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Midnight To Stevens ⑵


 またここでお会いできてとても嬉しく思います。拙い翻訳文にも関わらず、読んでくださり本当にありがとうございます。

さて、これからも 1994 年の MOJOのGuy Stevens記事翻訳をご紹介するつもりです。でも、その前に今回、少し寄り道をしたいと思います。MOJOの記事は、ガイの生涯を関係者たちからのヒヤリングによってまとめたもので、大変よくできているのですが、今回から Sue Records 時代以降の 1967年、ガイが Island Records で A&Rやプロデューサーとなる話へと進んでいきます。
それはそれで興味深いのですが、やはり私は The Scene Club や Sue Records時代についてもっと知りたく思い、私なりに調べてみました。
すると、NME ( New Musical Express という名の英国音楽誌)で長くキャリアを積んだ著名なライター、CHARLES SHAAR MURRAYという方の著書に出会いました。

彼は、ジミ・ヘンドリックス、ディヴィッド・ボウイやジョン・リー・フッカーについて詳しく書かれた本を出版しており、それらとは別にさまざまなミュージシャンに関するコラムをまとめた「Shots From The Hip : Notes from the counterculture」という本を他のライター2名と共著で出しています。
このコラム集の中に、NME時代の1979 年 12 月 22 日に書かれた、ガイのインタビューがありました。
このガイに関するコラムのタイトルは「 There are only 2 Phil Specters in the world , and I am one of them 」。(『世の中にフィル・スペクターは2人だけ存在する。そのうちの1人がオレだ。』というガイの有名な言葉)

 蛇足ながら付け加えますと、数々の奇行と犯罪まがいなことを繰り返したガイ(このあたりはMOJOの記事翻訳で後述しますが)は、1971年頃には完全に音楽業界から締め出され、落ちぶれてしまいます。

そして、それから月日が経ち、すっかりアルコール依存症になってしまったガイが夜な夜なパブで飲んだくれていることを知ったThe Clashのジョー・ストラマーは Oxford Street(ロンドン中心地)のパブをしらみつぶしに尋ね、ガイを探し出します。
見慣れたモジャモジャ頭を遂に見つけたジョーは、ガイに「同情なんかじゃないぜ。オレはただ悩みを打ち明けているだけだ。オレ達とアンタはお互いに必要なんだ。なあ、一緒にやろうぜ。」と、ご存じ LONDON CALLING (英国でのリリースは 1979 年 12月 14 日)のプロデュースを依頼します。このアルバムは高く評価され、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったバンドのプロデュースが成功し、業界もガイに再び興味を持ったのか、リリースからわずか1週間後にこのインタビューが行われたようです。

前置きが大変長くなりましたが、今回はこのインタビューの和訳をご紹介したいと思います。

以下、CHARLES SHAAR MURRAYによる1979 年 12 月 22 日 NMEのインタビューです。


「オレが Leicester Square (ロンドン中心部SOHO地区。The Scene Club近く。)の水道さえ通っていないワンルームのフラットに住んでいた頃、The Scene Club で毎週月曜日に R&B ナイトをやっていたんだ。The Rolling Stones や The Animals の連中なんかが来てたんだ。」

取材の約束の時間に、30分遅れて現れたガイは大きな声で騒ぎ、そして酔っぱらっていた。
彼の手は何故か深く傷を負っていて出血しており、彼曰くどこかのガラスの扉をどうにかしてしまったんだそうだ。
インタビューを受けている…という認識はあるらしいが、陽気さと恐ろしさの極端な急展開。パブが開くや否や、ガイを連れていった。
彼は15年前(このインタビュー当時1979年)について話してくれた。
1964年、つまりMODSが本当にMODSだった時。そしてガイ・スティーブンスという男が R&Bの核となる部分をしっかりと握っていた時…。

「レコードはみんな通販で買ったんだ。金を送ると1週間ぐらいでルイジアナ州のシュリーブポートにあった Stan’s Record storeからレコードが届くんだよ。アメリカだぜ?アメリカのディープなテネシーからだ。」

―ガイ、ちょっと待ってよ。なんでルイジアナなのにテネシー?

「まあ、そのあたりだろ? とにかくオレがレコードに取り憑かれたのは、11歳の時にジェリー・リー・ルイスの " Whole Lotta Shakin' Goin' On " と出会ってからだ。だいたいその時期が、オレの学歴の最後になっちゃったんだけどな。何でかっていうとさ、学校でクラスメイト達にオレのロックンロールクラブで、バディ・ホリーの " Peggy Sue " や " That'll Be The Day " 、ラリー・ウイリアムスの" Bony Maronie " 、ジェリー・リー・ルイスの " Great Balls Of Fire " なんかの当時のヒット曲を聴かせてやるからって、1週間に 1シリング払わせてたのが学校にバレちゃって退学になったんだ。

で、まあ退学になったのが14歳で、しょうがないからロイズっていう保険のブローカーに勤めるようになったんだけど、そこでも変わり者扱いされてたな。
63年頃には、ルイジアナのStan’s Record store から買い集めたレコードをたくさん持っていたのを知ってか、The Whoのパブリシスト、ピーター・ミーデンがある晩オレに会いに来たんだよ。それでその時に、マネージャーのキット・ランバートと一緒にバンドをオレの家に連れてくるっていう話になったんだ。で、オレの家に来たのはいいが、なんとも変わったヤツらでさ、ただボ~ッと突っ立っているだけなんだよ。オレの妻が、あ、今は別れちゃったんだけどね。当時の妻がヤツらにお茶を入れたんだけど、それでもまだボ~ッと突っ立ったまま(笑)。

で、リンク・レイの " Rumble " を聴かせてやって、テープに録ってやったんだ。何故かというと、当時のオレのコレクション(レコードの)は膨大な量だったから、スティーヴ・マリオットやほかの連中もネタ探しにオレのところに来てたんだぜ。
で、キット・ランバートと The Whoの話に戻るけど、キットがオレに 5ポンドくれてバンドのために 2時間半くらいのテープを作ってくれって頼んできたんだ。その頃はまだピート・タウンゼントも曲を作っていなかったし、コピーするにもネタが思いつかなかったんだろうよ。だからオレはさ、ジェイムス・ブラウンとかをさ(と、ここで急に" Pleeeeeeeeeease Pleeeaaase Pleeease " とJBになりきって髪を振り乱して歌うガイ)
それからリンク・レイを教えてやったんだ。" Rumble " と言えば、今じゃピートのクラシックかも知れないが、オレがアイツに初めて聴かせてやったんだ。
(注:確かにピート・タウンゼントは Rolling Stone誌やIndependent紙でもインタビューで、『" Rumble "を初めて聴いたとき、何とも変なカンジがしたけど、そのうち攻撃的で暴力的なギターサウンドの虜になった。』や『この曲が存在していなかったら、僕はギターを手にすることはなったと思う』と後年語っています。その曲をピートが初めて聴いたのがガイの自宅というのは、なんともグッとくる話です。)

―ガイは、唾を吐き散らかしながら大声でギターサウンドを口で奏でる。

「 The Whoの連中は、やっと座ったものの、子供みたいにおとなしくてさ、そのまま3時間くらいジッとしてたよ。オレの奥さんが、『お茶のお代わりはいかが?』って尋ねても『あ…えっと…ど、どうしようかな…』とかなんとかモジモジしててさ。で、オレは『ほら!お前ら起きろよ!ここにオレの自慢のレコードが揃ってるぜ!MOTOWNのシングルは全部あるし、STAXだって全部だ。』ってな。
そうそう、オレはさ、1963年にメンフィスのSTAXに行ったんだぜ。そうしたらさ、『ここはレコードショップです。』なんて言いやがんのよ。いやいや、オレは知ってるぜ、スタジオがあるんだろ?って言い返しても、まだ『いえ、ただのレコードショップです。』ってしらばっくれてさ。

で、裏に回ってみたら、ブッカ―T やルーファス・トーマスなんかが録音したスタジオが確かにあったんだよ。タクシーの後部座席ぐらいの、とても小さいスペースだったけど。

―今よりも若くて、MODなスーツに身を包んだクロップドヘアのガイがSTAXのカウンターで、大きな声でまくしたてる姿が目に浮かんだ。さぞかし、このソウルミュージックの狂人にはSTAXの受付も辟易したことだろう。
 
「だから63年にSTAXへ行った時、オレは『自分たちがどれほど重要なことをしているかっていう自覚はないのか?』って連中に言ってやったんだよ。分かってもらえないようだったから、本当はもっと言ってやりたかったよ。アイツら、レコードショップの方がスタジオなんかより、もっと重要だと考えてたんだ。」

―いや、ガイ。産業界が全体的にそういう風潮というのはあると思うよ。

「まあ、棚に商品を満たすことがレコードの売り上げに繋がると思うんなら、売ってみりゃいいさ。だけど、レコードっていうのは音楽をかけて聴くのが好き、または歌うのが好きっていう人たちのためのものなんだ。それが真髄なんだよ。だいたいレコード会社っていうのは、音楽の " お " の字も知らねえくせに会社にぶら下がっているような連中しかいねえんだよ。『ま、銀行で働くよりはいいか』みたいな連中な。

―The SceneでのDJがブルーズやソウルそしてロックンロールのプロパガンダとなり、ガイの生活は、創業間もないIsland Records内のレーベル、 Sue Recordsの運営へと移行する。それまでガイは地下鉄のピカデリーサーカス駅で、The Sceneのチケットを売って生計を立てていたが、Island recordsから週給 15ポンドを貰える身となった。Sue Recordsの後、The V.I.P.s(のちのスプーキートゥース)のプロデューサーとなったガイは、このクリスとの間に大きな溝を作ってしまうことになる。

「クリスとオレは、毎回毎回戦いを繰り広げていたよ。オレがもっと上手にクリス相手にやれたら良かったのかもしれないけど、無理だった。クリスはただの大金持ちのド素人なんだよ。それに気づかなかったオレもいけなかった。アメリカのSueを作ったのは、ニューヨークのジャギー・マーレーで最初のリリースはイネズ & チャーリー・フォックスのモッキンバード、番号は Sue 301だった。オレはわざわざ渡米して「The Love Of My Man」を入手しにいったんだ。誰もカヴァーしていない手つかずの曲だ。エルキー・ブルックスが聞いてなきゃいいけど! セオラ・キルゴアの「The Love Of My Man」は、本当に本当に信じられないくらいの名曲で、No.1ヒットなんてたやすい曲だ。この曲の著作権は、もちろんジャギーが持っていて、クリスは500ドルを支払ったけど、本人は最初50万ドルを請求してきた。この曲はアメリカでのチャートで3位になった筈だ。疑うなら調べてみろよ。この曲は、オレの人生の中でも最高な曲のひとつなんだから。だから、オレのSueにも入れたかった。オレは、オレ自身が最高だと思う曲をSueに入れたかったんだ。ボブ・ディランだって入れたかったさ。だからオレはクリスやディヴィッド(ビタリッジ)と手を組んで、レコードをアメリカから入手していったんだ。おかげでIsland recordsは破産寸前だったよ!」

CHARLES SHAAR MURRAYのインタビュー抜粋はここまでです。次回からは、またMOJOに戻ってガイ・スティーブンスのストーリーを繋いでいくつもりではおりますが、このインタビューもまだ続きがありますので、今後も抜粋するかもしれません。

つづく



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