チャレンジ出来る時にしか、人はチャレンジ出来ない
こちにわぬん。ベビだす。
洗濯しながらふと考えていた事があったので書いてみる事にしました。
ポジティブなフレーズとしてよく聞く、「人はいつでもチャレンジ出来る」というものを耳にしたことがある人は多いと思います。
この言葉はある意味正しいといえます。
何かにチャレンジしようとして二の足を踏んでいる人にとっては背中を押す言葉でもあるでしょう。
けれども、これが本当に実現可能かというと様々な現実要素が介入することを無視はできません。
例えば、親の介護が現実味を帯びて来た時。
それでも、「やりたい事にいつでもチャレンジ出来る」のか。
今のところわたしは、親の介護はしていません。
しかし、そう遠くない未来に現実化するであろうとは覚悟しています。
こうした事が現実要素に介入してきても「やりたい事にいつでもチャレンジ出来る」人は、体力のある人です。
ここでいう体力とは、言葉そのものの意味ではなく、底力のことですね。
もちろん、それを見据えて体力を蓄えている親や、その子供もいるでしょう。
しかし今の日本に、「生活環境が変わりこれまでに無かった負担がある日突然やってきても、それらをものともせずやりたい事にチャレンジ出来る人」が何人いるでしょうか。
きっと多くはないはずです。
体力がある人ばかりではない。
日々や、その月や、その年を過ごすだけで精一杯な人も多いでしょう。
わたしはチャレンジについて、こう捉えています。
人はチャレンジ出来る。
しかしチャレンジ出来る時にしておかないと、チャレンジ出来なくなる。
現実としてやりたい事がある時にそれを阻むものがあった場合、それらは様々な形で現れます。
経済的問題だけでなく、家族からの反対や、時にはそれに伴う妨害もあるでしょう。(あからさまに道を誤ろうとしている場合はこの妨害が結果的に救いとなりますが)
人は、チャレンジ出来る時でしかチャレンジ出来ない。
いつでもチャレンジ出来るような、安定した日々が永遠に続くことは、ない。
出来る時にやらないと、いつまでも「いつでも出来るから」で終わる。
そしてその日は、おそらく来ない。
自分も環境も常に変化するものであり、「いつどう転ぶか分からない」からこそ、チャレンジ出来る時(時期)というものを大事にしなければなりません。
わたしはゲームが趣味の一つです。
けれどふと、最近こう思いました。
「自分が勝負できる時は、今しかない」
それに気付いた結果、わたしはゲームの時間を大幅に減らしました。
わたしは天秤にかけたのです。
趣味を楽しむ時間と、自分の今後を。
趣味は一時期にリラックスさせてくれたり、気分の向上にもなり、良い効果が得られることは骨身に沁みて解っています。趣味があったからこそ、嫌な日があってもやってこれた時も多々ありました。
それでも、天秤にかけました。
自分が一番走れる時が今ならば、給水所に寄ってばかりというのはいかがなものか?
本当に水分補給が必要な時だけでいいのではないのか?
そもそも、自分は給水所に足繁く立ち寄れるほどの大層な余裕があるのか?
自分はそんな大層な人間ではないはずだ!!
わたしは底力も体力もない。
そんな人間が「今なら走れる」という時に、楽しいことばかりに甘えて何が成せるというのだ。
・・・改めて文章にすると、本当にそうだなと思います。
底力・体力・余裕。
これらが無いからこそ、出来る時にやらなければいけない。
でなければずっと、底力も体力も余裕も持てない。
そう思いました。
いつでもチャレンジ出来るような身分ではない者の、己への叱咤激励です。
そんなに大層なことにチャレンジしているわけでもありませんが、自分の「これから」をもっと大事にしてやろうと思ったお話でした。