせてみて。そう言われていたのを思い出して、合わせてみた。緊張して体ごとビクンッて合わせた。
1回目は違った。もう一度弛んだ気がして、ダメ元でえいっと合わせてみた。
ピクピク…なんか掛かってる!?
でもワカサギや、他の魚かもしれない。
息を飲んだ。
穴から飛び出した銀色の鱗が、真っ白の雪を反射してキラキラ輝いていた。15センチほどのシナノユキマスだった。
本当に美しくて、私には氷の妖精のように見えた。
君に会うために来たんだよ…!
行く前の不安や、協力してくれた人達の優しい気持ち、そして目標を達成できた感激で涙が出た。
急いで、魚紳さんに見せに行き、感謝を伝えた。
小さかったが、シナノユキマスには全長制限が無いため、最初の一匹はありがたく頂くことにした。
その場で刺身にして食べると、甘エビのようにトロッと甘くて、びっくりした。
突拍子もないことを思い立って、道具を全部揃えて、雪道を走って目標の魚を釣る。
最初から最後までひとりでやり切る!
そんな妄想をしていた。それがロマンだと思っていた。
でも、ひとりじゃなんにも出来なかった。
穴釣りの道具など教えてくれた方、釣具屋さん、何回電話しても嫌な顔せず対応してくれた漁協の方、車屋さん、釣り方を教えてくれた釣り人さん…
色んな人に支えられてやっと、一匹釣り上げた…!
この小さいシナノユキマス一匹の重さは、今この瞬間の私にしかわからないだろう。
いつものサビキ釣りを、異世界でやる
しかしもう一つやってみないといけないことが残っていた。
「氷上のサビキ釣り」
この言葉に私は誘われてここへ来たのだ。
漁協に確認すると、カゴに少しコマセを入れてのサビキ釣りは可能(上からバンバン撒くのはNG)とのことだったので、翌日はサビキ釣りでシナノユキマスを狙うことにした。
翌日、湖に降りると少し汗をかくほどの気温だった。雲ひとつない空の下で、積もった雪も溶け、青みがかった美しい氷が露出していた。
しんとした湖に、バキバキと所々で氷が溶けて割れる音が響き渡る。
サビキ仕掛けを氷に開けた穴に落としていく。サビキ釣りは堤防などでよくやるので、慣れている。
しかしこんな凍った湖で、いつも漁港などでやるサビキ釣りをするなんて、なんだか変な感じだ。
一旦置き竿にして様子を見ていると、何か大きい魚が掛かったように竿がしなった。
ドキドキしながら引き上げると、25センチほどもあるシナノユキマスだった。
震えながら、この驚きと喜びのかたまりを丸焼きにして味わった。
私にとって釣りとは
こんな幸運がかつてあっただろうか。
…帰りに事故って死ぬんじゃないだろうか。
私の釣り人生、いつも遠回りばかりしてきた。
自分でやりたいんだから、仕方ない。釣らせてもらって釣るより、もがいて足掻いて時間をかけてでも自分で冒険して釣る。その一匹にどれだけ価値があるかを、釣りをする中で知ってしまったからだ。…あと基本的に鈍臭いのもある。
もちろん教わる釣りもとても大切だ。だが、その教わった釣りを最後には自分だけでやり遂げたい。
全部叶った瞬間だった。本当に天国にいるような気分だった。氷の上に座ってうっとりとしながら、幸せでのぼせきった頭を冷やす。
ああ、私はこれがやりたかったんだ。
私は釣りで冒険がしたかったんだ。
初めての場所で、初めての魚種、初めての大きさの魚を釣る。
こんなにワクワクすることって他にない。
いつもの釣り場でも、釣りにはいつも必ず発見がある。自分で見つけること、ひとつひとつが大切な冒険なのだ。
立岩湖でのシナノユキマス釣りは、そのことを強く思い出させてくれた。
私の釣り人生において、最高の時間だった。
表彰台への道の途中で、見事に転ぶ
丸焼きにして食べた大きなシナノユキマスの骨を片付けて、まるで表彰台への道を歩くように誇らしげに帰路についた。
しかししばらく余韻に浸っていると、後に驚愕の事実が発覚する…。
「それ、シナノユキマスやない、ウグイや」
なんと、2日目に釣った大きな魚は、シナノユキマスではなくウグイだったらしい。確認すると1日目のはシナノユキマスで間違いなさそうだ。(私はウグイを見たことがなかった…!)
甘い…!脂すごい乗ってる…!そんなこと言いながらウグイを食べてた私のバカ舌を笑ってほしい。
でも、ウグイもすっごく美味しかったんだよう。
まさか表彰台への道の途中でズッコケることになるとは。
きっと氷でつるんと滑ったんだな。
すごく恥ずかしい気持ちになったが、最後まで自分らしい旅だったなぁ。
釣りは冒険だ。
これからも、おそれずに竿を振り続けよう。

