Midnight To Stevens ⑸
更新がだいぶ遅くなってしまいました。
次回が最終回になりそうです。今回は Mott The Hoopleとの関わり合いと別れ、そして…例のアルバムのプロデュースへと続いていきます。
紆余曲折はあったものの、ガイの手によって Mott The Hoople はしっかりとしたバンドとなった。ソニー&シェール、ダグ・サーム、ザ・キンクスのカヴァーを提案したのもガイだった。そしてバンドは、イギリス・アメリカとツアーに出ることになり、ガイも同行した。
イアン・ハンターは、この時の複雑な思いを語った。
「オレ達のマネージャーとして、ガイはツアーに同行することにした。 だけど、もうツアー中は神経が休まる暇はなかった。誰もガイを上手く扱うことができなかったんだ。初のアメリカツアーに出たとき、ラジオのトークショーに The Kinks と一緒に出演したんだけど、オレ達は本当に緊張してしまって声が出ないほどだったよ。でもガイは違った。ガイは The Kinks の顔を潰したんだ。ああ、もう完全に真正面からね、こてんぱんに。The Kinks は、トークショーで『出来ることなら、自宅に戻ってフットボールしたいよ』って話していたんだ。 そうしたらガイがいきなり怒り出して、The Kinks を『この偽善者どもが!』って罵倒したんだ。『そんなコトをほざくなら、ロックンロールを演奏するんじゃねえよ!音楽を心から愛する人たちに譲って、お前らはとっとと消え失せてフットボールでもなんでもしてろ!!』って言ったんだ。ガイは自分も自分の仕事に責任を持っている、お前らもそうだろうが!と主張したのさ。
セカンドアルバムのレコーディングも大変だった。ガイはオレ達がしっかりと起きていられるようにとスピードをくれたよ。レコーディングする代わりにスタジオのコントロールルームに座って12時間ブッ続けで話しかしてなかった時もあった。それから、オレ達にはレコーディングに関して正直不満もあったんだ。何せガイは感覚的に物事を決めてしまうところがあったからね。
“ On Walking With A Mountain ” 演奏中にバフィン(注:ドラムのデイル・グリフィン)のスティックが折れちゃってビートを飛ばしちゃったんだ。 だからオレ達はガイにもう一回録ってくれって言ったけど、ガイは「いいや、このままの方が断然いいよ。このままでいこうぜ!」って取り合ってくれなかったよ。だけどこっちにしてみりゃ、聴くたんびにその部分が余計に気になってくる。挙句もう二度と聴きたくないとまで思ったよ。」
しかし ” Mad Shadow “ のレコーディングでは、ガイの傍若無人な振る舞いが目立ちはしたものの、イアン・ハンター作の6分半の名曲 “ My Mind’s Gone ” を誕生させたのは、まぎれもなくガイの功績だ。
イアンは「ガイから即興で1曲作れと無茶を言われて出来たのが “ My Mind’s Gone “ だった。そのあたりでは、パーフェクトな意思の疎通があったんだ。レコーディングで演奏が終わった直後、しばらくの静寂があった。そしてガイはスイッチを切った瞬間、あの例の甲高い声で喜びのあまり叫んだんだ。その姿を見れば、誰でもガイの為に頑張ろう、ガイを喜ばせてやりたい思ってしまうんだ。逆にそうでなかった場合、ガイは本当に悲しいそうな顔を見せるからね。」
しかしMott The Hoopleはもう限界を感じており、ヴァ―デン・アレンが “ Mad Shadow “ のレコードをガイの前に投げつけたことで、バンドとそのメンターであったガイはそれぞれ行く道を違えることとなる。
「ガイは物事の始まりには、ものすごい才能を発揮する。だけど、すぐに途中で興味を失ってしまい、終わりまで続かせることができないんだよ。」とイアンは付け加える。
幸い、バンドはそこまで飽きっぽくはなかった。その後、セルフプロデュースで制作・リリースした “ Wildlif “ に失敗した後、プライドをかなぐり捨て謙虚な姿勢でもってガイに再プロデュースを依頼する。ガイは、アルバム制作に取り掛かる前に1,000ポンドの支払いをバンドに要求した。
「金に関しては、ちゃっかりしたヤツだったね。」とイアンは微笑む。
遂にガイの Island Records 時代、最後の重要かつ、ガイのキャリア中で最も奇妙な仕事が始まった。
ピート・ワッツは “ Brain Capers “ のレコーディング、最初のイカれた5日間のことを目を細めて思い出し、語る。
「ガイはスタジオに、アンディ・ジョンズというエンジニアと一緒にやって来た。何故か2人して強盗の恰好をしてたけど、オレ達は構わずアンディがセットした機材で、5曲を続けて録音したんだ。レコーディング中ずっと、テープを回し放しにしたまま、ガイとアンディの2人は、オレ達の周りからスタジオ、挙句は Island Records のビル内全体を走り回り、水鉄砲でお互いを撃ち合っていたよ!バフィンがあまりの理解不能な状態にドラムスのスツールから崩れ落ちたのを機にセッションは終了したんだ。
オレはハムステッド(ロンドン北部の高級住宅地)の自宅に帰ったつもりだったんだけど、ふと気付くと彼女の家の庭に朝方4時に立ち尽くしていた。手には何故か Island Records にあったはずの直径1メートル弱の時計を抱えてね。その時計の後ろで夜飯を食ったよ。確かステーキだった。」
ある日、ガイはIsland Recordsのロビーに入るなり、そこに額に入れて飾ってあったアルバムのジャケットの数々をビリビリに破いてしまった挙句、King Crimson のジャケットを床に叩きつけながら「King Crimsonなんかクソだ!Mott The Hoople が世界一なんだ!」と叫び、ロビーにあった壁にはめ込まれた椅子や、そのそばにあったアンプ、ギターにケチャップをブチまけた末に放火してしまう。翌日、その様子を目のあたりにしたクリス・ブラックウェルにガイは「どういうことなんだ?」と問い詰められ、ガイがレコーディングが難航していると告げると、再びクリスから何曲録り終わったか聞かれる。5曲と答えたガイに、クリスは「思ったほど悪くないじゃないか!」と返している。
しかしながら、ガイの Island Records におけるキャリアは終焉を迎える。
ディヴィッド・ベタリッジは悲しげに「ガイはIslandを去らなければならなかった。彼と一緒に働くことは、もう不可能だったから。」と語る。
そしてワーナーでのA&Rの仕事のみがガイに残されたが、これもガイにとってはフラストレーションそのものに過ぎなかった。それでもガイの音楽に対するセンスが鈍ることは無く、それを証明するかのようにミック・ラルフは「その頃、Bad Company のポール・ロジャーと一緒に演っていたんだけど、ガイがある日やって来てオレ達が一緒に演った、別ヴァージョンの “ Can’t Get Enough “ のデモか何かを聴いて、飛び跳ねながら叫んだんだ。
『こいつは最高だ!この曲は絶対スマッシュヒットになる!』ってね。オレは、悪くはないけどそんなに良くもないじゃないかというのが正直な感想だった。けれどガイは正しかったよ、だって本当に売れちゃったんだから。」
1975年、ガイがプロデュースしたのはカナダ人のフィル・ランボーが率いる陽気なパブロックのグループ、 The Winkies のみだった。この年は、ガイの過去と未来を凝縮させたようなプロジェクトが進行していた。ピート・ワッツは、エアー・スタジオでポスト・イアンのアルバムを制作中だった。ピートは「ガイがオレ達の隣のスタジオで、Mott The Hoopleの “ No Wheels To Ride “ のカヴァーをケヴィン・ブラックロックって名前のヤツをヴォーカルにして演らせてたんだ。ヴァ―デン・アレンがキーボードで、ミック・ジョーンズがギターだったけど、ミックはすぐにバンドをクビになってたよ。」
数年後、ミック・ジョーンズはこの雪辱をThe Clashのギタリストとして晴らすこととなるが、最初のデモ音源を制作する際、彼らのマネージャー兼パンクロックの立役者であるバーニー・ローズのアイデアで、ガイをプロデューサーとして起用することとなる。
そしてジョー・ストラマーにとって、初めてのガイとの邂逅は忘れられない場面だったようで「その時ガイは、肩パッドが入った変な色に染まっているアーミーのジャンパーに古めかしい汚いコートを着てた。髪はグチャグチャで、目はうつろ。意味不明なことを早口でしゃべっていて、完全な狂人にしか見えなかったよ。だけど、よく聞くと意味不明じゃない。もっともなことを話している。確かにすさまじい早口だけれど、辻褄は合ってるし正しいことを言っているんだ。」と語る。
また、ジョーは続けて「他にガイのことで印象に残っているのは、ガイは肝心なセッションに現れなかったってことだよ。だからガイを見つけ出す為の捜査網が張られて、オレは何故か直感的に街中の飲み屋を探し始めた。3件目あたりでガイを見つけ、彼の肩を叩いて『ガイ、セッションが始まるぜ!』って声をかけた。ガイは『よう!何か飲むか?』って言ったよ!」
肝心のデモは成功とは言えない出来だった。
ガイが Island Records のティム・クラークの元に舞い戻った時、彼は完全に「干されて」いる状態だった。
ティムは「僕がマネージングディレクターだった時、クリス(ブラックウェル)からガイを一時的なA&Rとして雇ってあげて欲しいと頼まれたんだ。その頃、クリスとガイの間ではコミュニケーションが互いに上手く出来ずにいたけれど、それでもクリスはいつでもガイに対して更生のチャンスを与えていた。ガイは『なあ、聞いてくれよ。ウールワース(注:イギリスの大型スーパー)で働いてはみたけれど、オレの才能が全然活かされねえよ。だからまた音楽のビジネスに戻りたいんだ。』と僕に言ってきた。僕らはガイを再び迎え入れたんだ。」とその時の様子を語る。
しかし、ディヴィッド・ベタリッジは「それは、とても難しい時期だった。Island Record は、その時にはだいぶ変わっていて、ガイが居る場所はもう無かったんだ。我ながら酷いとは思うけど、それが事実だった。例えるなら、ガイは Island Records という赤ん坊を立派に育てたが、その赤ん坊が成長し、その成長した青年がやろうとすることをガイは気に入らなかった…というような話なんだ。」
ティム・クラークが続ける。「僕たちは、ガイがドラッグをやっていないことは知っていたけれど、彼のアルコールの問題については全くの盲点だったというか…気付いていなかったんだ。そして、そのアルコールこそがガイを蝕んでいた。仕事中、ガイが消えちゃうんだ。そして居なくなったと思ったら2~3日もそのまま姿を現さない。そんな信用できないような人と仕事なんてできないよ。ある時、ガイは居なくなったと思ったらニューヨークに現れてクリス(ブラックウェル)にさんざん Island Records を罵った挙句、宿泊先のホテルで大暴れして部屋を目茶目茶にしたり、悪態をついたりしたそうだ。それからスタジオにプロデュースでやって来ても、やる気はまったくなし。かと思えば、1杯のビター(ビール)を飲めば今度はたちまち大騒ぎをし出す…そんな調子だったから、出戻って来ても1年ももたなかったよ。」
しかしながら1979年、ガイに再び1枚のアルバムを制作するチャンスが訪れる。
それはガイにとって最後の、そしてロックンロールの歴史に残るアルバムだった。
The Clash の “ LONDON CALLING “ だ。
この話は、デモ作成時のガイのバックレ事件をきれいに水に流したミック・ジョーンズから持ち込まれた。
この時をジョー・ストラマーは「ガイは大声で叫びながらスタジオに入って来て、アーセナルカップ(フットボール)の決勝戦のテープを流しながら、スピーカーの前で両手を広げてスカーフをヒラヒラさせながら、群衆の応援歌を一緒に歌い、スタジオ中を行ったり来たりし始めたんだ。それが最初さ。ガイはヴォリューム全開で、オレ達全員サイコーだと思ったよ。」と思い出す。
このレコーディングの模様を、トッパ―・ヒードンはドキュメンタリーアルバムの “ CLASH ON BROADWAY “ ブックレットの中で「最初に録ったのは “ Brand New Cadillac “ だった。オレ達はまさか録ってるとは思ってなくて、通しで演奏してみただけだったんだけど、ガイが『よ~しテイク!』って言うから『いやガイ、これはダメだよ。だってだんだん演奏が速くなっちゃってるし』って反対したんだ。だけどガイは『ロックンロールとは速くなってくもんだ!』って結局テイクになって、万事こんな感じでガイはプロデュースの腕前を披露してたな。」と話している。
つづく