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診断名をつけられること(2)〜発達障害〜

発達障害のひとつである、
自閉症スペクトラム(ASD)の5年生、
ななは学校のテストが嫌いです。

もっと正確にいうと、
テストが嫌いっていうよりも
順位をつけられることが大嫌い。

知的な遅れはないので、
ときどきがんばって参加したテストでは
全問正解だったりすることもあります。

先生は、

「せっかく全問正解なんだし、
それってななのがんばりの証だし、
100点のときは100点って書いてあげたい!」

と言ってくださいました。

凡人なら、

そうだよな。
100点のときは点数を書いて
ほめてあげたら本人もきっと嬉しいはず!

と思うでしょう。

でも、ななは違いました。
100点であろうと、30点であろうと、
出来栄えは関係ないんですね。
点数化することで優劣を決めてかかる
行為自体に違和感があるのです。

「100点やったからって、別に嬉しくない。
30点やったからって、別に落ち込まへん。
ただのやる気の問題やろ?
そのときの気分に点数つけることに何の意味があるん?」

すごい着目点ですよね。
わが子ながら、
すごいこと考えるなぁと感心します。

わたしもテストは嫌いですが、
学校って、そういう場所だし。
やりたくないけどしょうがない、やるか・・・
深く考えずに波に乗ってここまで来ました。
妥協で受け入れてきました。

でも、彼女は妥協しません。
我慢もしません。貫きます!

点数つけられるのも、順位を決められるのも、
優劣を競わされるのも、意味がわからん!
納得できないことに、
なぜ付き合わないといけないのか?

かたくなに、
その思考パターンは変わりません。

テスト用紙を配られたら
無言でグシャグシャと丸めてポイ!が
彼女のテストの受け方のスタンダードだそうです。(^_^;)

2学期はほぼテストを受けなかったので、
評価のしようがなくて
通知表は斜線だらけでした(笑)

そのくせ、誰も「やれ」なんて言ってないのに
持って帰ってきた白紙のテストは
家で気分が乗ってるときにちゃんとやって
後から先生に提出したりもします。

わたしはななのことを
点数をつけることの『意味』に疑問を抱くほど
物事の本質を考える力を持った
独創的な発想を持つすごい子
だと思っています。

自分の考え方、価値観を押し通せる
彼女のポリシーの強さには拍手を送りたい!!

斬新な子どもの行動を
ユニークで素敵だな、
とポジティブに感じていたはずなのに

「このこだわりの思考パターンこそが
自閉症スペクトラムの『こだわり』なんですよ」

と診断されてしまった瞬間、

ママによっては、
これこそが障害から引き起こされる
異常な行動なんだ・・・と
一気に180度、ネガティブな感じ方へと
変わってしまうこともあるかもしれません。

集団生活に馴染み、
みんなと同じようにテストを受け
点数をつけられることを受け入られるように
歪んだ認知パターンをなんとかして
改善させていかなければならない・・・と

『大多数の思考パターン』に
無理をしてでも合わせることを
目標にしてしまうと

この子の笑顔も、この発言も、
この行動も、これも、あれも、
もしかして全部、ASDだから?

わが子のことを、否定な捉え方でしか
見られなくなってしまうかもしれません。

医学的な診断名というのは、
その子ならではの興味や関心事、好奇心すらも、
『障害のせい』にしてしまう可能性があります。

もちろん、その子を理解する手がかりの
一部になる医学的な診断は
とても重要なものだと思います。

でも

同じ診断名がつく子どもであっても
ひとりひとり、興味も関心も嫌いなことも
言動もみんな違います。

「自閉症スペクトラム(ASD)です」
「多動性注意欠如障害(ADHD)です」
「学習障害(LD)です」

発達障害のタイプをざっくり区分けをして
その障害の人に見られることが多い『特性』に当てはめて
その子の特性を理解しようとするより

診断名の先入観がない自由な発想で
さまざまな視点からその子を見て、
個性的で豊かな内面を知ろうとすることのほうが
ずっと大事なんですよね。

この考え方は
発達障害であろうとなかろうと
すべての子育てにおける本質だと思います。

男の子だから「こう」である
イヤイヤ期だから「こう」である
一人っ子だから「こう」である
シングルマザーの子だから「こう」である

みんな違うのに、
型にはめて決めてかかるのは違いますね。

「ななはASDだからこんな行動をします」

ではなく、

「ななはどんな気持ちでこんな行動をしたのかな」

どのような診断がつくかと急ぐよりも、
子どものありのままの姿を見て
関わってあげることが
一番大事なんだと気づきました。

だから主治医は
「ななはASDですよね?」というわたしの直球の問いに
煮え切らない答えしか返してくれなかったのです。

保育園、幼稚園、学校の先生や
支援者からの視点や
ママの視点だからこそ気づくこと、
逆に気付きにくいこともあると思います。

バリエーション豊かな子どもたちの言動が

「こだわりが強い」
「かんが強い」
「感覚が過敏である」

発達障害の特性を表す公式通りの言葉で
断定されて表現されてしまうのだとしたら
悲しすぎます。

ななは読書が好きですが、

「こういう特性(ASD)の子って
やっぱり読書が好きだよね」

読書に没頭する資質が
「自閉症スペクトラム」の特性だという
固定観念の説明で片付けられてしまうと
腑に落ちません。

読書好きにもいろいろあります。
平然と並ぶ活字を目で追うことで心が落ち着く子や
物語の世界に入り込んでいくことで
世の中にざわめくノイズから解放される子、
きれいな色彩の絵を眺めることで
リラックスする子もいます。

ミニカーを1列に並べる遊びに
熱中している男の子に

「自閉症スペクトラムの子って
並べることに執着するよね」

ひとくくりにして
言い切ってしまうのも引っかかります。

その子の遊び方をよ〜く観察して
一緒になって追求してみたら

「なるほど、これはワクワクするわ!」

という自由で独創的な彼らの発想に
少し近づけるのかもしれないのに。

どんなに医学が発展しても、
人のことを十分に理解することはできません。
つまり、わが子であっても
ママとは異なる子どもの心を理解するのに
ゴールはないのです。

発達障害の診断名は
あくまで手がかりのひとつにすぎません。

それでもわたしはやっぱり
わたし自身の覚悟とケジメのために
診断名を知ってよかったと思っていますが(^_^;)

ベースは理論的な医学的診断という
固定概念に流されることなく

そんなものを取っ払った大きな心のゆとりを基軸に
ななの豊かな世界を一緒に楽しめたら
いいなと思います。

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