Midnight To Stevens ⑷
最後の投稿から早くも1ヶ月が経ってしまいました。1ヶ月って早い。
さて今回は第4回目。(前回はスピンオフだったので)
今回からガイのキャリア中、最も高く評価されている Mott The Hoople 時代へと突入します。
正直、私にとってのガイ・スティーヴンスは、" The Scene Club " の看板DJであり、UK Sueの創始者であり、The Clash " London Calling " のプロデューサーでした。
しかしながら、この時期があったからこその The Clash であるのは勿論のこと、ガイ自身のキャラクターが最も素晴らしく発揮できていた時期のようにも感じました。
メンバーの口から語られる当時のガイは、まるですぐ隣にいるかのようなリアリティを持って私たちに迫ってきます(笑)。
「ガイが大麻所持でパクられた頃、彼の振る舞いは明らかに以前よりおかしくなっていて、誰も彼と上手にやっていくことが出来なくなってきていたんだ。」とティム・クラークは語る。
「それでも出所したばっかりの頃は、少しはマシだったんだけど、またすぐに元通りさ。」
その出所したてのガイを待っていたのは、Mott The Hoople だった。
ガイはずっとボブ・ディランとジェリー・リー・ルイスのハイブリットで、ターボエンジン搭載しているかのようなロックンロールバンドの存在を夢見ていた。
そしてガイは The Silence という4人編成のヘレフォード(注:英国ミッドランドにある地方都市)出身のバンドと出会うことになる。
ギタリストのミック・ラルフスが最初にガイにコンタクトを取り、彼のオフィスにデモテープを置いていった。その時、ガイは不在だった。ガイはこの不意打ちに感謝こそしたものの、Island Records が出した「タフでアグレッシヴなベースプレイヤーを求む!」という告知を見たピート・ワッツが、目の前に現れるまで、このバンド The Silence に対し、シリアスな思いは抱いてはいなかった。
「オーディションには200人位の、タフでアグレッシヴなベースプレイヤーが道端に列を作っていたよ。全員ドイツ兵のヘルメットにタトゥー入りでね。ミックはあらかじめ Island Records のオーディションだから、ガイが居るだろうと踏んでいたんだ。」
勿論、ガイはそのオーディションの主催者だった。ピート・ワッツはその列に飛び込み、ミックと2人、つまりThe Silenceはオーディションを無事に通過した。
1969年 5月13日、ミック・ラルフスとピート・ワッツ、そしてドラムにデール・グリフィン、キーボードのテレンス・アレンまで決まったが、肝心なヴォーカリストのスタン・ティッペンズは顎の骨折の治療中で不在だった。 それでも、ガイはヴォーカリストを除くこの4人にぞっこん夢中になってしまったのだ。
この何年か後にガイはN.M.E(注:ニューミュージカルエクスプレスという名の音楽紙)のインタビューで「こいつらがさ、デカいオルガンをズルズルと持ち上げて階段を登っていたんだよ。ハモンド位の馬鹿デカいオルガンだぜ?それを見てオレは『いや、もうこいつらの音とかどうでもいいや。』って思った。遂には、そのオルガンを階上まで運び上げたんだから!」と語った。
残念なことに、ガイは最初のヴォーカリストだったスタン・ティッペンズは対してはあまり興味が持てず、またスタンの『シナトラのようなビート感』と華のないパフォーマンスに困惑さえしていた。
ピート・ワッツは「ガイは他の誰かを入れたがった。ヴォーカリストが決まれば、きちんとしたグループとしてIsland Recordsに在籍できるからね。そうそう初期のオレ達の写真には、ガイがオレ達と一緒にメンバーのように映り込んでいるんだよ!」と話す。
新ヴォーカリストのオーディションは悪夢のようだった。バンドはもう極限まで落ち込み、もう永久にヴォーカリストは見つからないと天を仰いだ。
そこに1人のナイーブそうな男が現れ、震えるような独特の声でソニー・ボノの「Laugh At Me」とボブ・ディランの「Like A Rollin’ Stone」を歌った。
それがイアン・ハンターだった。
当時の様子をピート・ワッツは、こう語る。「ひどいもんだったよ。ガイは歌っているイアンの後ろで、ひでえ顔つきで親指をこう下げてさ『そんなのクソだ!クソ!』って言うんだよ。そうするとイアンの歌がちょっと良くなる。そうすると今度は『悪くないぞ、うん悪くない』って言う。オレなんかはもう顔をまっすぐ前に向けれなかったね。オレ達みんな、どこを見りゃいいのかわからなかったよ!イアンは最初いいヴォーカリストではなかったが、楽器は弾けない。だけどイアンには何かがあった。
オーディションでイアンが帰った後にガイが『なあ、さっきのアイツだけどさ、試しに2週間だけ入れてみようか?一応オレ達はバンドですっていうアピール用にさ。他にもっといいヤツ見つかったら、そいつに入れ替えればいいしさ。』って言ったんだ。
「オーディションから2~3日後、ガイから電話があって、オレが採用になったと言われた。続いてオレのルックスがイマイチだとも。確かにあの頃、オレは少し太っていたし、髪も短かったんだよ。」とイアン・ハンターは当時を振り返る。
「で、ガイはオレをテイラーに連れていってスーツをオーダーしてやるって言ったんだ。Island Records から100ポンドの経費を出させるからってね。1969年当時、100ポンドって言ったら大金だ。だからオレにとっちゃ実にありがたい話だし、何よりガイとの間に信頼関係みたいなものを感じたな。」
ヴォーカリストも決まり、これですべてが出揃ったとばかりにガイはバンドでリハーサルを始める。
ミック・ラルフスはこの時のことを「ガイはオレ達にボブ・ディランのバンドを投影していたようだった。だから、オレ達が今まで演っていたような古典的なプログレッシヴなのではなくて、エレクトリック・フォークバンドとでも言うのかな、そんなカンジで演るようにオレ達を扇動していたね。」と語る。
ガイはイアン・ハンターに対しても同様だった。「ガイは、オレ達に変なことをさせようと考えていたようで、オレに作詞を勧めたんだ。他にもディオンの “ In My Own Backyard “を逆から弾かされたりとか。そうやってガイはオレの殻を破ってくれたんだ。結果、出来上がったのが “ Half Moon Bay “ (注:Mott The Hoopleのファーストアルバム B面の3曲目)なんだ。」
そこでいよいよガイにとって極めて重要な案件が持ち上がって来る。
そう、バンドの「名前」だ。
「彼はだいたい10個くらいの候補が書かれているリストを持っていた。それぞれ、バンドの為に3、4日かけて考えられた候補だったんだ。例えば「Blue Egg」「Savage Rose」「Fixable」「Brain Haulage」「Griff Fender」「The」「The The」そして勿論「Mott The Hoople」もリストにあった。 だけどオレ達はどれもあんまり気に入らなくて…でもガイはオレ達にとても良くしてくれているし、何よりオレ達はガイが大好きだったから、ガイが『Blue Eggにしようぜ!』って言っていたら、そのアイデアに従うつもりだったよ。結局「字に書いてみるとスゴくイイ」から、とガイが言い、バンド名は決定した。
この名前は、ある本からインスピレーションを得られていて、ガイはバンドのメンバーみんなに読むように勧めていたそうである。
「何でもアメリカにいた非国教徒プロテスタントの男の話らしいんだけど、その男の名前がジョージ・モットって名前なんだ。で、『フープル』には “ 彷徨える反逆者 “ っていう意味があるらしくて、それで “ Mott The Hoople “ になった。なんていうか…型にハマらないオレ達にピッタリだとガイは思ったらしい。」
ピート・ワッツは続けて「ガイの全体的なアイデアとして、オレ達のバンドに神秘的な雰囲気を演出したかったらしいんだ。だからオレ達ひとりひとりの名前に対してもバンド名同様にいろいろ口出してきた。例えば、『バフィン』はデイル(注:ドラマー)の学生時代のニックネームなんだけど、ガイはそれをとても気に入っていた。で、更にヴァーデン・アレン(注:オルガニスト)に彼のお父さんの名前を使わせようともしていた。イアンの『ハンター』も本名ではなくて、実はミドルネームなんだよ。これもガイのアイデアだ。それでピート・ワッツの名前をガイはどうにもこうにもお気に召さず『普通すぎて偉大なカンジが全くしない!』と言って、ピートに『他になんか名前ないのか?』と詰め寄った。
ピートが自分のミドルネームが “ オーヴァーエンド “ (注: 繰り返し回転して の意)だと言うと、それを聞くや否やピョンピョン飛び跳ねて『オーヴァーエンド・ワッツ!!サイコーだ!いや、お前の仰々しいベースのコトじゃないぞ!シェイクスピア的ってコトさあ!』って叫んで大喜びさ。結局みんな、そんなガイについつい巻き込まれちゃうんだよ(笑)。」と話す。
ガイの洗礼を受けたバンドは次に自身のファーストアルバム制作へと取り掛かる。
特にミック・ラルフス(注:ギタリスト)にとっては、まったく新しい試みが待っていた。
ミックは、「ガイは型破りな方法で、人の能力を引き出す天才だった。オレ達はレコーディングの為にスタジオ入りするんだが、まず酒をかっくらって酔っぱらって、高い経費を使って豪華な食事をケータリングする。これ、全部レコーディングする前にやるんだよ。で、ガイが『よう、スタジオをやっちまおうぜ!』って言って、オレ達全員で椅子やら何やらを全部ひっくり返してさ、そこから演奏し始めるんだよ。
こうした気狂いじみた行為は、人が秘めてしまっている感情や思いなんかを引き出す為のガイのとっておきの方法なんだ。だからオレはガイの一見、頭がおかしい行動にはちゃんとした筋道を見ることができた。
ガイは自分のアーティスティックな感性に従って生きていたよ。そういえば昔、ロンドンですごく欲しかったギターがあって、それを見ていたらガイが『そのギターがあれば、もっと良い音が出せるのか?』って聞いてきたから『ああ、もちろん』と答えたら、ガイは『じゃあ手に入れなきゃダメだ。金?気にするな。今から二人で Island Records に行って貰ってこようぜ!』って言ってくれて、お望みのギターを買ってもらったよ。古いレスポールだったんだけど、サイコーな音を出してくれたよ。ガイもその音に満足してくれたから、正しい行いだったな。」と語る。
ピート・ワッツは「ある日ガイは ” Stirling Cooper “ で襟がサイドに付いている変わった真っ赤なシャツを見つけた…そのシャツを着た彼の姿は、いやもう一生忘れられない光景なんだけど…オレ達はスタジオに居て、そこにガイがそのシャツを着て現れた。
よく見ると、ガイは頭に大きなタンコブを作っていて、しかも大流血さ。
『おい!ガイ!大丈夫か?』って声をかけたら、振り返りざま『お前は誰
だ?』って言うんだよ。後で分かったんだけどガイはスタジオに来る途中、蓋が開いていたマンホールに落ちてしまって脳震とうを起こしてた。それでも仕事をキャンセルせずにやろうとしたけど、どうにもダメで。それからというもの、オレにはどうもあのシャツがその後の災いの元凶なような気がしたよ。」
つづく