現地コーディネーター:第30話
無限の青さの真ん中で朝陽が燦々と輝き、その光の欠片がフロントガラス越しにカズマの瞼を突き刺した。眩しさに顔をしかめながらゆっくりと身を起こし、携帯を確認する。時刻はまだ朝七時だ。後部座席からはエドウィンの鼾が聞こえた。長時間のドライブと事故のせいで疲れていたのだろう。モーターホームの最後部にあるベッドルームではデビッドが寝ているはずだ。カズマは車からそっと降り、乾いた朝の新鮮な空気を吸い込んだ。
地平線の向こう側にくっきりと見える横に長いサンディア山脈はゴツゴツした岩肌をむき出しにし、後光がそこに降り注いでいる。カズマはもう一度大きく深呼吸し、煙草を巻き始めた。
「オレの分も巻いてくれるか?」
微笑みながら歩み寄るデビッドに気づくとカズマはもちろんと頷いた。カズマはいつもより少し丁寧に紙を丸め、脇に小さなフィルターを挟んでデビッドに差し出した。デビッドは礼を言うとそれに火をつけ、空を仰ぐように煙を吐く。
「お礼にいい話を聞かせてやろう。ナバホ族に伝わる神話」
カズマは二本目の煙草を巻く手を止め、視線をデビッドに送る。
「俺たちは地球上の全てのものに魂があると信じてきた」
カズマは興味を示すようにデビッドの澄んだ瞳を覗き込む。
「天から最初の人間が降り立った時、人間には自力で生きていく術が全くなかった。でも人間を歓迎した動物や植物はそれぞれにギフトを捧げた。羊は自分の肉を与えて腹を満たせてやり、鳥は羽を与えて寒さから守ってやった。とうもろこしは人間の病気を治すのに役立った」
デビッドはゆっくりと燃えて短くなっていく煙草を見つめながら煙を空に向けて大きく吐き出した。
「でも煙草の葉には自分に与えられる物がなく悩んだ。そしてある時思いついた。『自分は人間がギフトに感謝したい伝えたい時に役立とう。彼らが僕を吸い込む時に感謝の気持ちを受け取り、吐いた時に天にその感謝を伝える役割を果そう』とね」
デビッドはカズマの感心した様子を見て満足げに煙を吐いた。
「だからストレスで煙草を吸うのとか、チェーンスモーキングとか、本当はその教えに反しているんだよ」
カズマは微笑んで頷くと巻いたばかりの煙草に火をつけ、デビッド同様に大きく煙を空に向かって吐き出した。でも何に感謝すればいいのか、自分にはわからなかった。
「ところで、絵は描けたか?」
デビッドが尋ねるとカズマは思い出したように車に駆け上がり、座席に置いた絵を取ってきてデビッドの手に差し出した。デビッドはそれを大事そうに両手で持ち、眉間に皺を寄せながら凝視した。それは鑑賞すると言うよりも絵の世界に入り込んでいるかのようだった。カズマにとっては拷問のような沈黙が数分続くと、デビッドは白い歯をのぞかせてカズマを抱きしめた。
「ありがとう。お前がわかっていることはわかってたよ、兄弟!」
カズマはデビッドの混じり気のない感情をそのまま受け止め、涙を堪えた。
「やっぱりそうだ。なるほど」
デビッドはまた絵に目をやると、なぜだか大きく頷いている。カズマは少し不安そうにデビッドの顔を覗き込んだ。
「絵に詳しいのか?」
「いや、オレは絵の事は正直全く分からない」
拍子抜けしたカズマに構う事なくデビッドは続ける。
「でもこれを見るとお前という人間が伝わるんだ。エッセンスとでも言うのか、魂とでも言うのか。わかるよな?」
(わかるよ)
カズマは言葉には出さず、照れくさそうに煙を空に吐いた。
「お前は絵を描き続けるべきだよ。売れるかどうかとかそんな事は知ったこっちゃない。お前に決められることでもないだろうし。でもお前にこれがある以上やめるべきじゃないんだ」
「これって?」
デビッドは興奮気味に自分の拳を強く握りしめ突き出した。
「これだよ!」
デビッドはその拳を宙に上げると、その掴んだ何かを解き放つようにゆっくり開いた。
「まあ、とにかくこれでチューバシティに連れてってくれるんだな」
デビッドは当たり前だとばかりに何度も大きく頷いた。
「よくできたディールだったな。オレに強制的に絵を書かせて、オレ達の行きたい所に連れてってくれる。それに…。」
カズマはデビッドの目を捉える。
「本当はあんた自身も故郷に帰る理由を探してたんじゃないのか?素晴らしい偶然だったな」
デビッドはカズマの鋭くも優しい視線を見つめ、誤魔化すように大げさに笑い出した。
「No Way(そんなわけないだろ)!」
カズマは無言で微笑み返すと、デビッドは照れ臭そうに口を開く。
「確かに…ずっと帰るのを避けてきたのかもしれない。放浪をするのは素晴らしかった。常に新鮮な経験や景色、そして出会う人々がいて。でもある時点からー何年前かなーどこで放浪を終わらせればいいのかわからなくなったんだ。放浪もずっと続けると日常になっちまうのさ」
デビッドは短くなった煙草を穴の空いたスニーカーの底でもみ消し、吸い殻を小さな皮袋に入れた。
「朝目覚めた時に自分がどこにいるのかもわからない。起きてもまだ夢の中にいるような心地が続いてさ。最初はあれだけ興奮を与えてくれた事が、気がつけば疲労や不安の種に変わってきて。軽蔑してた変化のない暮らしが恋しくなってさ。勝手だろ?」
カズマは頷きながらデビッドの肩を叩いた。
(いや、よくわかるよ)
「それにしても自由って言葉は過大評価されすぎな言葉だよな」
デビッドが独り言のように呟いた。
「…それで、そろそろ旅を終わらせようと?」
デビッドは肩をすくめる。
「故郷ってのはずっと変わらない。幸いあのアル中親父もまだそこで生きてるしな。もう先が長くないみたいだから最後に世話でもしてやるのも悪く無いかなと思って」
カズマは自分の父親の顔を頭に浮かべた。もう十年以上も見ていないその顔は、ニューオーリンズでみた鮮やかな幻覚とは違って随分と曖昧にぼやけていた。
「オレはずっとナバホ族のプライドを捨てて生きてきたんだ。周りが説教すればするほどに頑なにね。最近になってやっと自分がナバホ族である事に誇りを…持ちたいと思うようになったんだ」
デビッドは宙を仰ぎながらそう言った。カズマには空中を泳ぐその言葉が自分の向けられたもののように思えた。自分がずっと毛嫌いしてきた「日本人の誇り」。
「そろそろ行こうか。もう何時間か運転すれば着くはずだ」
デビッドが号令をかけると二人はモーターホームに乗り込んだ。運転するデビッドと助手席のカズマの間に会話は無かった。お互いに少しでも口を開けば感情が爆発しそうなことはわかっていた。だから目の前に広がる砂の大地と、それぞれの誠実さで離れて立ち尽くすサボテンと、それを包み込むようにどこまでも広がる空と、その全てを照らす太陽を、交互に眺めた。
*
廃車になったビートルを置いてモーターホームに乗り込むと、カズマは遠ざかっていくスクラップ工場を名残惜しそうにいつまでも見つめた。手入れを怠った自分のせいでこうなったわけだから仕方ないと自分に言い聞かせる。頻繁に乗っていたわけでもないのに、いざ無くなると自分の一部が欠けてしまったような気がした。
デビッドの運転するモーターホームは本格的な日差しの照りつけるアスファルトの路面をひた走る。道中、デビッドは自分の部族の歴史や現在を隣のカズマに語り続けた。
元々この辺りはナバホ族の土地だったが、十九世紀後半にアメリカ政府から土地を追い出され、七百キロメートルにも及ぶ過酷な徒歩移動を強いられ、その何十日にも渡る道中では数百人が死んだ。
しばらくして彼らは故郷に戻る事を許されたが、やっとの思いで戻ったナバホ族は、アメリカ政府に気に入られたホピ族がそこに移住していることを知る。以降、部族の境界線は政治的な理由で度々変わっているらしい。その後も彼らはアメリカ政府に翻弄され続けた。
デビッドの父親は白人の運営するインディアン寄宿学校に強制連行され、そこでアメリカ式教育や生活様式を強いられ、ナバホ語を話さなくなるまで折檻されたらしい。
エドウィンが後部座席でようやく目を覚ます。あちこちにシミのついたカーテンを開け、外に赤土の平野が広がっているのを見た。それはまるで火星のようで、まだ夢の続きを見ているようだった。
「Yaa tee!よく眠れたか?」
景色に圧倒されているエドウィンにデビッドが声をかけた。
「うん。ありがとう」
「あと一時間も運転すれば、君達の知り合いの家に着くよ。その前にどこか行きたい所はあるか?」
「インディアンのアクセサリーが買いたい」
「ずいぶん図々しくなったもんだな」
即答するエドウィンをカズマが日本語でからかうと、デビッドはちょうどいい店があると爽やかに告げ、ハンドルを切った。
まもなく荒野の真ん中に巨大な三角錐のログハウスが見えてくる。その脇にある大きな木製の看板には「トレーディング•ポスト」とウェスタン調の古いフォントで彫ってある。どうやら民芸店らしい。トレーディング•ポストというのは元々部族同士が物々交換を行う場所だったそうだ。
店内に入ると様々なジュエリーや手織りのウール絨毯、そして皮のドラムや木彫りのフルートなどがセクションごとに丁寧に並べられている。
エドウィンは嬉々として店奥にある銀細工のセクションに迷わず足を進めた。カズマはレジ前のディスプレイに並べられた色とりどりの宝石に目を奪われ立ち止まる。
「彼女にプレゼントか?」
カズマが振り返るとデビッドがいたずらっぽい顔で微笑んでいる。カズマは少し照れ臭そうに頷いた。
「家に待っている人がいるのは幸せだな」
(待っていてくれてればね)
カズマは心の中で呟いた。
シャーロットはまた自分を許し受け入れてくれるのだろうか?
無数に並ぶアクセサリーを一つ一つ吟味しながらディスプレイを覗き込むカズマに気の良さそうなナバホの女性店員が声をかけた。
「何をお探しですか?」
「彼女に誕生日プレゼントを買おうと思って」
「それは素晴らしい。彼女の誕生日はいつですか?」
カズマは一瞬間をあけて、おとといだと答える。
「なら誕生石はアメジストですね」
店員はにっこり笑うと、ディスプレイの脇から紫色の艶やかなペンダントを出す。
「きれいでしょう?アメジストは愛の守護石とも言われていて、高潔さや誠実さのシンボルになってます。恋愛などに必要な判断力や勇気を与えてくれる石です」
カズマはこの神秘的な宝石が自分の不義理をたしなめているような気がした。すると視界のすぐ脇から真っ赤に輝く石がカズマの目をとらえた。
「あの赤いのは?」
「ルビーですね。ワオ、とても美しい色ね」
店員は目を大きく開いてそのルビーのペンダントを注意深く手に取り、説明を続けた。
「ルビーは愛の炎、感受性、生命力や活力を表します。あなたは掘り出し上手ね。私もこの美しさに気づいてなかったわ」
カズマは値段も聞かず、黙ってクレジットカードを差し出した。
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