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18.アメリカ生活② **小説「先」**

10代で日本を飛び出し、結局一度も帰国せずに短期大学を卒業した。

成人式には帰らない、そう母にメールしたら、「まぁ海外だししょうがないね」と親族一同納得してくれたようだ。が、正確には、行けないというより行きたくないだった。
学校苦手で友達もいないのになんでわざわざ何十万と何時間をかけて地獄を祝いに帰らにゃならんのサ、と意地を張った。そんなわけで、家系に代々伝わる成人式用の着物一式は私で以って終了。アメリカンなネオ末裔で親不孝者だ。
その親不孝に、実家に帰った時に見せてもらった母の「成人へ」のお手紙を読んで、やっと気づいた。もう二度と与えてあげられない親孝行を私は蹴ったんだと、取り返しのつかないことだったんだと自分を責めた。


自宅にSWATが来た時もそうだ。SWATとは、アメリカの警察の Special Weapons And Tactics(特殊武装及び戦術)という部隊らしい。
私がテスト勉強をしていたら、玄関をノックされ、誘拐犯が向かいの家に人質と籠城してるから、一階の私の部屋の窓から見張らせて欲しいといわれて、本物か分からないけど家に入れた。
試験勉強中の私の横で、SWAT2人がカーテン越しに向かいの家をずっと見張って、後輩みたいな人が途中で1人来て、「隣の家が二階建てで、二階の犯人が見やすい」みたいなこと言って、全員あっさり隣の家に移動した。ほんの10分くらいの出来事。
その何時間か後に、バンバンバンって銃声と悲鳴とSWATさんたちの大声で外見たら、逃げる人質と逃げる犯人と一斉に取り押さえる大勢の完全武装SWATがいて、そこで私、勉強なんかしてる場合じゃなかったことにようやく気づいた。

(すぐに世界を救える場所が
 まさか徒歩5分なんて思わないよね。
 こんなに近いのに、交わらないね。)
あいちゃんの言葉がずしりと来る。
同じ空間にいるのに、同じ空気を吸っていない。
座標はすぐそばでも、時空が違う。次元が違う。
これがいわゆる平和ボケか、と思った。
私は何もしらないんだ。



路上生活も1週間くらいやった。図書館で勉強してたら「お金持ちになる方法」みたいな日本語の本があって、最後のページになんか魔法陣みたいなのの書き方があって、
「これは大変パワーのある印です。丁寧に扱ってください。遊びでやると逆に不幸が訪れます」って書いてあって、面白そうだからその印を書いたけど、神棚とかに置くわけでもなく、バッグにシワシワに放りこみ、そのまま忘れていた。
次の日図書館に行った時、バッグの置き引きにあった。それに気づいてすぐ受付に行ったら、バッグと教科書とそこに挟んでたパスポートは無事だった。でも、現金キャッシュカード、金目のものは全て抜かれていた。当時、ホステルを泊まり歩いてる状態で帰る家もなかった。で、そっから路上生活がはじまり、ストリッパーになった。


そん時に学生のアイツに拾ってもらった。
彼女がいるにも関わらず、行くところのない私を、見たこともないような渋い顔しながら1週間だけ泊めてくれた。私が砂漠に置き去りにされた時に、車で助けてにきてくれたのもアイツだ。本当にお世話になりました。


このアイツの行いを、もう一人のアイツにも見習ってほしかった。
アメリカにくる前はホストをしていたというアイツと、2DKの部屋をシェアしていた。当時すでに私はストリッパーで、彼は語学学校の学生だったので、家賃は全額私が払っていた。
そして私が他の州の学校に短期で在学している間にアイツは、その家で彼女との同棲を始め、家の契約を譲って欲しいと言われた。でも向こうは家賃を払えないからと、私は、自分が住んでない彼名義の彼らの愛の巣の家賃を半年間払い続けた。そして私は家を無くして、またしてもホステルを泊まり歩く生活になった。
そんなこともあったなぁ。



YouTubeでメアドも流出させたことがある。
まだユーチューバーという言葉がなかった時代。
YouTubeが設立された翌年くらい。YouTubeと言えばテレビの映像が無料でネットで見れる、という超マイナーな動画サイトだった時代、
私は早すぎるユーチューバーだった。チャンネル登録者数は確か当時は53人くらいだった。
この1人1人と交流がしたいと思って、「これが私のメアドでーす」って自分のガチのメアドを書いた手書きのカンペを出した。
そしたら珍しくコメントが動き、動画も回り、メールがたくさん来た。やっぱりみんな私と交流したいんじゃん!って
思ったら「今すぐ消してください!」「危ないですよ!」「メアド教えちゃダメです!」みたいなのがブワーって来た。
別にいーじゃんって思ってたけど、みんながそう言うならと、更新して1時間後に動画を削除した。
お悩み相談のメールは一通も来なかった。


アメリカでは、たぶん20か国ぐらいの人とルームシェアした。ルームシェアは私に向いていた。水を得た魚のように、生き生きと楽しんだ。
私のポリシーは①入居後しばらくは自室のドア全開で、②自分のものを置く場所は数か所に絞り、③洗濯はこまめに行い、④食べ物のにおいに気を付け、⑤鍵の閉め忘れよりこわい火の元。
都会のお風呂寝室から、砂漠の大豪邸まで土地もランクも様々。ほとんどは家主から間借りする居候スタイル。自分契約は、元ホストの愛の巣となったあの一部屋の件があって懲りた。

一番思い出深かったのが、インド人5人と日本人の私の6人で2Kに住んだ時。もともとはインド人学生夫婦とその親友と私の合計4人で始まったルームシェアに、夏の間だけという程で女の子の居候が始まり、そのあと夫婦の親友がインド人の彼氏を連れてきた。
2Kだけど、キッチンは日本の古いアパートくらいの大きさ。常にカレーのにおいがした。風呂トイレが別なのは救いだけど、寝室や廊下には布団を敷き詰めて寝た。

ある夜、揉めに揉めていた。いつもは全員私に気を使って英語で会話しているのに、この日はヒンズー語がたびたび混じる。そして、いつもは気丈にふるまう家主のインド人の奥さんが目に涙をためている。

聞いていいのか聞いちゃいけないのか。それでも部屋は狭い。いったん外に出たほうがいいかどうか聞こうとしたらその前に向こうが話してくれた。

お互いインドに許嫁がいるのに親に内緒で結婚している
二人はまだ医学生
妊娠したかもしれない
お互いの親戚一同にまだ結婚したことすら秘密にしている
夫のほうは許嫁との結婚をもう4年もごまかして逃げ続けている
妻のほうは来年挙式をするからいよいよ帰って来いと言われている

だから、どこからどう説得して報告して修正していくべきか
それを話し合っている。と。


私はその時まで、結婚は互いの合意があればできるものだと思っていた。でもそれは、かなり恵まれた環境のもとに生まれた選ばれし者たちが吐いていいセリフなんだと分かった。好きな人と好きに結婚できることって当たり前じゃなかった。

いろんな国のいろんな価値観とルームシェアしてきた中で、LGBTQカップルやパートナーシップの人たちとも一緒に住んできた。
あらゆる場所の星降る夜、月に照らされ、あらゆる価値観と語り合った。

森の中、砂漠のどまん中、摩天楼の屋上、雑居ビルの隙間で毛布に身を寄せ一緒に飲んだホットミルク、大豪邸のナイトプールのラウンジチェア。
国際結婚も、国際離婚も、超遠距離も、超年の差も、いろんな人たちの、いろんな好きの、いろんな愛の形があることを学ばせてもらってすごくありがたいアメリカ生活だった。

けれど、今まで聞いた中で、これが一番、複雑だった。
今頃どうしてるかな?



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19.アメリカ生活③


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