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Midnight To Stevens (Extra Edition)

こんにちは。
今回、再びMOJOマガジンから離れて寄り道したいと思います。
ガイについて色々調べているうちに、またいろいろ興味深い話を見つけてしまったので。
また、今回はガイについていろいろ個人的に感じたことなども付け加えちゃいました。
そしてそして!今回は、大好きなイラストレーターさくらいはじめさんが描かれたガイのイラストを文中に使用させていただきました。嬉しいです!
さくらいさん、ありがとうございました!

さくらいはじめさんのイラスト素敵♡

■ ガイ・スティーヴンスとコズモ・ヴァイナル

 前々回のMidnight To Stevens⑵ でお伝えした、N.M.E.のインタビューを覚えていらっしゃいますでしょうか?実はこれ、あの後も続いておりTrafficのファーストアルバムにまつわる話へと続いていきます。
このインタビュー時にガイのボディガードよろしく帯同していたのがコズモ・ヴァイナルです。
その際、コズモを除くその場の全員はホットコーヒーとブランデーを飲んでいましたが、コズモだけは自分のカップやグラスを持たずにガイのグラスから、こっそりとブランデーを飲んでいました。ガイは全く気付いていないように見えたそうです。(上手いやり方!)
また、インタビュー中、過去の悲しい出来事や自分の功績を語ろうと口を開いては、いや、でもやっぱりやめておこう…と躊躇するガイに「言っちゃえよ、全部話しちゃいなよガイ」とハッパをかけたりしています。
コズモが出てくるのは、ほんのわずかなのですが、ガイに対する労りや気遣いが感じられます。
そして前々回でも伝えた通り、このインタビューは「London Calling」のリリースのわずか1週間後に行われています。
「London Calling」のレコーディングに関する話は、今後しっかり翻訳する予定ですが、このレコーディング中、ガイの奇行はかなり目立ち、それはジョー・ストラマーの死後に発売された「London Calling Special Edition」に付いていた特典映像からも見ることができます。
この奇行は、すべてガイが酩酊状態だったことが原因のようで、ひどい日はジョーとミックに両肩を担がれてスタジオを出る、気を失ったガイの姿も目撃されていますし、上記の映像の中でも「オレはプロデューサーだぞ!」と叫ぶガイに「ああそうかい。だったらプロデュースしろよ!」と言い返すジョーの声も入っています。
恐らく、レコーディング終了後もジョーやミックはその後のガイが心配だったのではないでしょうか?だから腹心のコズモをガイの傍に置くように配慮し、深酒をして何かコトを起こさないよう、見守るようにしたのではないか?と考えるのが一番しっくりきます。

 コズモは、このあと割とすぐにアメリカに移住してしまいます。The Clashとの関係は続いていたようですが、( 「This is video CLASH」で、シェイスタジアムのライヴにおいてコズモがイントロダクションをしている姿が見ることができます。)その後も音楽業界に身を置き、自らがプロデューサーとなったようです。
そのコズモの身の振り方に、ガイの影響を少なからず想像してしまう私は、少々ロマンティストすぎますかね?(笑)

■ ガイの厄年、1967年

 1967年は、ガイにとって正に厄年とか天中殺とかだったんじゃないかと思われるような不運が続きます。
まずは、ガイの上司でもある Island Recordingsの代表クリス・ブラックウェルとの関係性において、最低最悪の事件が発生してしまいます。
これをガイ自身は、「 "Whiter Shade Of Pale"事件」 (注:Procol Harumのファーストアルバムの原題名。邦題は『青い影』) と呼び、12年も経った後でも下記のように回想しては怒っています。
「キース・レイドっていう男が訪ねてきて、詩を持ち込んできたんだ。キースはその頃、週給4.5ポンドで弁護士の事務所に勤めていたらしい。その詩が、こう、何というかディランっぽくて… 兎に角、すごい才能を感じてね。キースに『君はソングライターになるべきだ!』ってアドバイスしたんだよ。」
その後、何が起こったかというと、ガイのアドバイスに従い、キースはIsland Recordingsに作詞を持ち込んだものの、クリスがこれを受け取っていたにも関わらずガイに渡さず、忘れたのか放置してしまったのだ。
その後すぐに、この天才ソングライターのキース・レイドはゲイリー・ブルッカーとProcol Harumと一緒に創作活動を開始し、(注:キース・レイドとゲイリー・ブルッカーを引き合わせたのは、ガイだという証言も他の文献にある。だとするならばガイにとっては更にショックな出来事!)結局は、クリス・ブラックウェルのしくじりにより他のレーベルから音源がリリースされることとなってしまう。更に追い打ちをかけるかのように、このアルバムはチャートNo.1の栄冠を2週続けて獲得し、1967年のヒットアルバムの1つに数えられるまでになるので、ガイが地団駄を踏む姿が目に浮かびます…。

 1967年のガイの厄災は勿論これだけでは終わりません。
あのaceから出た “ THE UK SUE LABEL STORY “ でもお馴染みの有名なショットに映り込んでいる7インチ達。
このシリーズの ⑴ でもお伝えしたように、ガイは盗難を恐れるあまり、DJ中にはその上に座り、自宅ではその上に寝ていたという証言も在るほど用心していた7インチの膨大なコレクションがこの年、すべて盗まれてしまいます。盗難にあった際、ガイの7インチはすべて彼の母親宅にありました。
大切な7インチ達が盗まれてしまっただけでも痛手は十分過ぎるほどですが、加えてこれらのコレクションが、わずか9ペンス(注:この頃はイギリスのポンドは12進法でした。1994年で換算された金額が3ポンド75ペンス。今なら恐らく6~7ポンドくらい?)均一で売られていたことを知ったガイは、このように当時の心情を語っていました。

「 オレのレコードを売ってたヤツは、価値なんかこれぽっちも分かっていなかったよ。オレが持ってた The Miraclesやマディ・ウォーターズの全シングル、001のシリアルから始まるChessのシングル全部の価値を。聞いてくれよ、オレはさチャック・ベリーが1964年に演った「Promised Land」や「Nadine」のセッションの時、フィル・チェスと一緒にそこに居たんだぜ?写真だって撮らせてもらったんだから。それから Chess and Checkerを持っていたPye Recordsの代表だったイアン・ラルフィーニに、「Memphis Tennessee」をシングルで出すようにアドバイスしたのもオレなんだ!結果それは実現したし、B面の曲は「Let It Rock」になった。みんなオレのレコードをテープに録りたがった。マスターテープからじゃない。オ・レ・の!レコードからだぞ!だけど、オレも不注意だったよな。先に何が起こるかなんて誰もわからないし、古いレコードを持っていても針飛びさせてしまっていたかもしれないからな…。」

とはいえ、このガイのコレクションが数多くのミュージシャン達に影響を与えたのは、以前にもご紹介した通り。他にも、The Yardbirds 結成前の若きエリック・クラプトンはガイの自宅でフレディ・キングのアルバムを大音量で聴かされ、挙句、ハンマーを床に叩きつけながら「弾け!エリック!弾けよ!」と叫ぶガイに震えあがってしまったという逸話もありました。

■ ガイのお友達

頭の回転の速さからか、性分なのかは分かりかねますが、ガイは兎に角早口で一ヶ所に留まることができない人だったそうです。最早コミュニケーションを図るのも困難で、ただ一方的にガイが話す、まくしたてる…という具合で、ロクな会話にならなかったと多くの人が証言しています。じゃあガイに友達はいなかったの?と思い、調べてみるとロジャー・イーグルという人の名前を見つけました。
この方のお名前を私は知らなかったのですが、マンチェスターにあったノーザンソウルの聖地のひとつ、Twisted Wheel Clubのレジデントとして大変に有名なDJでした。
ロジャーはガイと知り合って、当時ほとんどの人が知らなかったアメリカのソウルミュージックについて色々と語り合う仲だったようですが、ロジャーがマンチェスターのトラッフォードパークにあったケロッグコーンフレイクスの工場で働くこととなり、引っ越していってしまいます。そして1963年の9月からロジャーは Twisted Wheel ClubにてパートタイムでDJを始め、看板DJになっていくのですが、ここでロジャーはUK SUEのレコードも結構かけていたようです。特にビリー・プレストンやボブ&アールの曲はマンチェスターのソウルクラブで人気が高かったとのこと。
1963年というと、ガイも The Scene ClubでDJをしていた頃でキャリアのタイミングが近く、UK SUE を手掛けるようになり、ヴァイナルで心を通わせていたのかな。
なかなか素敵な話。このロジャーさん、自伝も出版されていらっしゃるようなので、機会があればもっと詳しく調べてみたいと思いました。それから、ロジャー・イーグルについて何も知らなかった私に詳しく説明してくれたのは東京ノーザンソウルシーンの重鎮、ウッシことDJ uCjima君でした。どうもありがとう!

■ ガイとジェリー・リー・ルイス

 いろいろ調べてみると、やっぱりガイの根っこは15歳の時に観たジェリー・リー・ルイスであることがよ~く伝わってきます。ジェリー・リー・ルイスとボブ・ディランが彼の「何か」であったことは確かなようです。

とりわけティーンネイジャーであった頃に観た1958年の9月、キルバーン(ロンドン北部)のガーモントステイトでのジェリー・リー・ルイスのライヴ。当初は全英ツアーと称して各地で開催予定だったそうですが、ジェリー・リー・ルイスがわずか13歳だった従妹の娘と結婚したというスキャンダルが、当時のイギリスの法律に引っかかり急遽キャンセルとなります。結局、この時に実際演奏できたのはたったの2公演のみ。その1つにガイは運良く行けたようで、その時の興奮をこのように語っています。

「キルバーンまで、アメリカの若いシンガー兼ピアノプレイヤーを観に行った。彼のパフォーマンスは、オレの一生に決して色褪せることのない影響を与えてくれた。たったの20分間のステージだった。だけど、充分過ぎるほどの興奮を向こう20年分貰ったような気持ちだったよ。彼は背が高く、ツヤの無いクルクルのブロンドヘアにヒョウ柄の襟で、赤のパイピングが入った黒いジャケットを着ていた。会場は、半分くらいの入りだったけれど、最後は割れんばかりの拍手喝采だったよ。
ジェリーは、どの曲も最初はスツールに座っているんだけど、曲の途中でカッコ良く蹴っ飛ばしちゃうんだ。まあ、あんなタイプの曲は演っている方も聴いている方もじっとなんかしてられないからね、どうしても踊りたくなっちゃうよ。曲の合間、息を整える間にジェリーはコームを胸ポケットから取り出して、後ろ側に撫で付けるんだ。
バカな客がさ、「さっさと演れよ!」とか「ブリルクリーム(注:英国製グリース)を使えー!」とか野次ったりしてたせいかどうかは分からないけど、いや明らかに気分を害したのかもしれないな。ジェリーは最後、「どうも」ってぶっきらぼうに言ってステージから姿を消したよ。それから割と苦労して、ジェリーのレコードを入手したけど、やっぱりあの興奮には届かなかった。何せあのステージは、オレの心の中で随分と長い間生々しく存在していたから。」

良い話。

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