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毒と穢れと感染と~抗いながら共存するということ

我々の生きる環境は毒で満ちている

年の瀬の掃除で通気口のフィルタを洗いながら「こんなに汚れるんだな」と毎回思う。空気は透明に見えて「何か」を多く乗せて動いている。アメリカに住んでいたとき、1キロ先で死んだスカンクの匂いが漂ってきた。それを言えば、交差やPM2.5は遠い大陸からこの通風口にやってくる。
 
鹿児島に旅行に行くたびに火山灰に驚く。地面が火山灰でザラザラしており、雨が降ると傘に黒いものが積もるのに、結構な人口が済む都会である。桜島の火山灰には7%ほどクリストバライトという物質が含まれているとのことだが、これは遺伝性疾患や発がんのおそれを疑われている。その影響によるがん患者や死亡者の研究なども行われているが、今のところ周辺市民に「危険だから住むな」という警告はない。市民は日々を楽しく生きている。

結晶質シリカ (クリストバライト)は遺伝性疾患のおそれ、発がんのおそれ、呼吸器障害のおそれが指摘されている。

人類は多くの毒を生み出し、それに殺されてきた。現在でも僅かな毒に浸りながらそれを許している。例えば酒やタバコやある種の食品添加物、建築資材や排気ガスや燃料など、あらゆる場所に人体に毒になるものがあり、ときには遺伝子を傷つけるものも多くあるが、私たちはそれを体内に入れては排出し、ときには溜め込みながら生活をしている。毒はもちろんない方が良いし、作らないほうがいい。ただ毒を喰らえと言われれば嫌だと答えるが、何かメリットがあれば「ある程度」許容できたりするのだ。

微生物という毒との付き合い方

毒は何も無機物の微粒子だけではない。空気中や水中には数多の生物が生まれ死に、その死骸や排泄物が浮遊している。菌やウイルス、そして虫のような微生物たちだ。それらは我々体内に簡単に侵入し、抵抗しなければあっという間に身体を食い荒らされる。そうならないのは私たちの体が外的を排除したり、共存したりしているから。そして彼らが持ち込んだ、もしくは我々の体内で作った毒を、我々の細胞がきちんと排出しているから。

人体の内外には40〜100兆個の常在菌が生息しているらしい。2020年の研究によると、健常なヒトの体内に少なくとも39種類のウイルスが常在的に感染していることが分かった。健康なヒトの体に常在しているからといって、彼らが「善玉」というわけではない。ときどき病気の元になる「悪玉菌」も全滅すると困る。なぜなら「善玉菌」が働かなくなるから。人体の中では常に多様な微生物同士の争いと共存があり、ヒトの細胞もそれらと争いながら共存している。その「争いと共存」具合が人体にとってベストな状態が健康で、バランスが崩れると病気になるというわけだ。争いの中で多くの毒が生まれ、人体はそれを排出するシステムを持っている。人間は長い歴史の中で恐ろしく複雑なシステムを備えてきたのだ。
 

「穢れ」。かつてはそれが科学だった。

偉人が微生物を発見するよりずっと前から、我々は毒を避ける作法を知っている。それを祖先は「穢れ」と読んだ。腐臭のするもの、汚れているもの、つまりは病気を運んでくるものを避けるため、ケガレたものを排除する。それは多くの場合である程度根拠があり、私たちを病気から守ってきた当時の「科学」であったと思われる。中世ヨーロッパでペストが流行った頃登場したペスト医師のマスクには「瘴気を避けるためのハーブ」が詰めてあったとか。瘴気というのは「病を引き起こす原因ととされる悪い空気」のことで、実際ペストには効果はなかったが、感染症が空気感染する可能性まで突き止めたところは素晴らしい。

嘴状をした円錐状の筒に強い香りのするハーブや香料、藁などをつめた鳥の嘴のようなマスク


 
しかし微生物が見えるようになり病気のなりたちが判明してくると、「穢れの意識」と「病気の原因」との間に乖離がある場合もあるとわかってくる。

例えばトイレの便座に頬ずりをしたいという人はいないだろう。しかし2017年のエストニアの研究では、スマホには約1万7000個もの細菌が付着しており、この細菌の量は、便座の約10倍にあたるという。さてこの話を効いて「ああ、スマホは汚いから殺菌しなくちゃ」と思う人も多いのだろうが、今まで特に気にせず病気もせず生きてきたのだから、今更問題ないのだ。人間の手には1平方センチメートルあたりおよそ100万個の細菌が生息しているという。スマホに限らず、人間の手が触るところには菌が付着して当然だ。

ならば手を殺菌すればよいのでは? 実はそれも良くない。手の表面の常在菌は皮膚の脂肪をエサにして、脂肪酸の皮脂膜をつくり皮膚の表面を弱酸性に保ち、外来の病原体が皮膚に付着するのを防いでいる。しかし手を洗いすぎたり消毒しすぎたりすると常在菌が死に逆に病原体を招き入れやすくなる。「穢れを清める」行為が「穢れ」を招くのだ。

コロナ禍以前の皮膚科系のコラムを読むと「手を洗いすぎては行けない」という警告を発信する医師や研究者が多くいたのに、2020年以降同じようなことを言うと「ひとでなし」やら「陰謀論者」やらのレッテルを貼られるので皆声が小さくなったように思う。

同じようなことがマスクにも言える。マスクが呼吸器感染ウイルスを防がないことは、コロナ禍における世界的な社会実験で実証済だ。未だ「マスクの効果」などと言ってサンクコストから逃れられない人々が日本で少し残っているようだが、世界的には少数派だろう。しかしひとつ思い出してほしい。ウイルスという「穢れ」から逃れようとするマスクには、菌類という「穢れ」がこびりつくということを。汚れた布切れを口に当て続けることには眉を潜めるのに、マスクを顔につけ続けることに抵抗がないのは「穢れ」の意識が科学から乖離しているからに他ならない。

長時間マスクをしていると細菌や真菌のコロニーが発生する

それでも「穢れ」からは逃れたい

話がまったく変わるようだが、私はゴキブリが大嫌いだ。この文字をタイプするのも嫌なのでGと書くことにする。実際のところ今どきの密閉率の高い住宅ではGはあまりいないし、今住んでいる家でもまだ見たことはない。いたところでさして害はないという。しかし私は絶対に共存は嫌なのだ。だから見つけたら殺虫剤を吹きかけるだろう。この薬が人体に毒だったとしてもだ。これは科学ではなく「穢れ」の意識だろう。スマホ画面の恋人にキスはできても、便器に口をつけることはできない。

冒頭で書いたように環境は毒に溢れており、体内に菌やウイルスが多く常在している。我々に呼吸器感染症を起こさせるウイルスも空気中に数多いて、日々暴露を受け免疫がそれに対応している。そのひとつだけに脚光あて「このウイルスを避けろ」と言われれば、それが「穢れの認定」となる。従来の風邪やインフルなどは許容範囲だったのに、一気に許容できないものとして無症状で健康体の若者にまでPCRでウイルスの欠片をあぶり出そうとした。ただし、他者の飛沫は「穢れ」だが、自分自身や家族の飛沫はそうではない。だから家ではマスクを外すし、自分のマスクに蓄積された飛沫や皮脂や食べかすによって繁殖した菌は気にならない。これは科学でもなんでもない「反穢れ信仰」だ。

そしてこの「穢れ」から逃れるためには、別の毒を受け入れることが「浄化」になる。たとえばウイルス感染は「穢れ」だが、予防薬やワクチンの侵入、腎臓や肝臓にとっては毒である対症薬は「浄化」だ。手の表面を雑菌から守る皮脂膜を壊しても手洗いは「浄化」だし、病原体との戦いで鍛えられる免疫を減らし結果病気に罹りやすい身体になるのだとしても、ウイルスとの接触を回避するのが「穢れ」から逃れることになるのだ。

抗うことと許すこと

いろいろと書いてきたが、私はどんな毒でも、どんな菌やウイルスでも受け入れろと言いたいわけではない。エボラの患者をノーガードで抱きしめることはできないし、コレラ菌が入った水でお腹を鍛えるつもりはない。要は「自分が許容できる範囲」を見定めることが肝心だと思う。そのためには情報が必要だ。

最近話題になっているワクチンのシェディング問題もそうだ。シェディングという言葉の定義があいまいだが、ワクチンに限らず薬の成分が空気や接触によって個体間に伝播することは起こり得ると私は思っている。実際に抗がん剤等では起こっている。このことについては真摯に研究すべきだと思うし、不安を口にするのは当然だと思う。

しかし、ワクチンを打った人を避ける、遠ざけることを当然とは思わない。もちろん個人で避けることは仕方がない。チーズを触っただけで死ぬ人や、太陽を浴びたら死ぬ人がいるように、個人の健康は個々が守らなければいけない。しかし毒性の強弱がわからない状態で、使用者を「穢れ」扱いできるだろうか。

繰り返すが、毒を生産することには反対だ。此度の新型コロナワクチンについては絶対に反対だし、自分も打たないし、人にも「やめたほうがいい」と言っている。ただ自分と違う選択をする人たちとも、これからも同じ社会で生きていく。抗いながら共存するのだ。

私は酒を飲むから、飲んだあとの私の呼気からは遺伝毒が混じっているだろうタバコを吸う人の呼気にも混じっているらしい。鹿児島からやってきた人の服を叩けばクリストバライトの微細流が舞い、そして咳をしている人の呼気には風邪のウイルスが混じっているかもしれない。毒は、穢れは、そこかしこにある。

毒を「浄化」のための道具とするなら、その毒性の強さ、性質をきっちり調べ、情報を伝え、それを使うかどうかは個人が選ぶべきだ。自分にとって許しがたい毒なら近づけることさえ抗わなければいけない。しかし許せる範囲なら許すしかない。毒を推奨する人々を批判し、行政に情報提供と調査を要求することと、違う選択をする人と共に生きることを許容することは矛盾しない。私もみんなも、毒を発しながら、そして許されながら生きているのだから。


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