堺市北区は雨の中

イヌガヨの「堺市北区は雨の中」という曲が大好きです。
ライブで演ってくれるとヒャハー!てなる。
だいぶ前の曲なんやけど、けっこうな頻度で私の心に立ち上ってくる。
もちろん曲のよさありきで、さらに歌詞がめちゃめちゃめちゃめちゃ好き!

なんでこんなに好きなんやろ?という謎を解くべく、以前から少しずつこの曲について断片的に書いてまして(キモヲタい活動)。
まあせっかくの15周年クアトロワンマンなので、記念にnoteに残すことにしました。

作者はボーカル&ギターのじゃっくさん。
歌詞引用の許可をいただいております(「」内が原文)。

激しいギターとビートで始まるこの曲は、ライブだとまさに全身に土砂降りを浴びているような気持ちになる。
こういう、歌詞と音が互いに補完してイメージを結ぶ曲が好きで。
歌と同時に聴こえてくる岡部さんのベースも雨だれみたいで沁みてくる。

「ぶらぶら坂道をのぼるおれ一人
   傘なんか持ってねえよ 通り雨だろ」

簡単な言葉の中に景色と感情が浮かび上がる。
坂道を上っているのは朝まで呑んだくれての帰り道?
バイト終わり?
傘なんか持ってねえよ、ってちょっぴりやさぐれて自分に向かって吐き捨てているところ、濡れそぼって惨めな姿が浮かぶ。
歌の主人公は人生がうまくいってなさそうだ。
私と同じく…(イヤだなあ)。

「3丁目の角には吠える犬がいる
   月面をキャラバンが進む日々だよ」

この2行〜!
好き!
なんで犬からいきなり月?
犬は目の前におって、目とか耳とか臭いでそれを感じている。
でも、月面のキャラバンは頭の中にしかないものだ。
なんつう壮大なスケールの想像力。
こういう飛躍は他の曲でもちょいちょい出てくるが、じゃっくさんの歌詞の魅力のひとつである。
ボンヤリ聴いているとえっ?と脳にひっかかってくる。

「思考がループしてあほになりそうだ
   不確かなことだって連れて行くのさ」

考えても解決つかなかったりどうしようもないことに限って延々考えてしまうのはなぜなんやろなあ。
頭ん中に湧き出るあれやこれやは捉えどころがないんやけど放って行くこともできない。
ああ、そういうもんだよなあ…。
自分に照らして実感が湧く。

「春、屋根に登る 泥だらけの夜
   さよならありがとう元気でいてよね」

メロディと言葉の組み合わせがよく、無意識に歌ってしまう箇所。
雨の中、屋根に登ったら泥だらけになるに決まってるやん!
てな酔狂をほんまにやってるわけではないだろう。
昔の中国の酔いどれ詩人が城門から遠くを見はるかしつつ友を思って詠んだかのような。
じゃっくさん、李白みたいですわ。

「涙やうたた寝やくだらねえ言葉を捨てる
   誰かの呼ぶ声を思い出してしまう」

ここ、曲のトーンが急に静寂を帯びる。
なんて切ないんだ。
ロックの本質は切ないものだよな…。
この曲を聴くと強くそう感じる。
人間は圧倒的に孤独な存在だけど、そういうものサとお高くとまっていられるほど私は人間ができておらんので、そこから逃れるために常に誰かを探しているので。

「朝には優しさや悲しみを連れて走る
   くだらねえ感情はどぶ川に捨てる」

いわゆるサビの部分で、曲の中で何度も繰り返される。
この捨てるって言っといて捨ててない感じがするのなんなんやろなあ。
口の中に苦さが残るような。
だけど、朝とか優しさとか走るとかの単語がいいんだよね。
なぜか救われる。

イヌガヨの曲、じゃっくさんの歌詞ってすごく内省的で、ともすると暗く響くものも多い。
「堺市北区は雨の中」も演奏は熱いが、決して明るく楽しい曲ではない。
でも、なんやろな〜、絶望する一歩手前で踏み止まってるような。
絶妙なさじ加減でふんわりと生きていることを肯定してくれているような。
それは大げさなものではなくて、手のひらに乗るほどのちっちゃな希望みたいなもので、私はいつもじゃっくさんの歌からなんとなくそんな感じのものを受け取っては自分の明日に繋げているのです。

「堺市北区は雨の中」
引用した歌詞はアルバム『路地裏午前6時』収録のバージョンです。
イヌガヨの歴史を俯瞰した活動10周年記念アルバム『BAND ON THE RUN』には少し違うバージョンが収録されています。



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