Midnight To Stevens ⑶
暑中お見舞い申し上げます。
早いもので、ド素人の「ガイ・スティーヴンス」翻訳と考察も3回目を数えます。
相変わらず訳していても楽しいですし、みなさんからの「続き楽しみにしてるね!」のお声も大きな励みになっています。大変失礼ではありますが、この場で御礼を言わせてください。どうもありがとうございます。
それでは、前回の続きです。今回は MOJO翻訳の続きになります。
Island Records の初期、ブルービートのシングルリリースが立て続けに当たったのに、気を良くしたクリス・ブラックウェルは、R&B のレーベルを立ち上げることを決めた。そしてそのレーベルの最適任者と認められたのは、もちろんガイであった。このレーベルは、のちに Sue Recordsと呼ばれるが、USAのオリジナルのレーベルとは、たいぶ異なる。
こちらの Sueでは、リリースをするか否かの判断基準が、すべて「ガイが気に入るかどうか」だったと、クリスの片腕だったディヴィッド・ベタリッジ(Island Records クリス・ブラックウェルの片腕)は話す。
「ガイが、USAのSueと音楽的な関連性があると思っていたか? そりゃUSAのレーベルから、ジミー・マクグリフのようなシングルをたくさんリリースして、それからUK Sueを発展させていって、遂にはアイク&ティナ・ターナー、ベティ・エヴァレット、ルーファス・トーマスなんかを広く普及させたんだからね。それにガイは、普通のサラリーマンのようには働かないんだ。燃え盛る炎のような男だった。
クリスと僕がガイの両側に張り付いて、なんとか2人がかりでガイをビジネスに集中させていた。それでも実際、ジェイムス・ブラウンのNight Trainのように、金になったのは多分5枚のうち1枚くらいの割合だったと思う。
そして、その見返りは4枚にも及んだ ” The Sue Story “ だった。このコンピレーションアルバムは、長い間売られていたよ。僕たちのSueは、たったの1964年から1967年までの間だったけど、このSueが、それまでジャマイカの音楽に凝り固まっていたIsland Recordsとの架け橋となって、最もエキサイティングで、かつてない位のインディペンデントレーベルへと、共に成長していったんだ。」
Island Recordsが新しく立ち上げたレーベルの中で、最初に雇われたのが元Spencer Davis Group のベーシスト、マフ・ウィンウッドだ。
「Island Recordsで僕は、A&Rとブッキングのマネージメントを担当したよ。会社はBasing Street(ロンドン西部でジャマイカをはじめとする西インド諸島の移民が住む地区、Notting Hill Gateの一角)のビルの最上階にあった。大きなオフィスには円卓があって、クリスをはじめ、みんなが全員そこに座って仕事をしてた。まあ、こんなスタイルがふさわしいと、その頃は考えられていたんだね。それである日、クリスがオフィスに入って来るなり『おい、すごいニュースだ。ガイの入社が決まったぞ!明日から出社だ。』と言ったんだ。僕たちはみんな『マジかよ!!』って頭を抱えたさ。翌日僕たちは、この ” 厄介者 “ が少しずつ少しずつこちらに近づいて来るのをビクビクしながら待っていた。
ついにドアが開き、ガイの登場だ。髪はボッサボサで、恐ろしくピッタピタのスキニーなトラウザーズとスエードのクリーパーシューズを履いていた。
『よーし!オレ達で、世界一のレコード会社を作ろうぜ!!』って叫んで、そこいらへんを飛び跳ねてたよ(笑)」
ガイの最初のプロデュース(のようなワーク)は、Sueからリリースされたラリー・ウイリアムスのライブアルバムだったが、Island Recordsはガイにもっとふさわしいキャリアを与えた。それは、Carlisle(イギリス北西部カンブリアの市街地)のバンド、The V.I.P.sのプロデュースだった。このバンドのシングル2枚をガイがプロデュースしているが、特筆すべきは、彼らを新進サイケデリックアーティストのマイケル・イングリッシュとナイジェル・ウェイマスの Hapshash & The Coloured Coatのバックバンドに起用したことだ。
以降、彼らは Spooky Tooth を名乗るようになる。
1968年になると、ガイは新しいバンドに執心する。FREE は、ヴォーカルのポール・ロジャー、ギターのポール・コゾフ、若干16歳のベーシスト、アンディ・フレイザー、そしてドラムのサイモン・カークで構成されていた。
サイモン・カークは「ガイは、オレ達の足がしっかりと地に着くように助けてくれた。」と話す。
「 “ Tons Of Sobs “ のレコーディング時、オレ達はすっかりナーバスになってた。ただの世間知らずの若者にすぎなかったオレ達は、まったくをもって何をどうすればいいのかわからずにいたんだ。スタジオは完全に個別な感じで仕切られていたし…戸惑うばかりだった。そうしたら、ガイが入ってきて『なんだよコレ!クソだな。全部どかして、お前らのセットで演ろうぜ!』って(笑)。彼は僕たちを、何かに染めようとはしなかったんだ。僕たちがクラブとかで演奏しているように演らせたかったんだと思う。確かポールが再度ヴォーカルを担当して、何曲かコーラスもやった。95 %くらいの出来だったんじゃないかな。その間、ガイはずっと場を盛り上げてくれて、全力で『いいね!サイコーだよ!』って言い続けてくれて、素晴らしいヴァイブスをキープしてもらったんだ。ただ、その頃僕は、ガイに暗く鬱っぽい、もうひとつの側面があったことに、ちっとも気づかなかったよ。」
ガイは、口から摂取していたスピードの量が増えていき、徐々にそのツケが回ってきていた。
彼のアーティスティックなひらめきやアイデアこそは失われてはなかったものの、彼の日々の振る舞いや態度は、ロックスターの過分な我儘や言い分等を上手に扱ってきたマフ・ウィンウッドでさえもお手上げな程、酷いものだった。
「有名な話だが、ある時クリス(ブラックウェル)は Traffic をBerkshire(イギリス南東部 ウインザー城があることで有名な地)にある自分のコテージへと送り込んだんだ。クリスは、ここよりもう少し先、更に奥まった所にもう一軒コテージを所有していて、そこはよく強盗に入られていたんだ。それで警察が捜査し、犯人を捕らえるための囮を仕掛けたんだが、そこにまんまと引っかかったのが、なんとガイだったんだ。全部ガイの犯行だったんだよ。ガイは、クリスのコテージに押し入って家中のうろつき、そこにあった食べ物を食べ尽し、酒も全部飲み干していた。それを知ったクリスは警察に行き、ガイのためにわざわざ告訴を取り下げなければならかったんだ。」
ディヴィッド・べタリッジは、こう続ける。
「オレ達には、もうどうしようもできなかった。ガイは酒に逃げ、溺れていたからね。一度なんか、ホテルで前後不覚になってしまって、電機ストーブで火事を起こすところだったんだから。本当に大変だったんだよ。他の会社だったら、ガイは20分も持たなかっただろうね。」
60年代終盤には、Island Records は他のレーベルとは明らかに一線を画しており、ガイは自身がIsland Recordsにおいて更なる重要なポストに収まることを当然のことと思っていた。
「ガイは、Island Records の保護者的存在だったからね。」とディヴィッド・ビタリッジは指摘する。「ガイが Island Records のスタイルを確立させ、導いていったんだから。会社にはスタイルや個性がなくては継続していくことが不可能だからね。」
また、ティム・クラークは「ガイの意見はいつも必ず音楽に向けられていた。更にはバンドのルックスにも及んだ。彼はいつも黒い表紙のノートを持ち歩いていて、そこには彼が思いついた『 名前 』が書き込まれていたよ。ガイが気に入ったバンドに出会って、そのバンドの名前が気に入らないと、そのノートを取り出しては、その中から選んで新しい名前を提案していたんだ。まるでコンサルタントだね。」と話す。
サイモン・カーク(注:FREEのドラマー)は「ガイはFREEのことを『 The Heavy Metal Kids 』と呼びたがっていたよ。実際この言葉はまだ、音楽のジャンルとしても生まれていなかった頃だ。それから『 Tons Of Sobs 』(注:FREEの1st アルバムのタイトル) もガイが名付けたんだけど、ガイはオレ達の、なんとなくもの悲しい雰囲気とブルージーな音にご執心でね、きっとそこから思いついたんだと思うよ。」
ガイが持つ、耳から才能を嗅ぎ取る能力に間違いはなかった。NIRVANA のオリジナルメンバーだったパトリック・キャンベル・ライオンズは、ガイを「音楽に対して、最高の聴覚を持つ男」と称し、サイモン・カークはガイの音楽に対する強い情熱を目のあたりにしていた人物のひとりであった。
「ガイはね、『 The Basement Tapes 』(注:1975年 6月に発売されたボブ・ディランのアルバム。発売とオーヴァーダブは1975年だったが、事実録音されたのは1967年 6 ~ 9月)を(リリースの)何年も前から握っていてね、それを持ってきてオレ達を触発したんだ。このディランとTHE HAWKS の中から何曲かFREEでカヴァーさせようと思ったらしいんだ。他にはサム・ザ・シャム & ファラオスのWooly Bullyもオレ達FREEにカヴァーさせたがっていたよ。
そしてガイの影響下で、有り得ないようなレコード達が世に登場するようになる。
キース・リードとゲイリー・ブルッカーを引き合わせ、友人の飼い猫の名前からインスパイアされたというバンド名をこの二人に与えた。ガイは正にProcol Harum というバンドの誕生を手掛けた、助産師のような存在だったのである。ちなみに、この猫を飼っていた友人というのは Deccaの名プロデューサー、ガス・ダッジョン(The Artwoods、The Zombies、David Bowie、Elton John等をプロデュース)である。
また、ガイは King Crimson の熱狂的なサポーターでもあった。
Island Records には、ガイがプロデュースしたスティーヴ・ウィンウッドのファーストソロアルバムが在り、話題必至の目玉となるのは、ボブ・ディラン「Visions Of Joanna」と「Great Balls Of Fire」のカヴァーだった。このアルバムは、「Mad Shadows」と仮に名付けられていたが、最終的にこの名前はMott The Hoopleのアルバムのタイトルに使用された。
しかしながら結局、このアルバムはTRAFFICの「John Barleycorn Must Die」として1970年7月にリリースされ、ガイがプロデュースした曲は「Staying Together」1曲のみであった。(注:実際このアルバムには「Staying Together」という曲は収録されておらず、また他の文献では「Stranger To Himself」と「Every Mother’s Son」の2曲がガイのプロデュースとなっているので、恐らく後者の説が正しいと思われる。また、ボブ・ディランのカヴァー曲は結局現在も世には出ておらず、スティーブ・ウィンウッドのソロアルバムは1977年にリリースされた。)
悲しいかなガイの創造性が、らせん状のように高まっていくのに比例して、彼の行動や言動も軌道を脱すようになっていく。1968年の夏、ガイは大麻所持で逮捕され1年の実刑判決を受ける。
デイヴィッド・ベタリッジは、「この頃の警察は、ジョイントを手に持ってるだけでオーストラリアへと島流しにする位の勢いだった。」と当時を振り返る。ガイは結局9ヶ月を刑務所で過ごした。「ガイは刑に服したが、もちろん彼にとっては良いことではなかったんだよ」と続けた。
つづく