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妖刀はそれぞれ六の地獄を象徴している① 刳雲 真打


【要旨】

・六本の妖刀は六道を象徴している
・刳雲は修羅道に、真打は天上道に対応している
・七本目である淵天は解脱を意味する

【はじめに】

本稿ではメタ的な考察を行う。
作中のキャラの過去や心情に則した考察ではなく、カグラバチという作品そのものに込められたメタファーを読み解こうという取り組みである。

それにあたり、大乗仏教だいじょうぶっきょう(一部ヒンドゥー教含む)の世界観を用いた。
なるべく失礼のないよう心掛けたが、浅学ゆえ間違った捉え方をしている可能性は十分にある。
もし間違っていたり、倫理的な危うさを孕んだ表現があれば、是非指摘して欲しい。本当に、マジで。

【根拠】

まず数字の“”に注目して頂きたい。
平が作った工と呼ばれる本の妖刀」

これだけでも意味有りげなのだが、加えて、外園健先生の読み切りである前作「ロクの冥約」の主人公の名前もロクなのだ。

ロクの冥約 より

六という数字にこだわりがあるのは間違いないだろう。

次に、カグラバチの世界観の根底には“地獄”の存在があることにも注目して頂きたい。
52話、53話で発せられた「地獄行き」という言葉と、その背後にそびえる仏の姿を見ればうなづいてもらえるはずだ。

カグラバチ第51話「座村」より


また、前述した『ロクの冥約』でも地獄の存在が示唆されている。

さて“”と“地獄”という二つのキーワードに通有なものと言えば、やはり「六道」の概念である。

六道とは、人間が死後に向かう六つの冥界である。
後でもう少し詳しく言及するのだが、それぞれの冥界はそれぞれ特有の苦痛を伴っている。
最も快楽が多く神の住む天上道てんじょうどうでさえ、最期は地獄の十六倍苦しむと言われている。

そう、つまり、言ってしまえば、全部地獄なのだ。

それら六つの地獄こそが、六本の妖刀のモチーフなのではないか
というのが本稿の主題である。

カグラバチ第6話「平穏」より
戦争で地獄絵図を作り出した妖刀だが、
その妖刀にこそ地獄は宿っているのかも知れない。

【刳雲 修羅道しゅらどう

まず、六道は

天上道てんじょうどう
人間道にんげんどう
修羅道しゅらどう
畜生道ちくしょうどう
餓鬼道がきどう
地獄道じごくどう

の六つからなり、前世で善い行いをした者ほど上へ、悪い行いをした者ほど下へ転生する。

このうち、天上道、人間道、修羅道の上位三道は「三善道」と呼ばれる。
一方、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道の下位四道は「四悪道」と呼ばれる。

ここで修羅道に着目すると、三善道と四悪道の両方に属していることが分かる。

下手でごめーん!

しかし別の説によると、修羅道を除いた三悪道を立てることもあるそう。

つまり、修羅道を善の道とするか悪の道とするかは資料によって解釈が分かれているのだ。

これは、善にも悪にもなりうる妖刀に、特に、双城と千鉱という真逆の思想を持つ二人の主君を持った刳雲に通底する特徴だ。

カグラバチ第17話「茶」より 

「鳴 千」の黒い雷は、千鉱だからこそ発動した技であり、双城が至った本領とはまた異なるものだろう。
刳雲をめぐって語られた解釈は、修羅道の善悪の解釈が分かれていることの象徴として読めるのではないだろうか。

修羅道は怒り争いが絶えない世界である。
では、なぜそんな修羅道が善の道とも解釈されるのか。

それは、修羅道に住む阿修羅がもとは正義を司る神だったからだと考えられる。

阿修羅が戦闘神に身を落とした理由は、

「娘を帝釈天たいしゃくてんに誘拐・凌辱・籠絡され、それに激怒して帝釈天に戦いを挑むも、最終的に敗北し天界から追放されたため」

と言われている。

この阿修羅の逸話を、娘=刳雲と置き換えて読むと、帝釈天が妖刀を奪った毘灼に、それを取り返そうと足掻く阿修羅が千鉱に見えてこないだろうか。

ここで帝釈天に注目して頂きたい。
日本で見られる帝釈天は白象にのったものが多い。

東京国立博物館の帝釈天象より

54話に登場した毘灼の統領である幽も、象を模した(ように見える)遊具に乗っている。

カグラバチ第54話「友情」より

このことから、帝釈天=毘灼の解釈はあながち間違っていないのではないだろうか。

また、帝釈天はを操るとされている。
毘灼が唯一使用可能だった妖刀である刳雲の奥義こそ、だ。

まとめると、

・六道のうち善悪の解釈が分かれる修羅道は、善悪どちらの解釈も受け入れた刳雲の物語と似ている

・阿修羅の逸話は、刳雲をめぐって語られた千鉱vs毘灼(双城)の構図を想起させる

刳雲が修羅道の象徴だと考えられる理由は、主に上記の二点となる。

【真打(匂罪) 天上道】

本稿では、真打が見せた血の花畑に着目したい。

カグラバチ第42話「全部」より

上の画像から私が判別できた花は

著莪しゃが
菖蒲しょうぶ
白百合しらゆり

の三種である。

この三種には、「偽り」という共通点があると私は考えている。
順に見て頂きたい。

著莪しゃが

カグラバチ第42話「全部」より

音がシャカに似ており、また、お寺やお寺に続く道で見かけることが多いため勘違いされるが、仏教とは無関係の植物である。

菖蒲しょうぶ

カグラバチ第42話「全部」より


アヤメに非常によく似た花を持つが、アヤメよりも葉が広いため菖蒲と判断した。サトイモ科の植物である。

白百合しらゆり

カグラバチ第42話「全部」より

花言葉は“無垢”だが、を吸い上げていると解釈すると、
赤百合の“虚栄心”という花言葉が適切だろう。
虚栄心とは、つまり偽りの自分を見せようという感情である。

そもそも、花畑というポジティブなイメージを裏切るような地獄絵図そのものが、「偽り」を象徴しているとも言える。

では、「偽り」が天上道とどのような繋がりを持つのか。

天上道は人間道の上に位置し、前世で善行を積むことで転生できる冥界だ。
六道のうち最も快楽で溢れ、寿命は四千年とも言われている。
また、天人や天女の他、前述した帝釈天などの神々もここに住んでいる。

しかし、ここも六道のうちの一道であり、迷いの世界であることに代わりはない。
老いや死、病の恐怖から逃れることはできないのだ。

死期が迫ると身体は垢や汗でまみれ、天人や天女からはのけ者にされる。
なにより、寿命が長いということは、そういった死に際の苦痛も長く味わうことに他ならない。

孤独である。
言い換えれば、「生きる」ことへの恐怖でもある。

そして、死後、また輪廻転生を繰り返す。

人間道に転生すればまだ良いのだが(私たちの住むこの世界は、六道のうちの人間道にあたる)、畜生度や地獄道に堕ちないという保証はない。
この恐怖は、地獄の苦しみの十六倍に匹敵するとも言われている。

私たちは天上道をまるで極楽のように思いがちだが、そこに真の極楽はないのだ。
つまり、偽りの極楽とも取れるのである。

まとめると、

真打が作り出した花には「偽り」の意味があり、天上道もまた「偽り」の快楽を享受できる冥界である。

というのが、真打が天上道の象徴だと考えられる理由である。

カグラバチ第41話「熱狂」より
京羅は真打によって生かされ長い苦痛を味わった。
寿命が長い故に、死に際の苦しみも長い天上道を想起させるものがある。

【淵天 解脱】

これまで述べたように、人間は六道を永遠に輪廻し続ける。
一時の快楽はあれど、それと同じくらいの苦痛を味わうのだ。

この迷いの世界から抜け出す方法が一つだけある。

それこそが「解脱げだつ」なのだ。

言うなれば、七つ目の選択肢。

そう、七本目の妖刀「淵天」である。

淵天で刳雲を折ったあの瞬間を「解脱させた」と解釈することもできるのだ。

カグラバチ第17話「茶」より

解脱した先にあるのは、「涅槃」と呼ばれる安らぎの世界。

千鉱くんが六工を全て回収し、迷いの連続である生活に終わりを告げ、安らぎを取り戻すことを願うばかりだ。

私は、彼に地獄になど堕ちて欲しくない。

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