まっすぐな「軸」って本当に必要?
私は、現在大学3年生である。夏休みのこの時期、出会う人に「就活やねー。何になりたいの?」と聞かれることが多い。
ちゃんとした就活をまだしていない(ちゃんとした就活ってそもそも何なのかという疑問が浮かぶが)私にとってこの「就活」というワードは焦りを感じさせ、心がちょっと重くなる言葉である。受験期に「受験なの?どこ目指してるのー?」って聞かれるのと似たような感覚なのかもしれない。
そう、そして実際に、「就活」というものに私は現在追われているのだ。
就活よりも「自分探し」がしたい
私は、自分について考える性格だと思う。考えすぎだとよく言われるのだが、実際そうだと思う。だからといって、自分のことをよく知っているかと言われると、そうでもない。
ただ、「自分探し」とか、「自分の価値観」とか、そういうことに敏感で、自分のことについてめちゃくちゃ知りたい欲がある。
このひと夏、そんな私は
自分の軸…(大切にしたい考え方、自分らしい働き方、自分が憧れる働き方・生き方、価値観)に繋がる沢山のヒントを得たい。
そして、自分を知りたい。
という目標というか目的を持って過ごしてきたつもりである。
そして、私はこれに制限時間を設けていた。それは、一ヶ月。
一ヶ月の期間でこの目標を達成しようと意気込んでいた。
ストレスフルな時期がやってきた!
2週間くらいたった時、色んな、「いいな」と思う空間だったり、素敵だと思う大人の方、心が動く瞬間、違和感を抱く瞬間など、自分の知らなかった世界に触れている感覚が沢山あったのに、もしかするとありすぎてなのか、ストレスフルになり、なんだかふわふわとしていて、地に足がついていないような日が続いてしまい、おまけに自分のことでいっぱい過ぎて反省すべき失敗もしてしまった。
今の私には自分と向き合い、整理する時間が必要だと分かっていたけれど、同時に、あっという間に時間が過ぎてしまい、私はこのまま何も得ることができないかもしれない、という焦りを感じてもいた。
有難いことにそんな、私の状態に気づいてくれる人がいた。そして、私の話を聞いてくれた。(またこの夜の話は別でまとめたい。)
私の気持ちを分かってもらうためには、どうして焦っているのか、どうしてそもそも自分の軸を見つけたいと思っているのか、などとてつもない自己開示と言語化が必要だった。(泣いた。笑)
なんで軸が欲しい?
この自己開示で出てきた、なぜそもそも『自分の軸が欲しい』のかというところなのだが、自分が「中途半端」であることに対してのコンプレックスのような、トラウマのようなものがあるからなのかということに気づいた。
私は、「やってみたい!」と思ったことをすぐやる性格である。しかし、それが「やらないといけないこと」になり、楽しみがもう感じられないのに、責任感でダラダラ続けてしまうことや、また別の興味がすぐ出てきたりして、そちらに手を出して気づいたら色んなことに追われており、結局全てのことに100%は力を注げないため、中途半端になっているという始末である。
おそらくもう一つ、そして大きな理由として、「親に認められたい、応援されたい」という気持ちがあるからだと思う。
中途半端な自分でいることが親を心配させていたり、自分が親に色々と言われてもしっかり言い返せるほどの根拠も自信もそれこそ「軸」がないことに対して自分が一番納得できていなかったりするのだ。
そのせいで親が応援してくれることも認めてくれることもなく、こんな私でごめんねってなるのだ。
一方で、私が憧れ、かっこいいなと思う後輩、同級生や先輩、大人は、こういったことが中途半端でなく、きちんと自分の軸たるもの、を持っているように感じる。
「やりたい(やる)こと」「やらないこと」をハッキリ決めていたり、「譲れないもの」を持っていたりする。
また、何か一つのことにのめり込んで、夢中で、熱中して、どこか余裕がある、そんな人は凄いな、、と思う。と同時にそうではない私は、、、と思うのである。(比べてもどうしようもないとも分かっているのに泣)
でも、そんなかっこいい人たちって最初からそうだったのだろうか。
少し考えたら気づくことだったかもしれないが、自分と「すごい人」とを比べるだけでは自分がただ惨めになるだけであって、本質を捉えていない気がしている。
「じゃあ、本当にその人たちって最初から軸みたいなちゃんとしたもの持ってたのか?」
「いや、そもそも本人は軸なんぞや意識してなくて、私がただこだわっているだけ、、?」
改めて素敵だと思う人を思い浮かべて考えてみた。
自分の10年後、20年後くらい先を生きる大人、倍の人生を既に歩んできた大人をみると、やっぱり私にはしっかりとした「軸のあるすごい人」に見えるのだが、
「いいな、素敵だな」と思う部分を集めてみると、なんでも楽しんだり面白がったりして、自分自身が嬉しい、楽しい、面白いと思う感情を大切にしているような、自分を大切にしていて愛のある人でもあるなと気づいたのだ。
(愛ってなんだろうな、、)
今よく言われる、「自己肯定感」とか「自己愛」がきちんとある人たちなのかな、、とも思った。
ちょっと過去を振り返ってみた
まず、自分が「のめり込んだもの」ってあったかどうかについて。
過去を振り返ってみると「やってみたい!」ことにまっすぐ、私なりに熱中して全力で何か取り組んだことって、あったなあって。思ったより中途半端ではなかったかもしれない。
やっていることに対する熱い想いも持っていたし、その想いは今も繋がっているような気がしているし、結局それがどんどん繋がっていって「軸」になっていっているのだろうか。
そうならば、私にはもう「軸のようなもの」は既にあるのかもしれなくて、でもそれを言語化できないから気づいてないように感じているのかな、、とか。
それなら、こんなに必死になって「軸」を見つけに行かなくても、ただ気づけたらいいし、もう「軸のようなもの」くらいに思えるだけで十分で、ただ想いはきちんと抱えていたいな、とか今は思えている。
こうやって文字にして言葉にしてみると、中途半端であることを必死に正当化しているような感じになっている気がするが、まあそれでもいいかと思っている(笑)。
そして、単純に何かにのめり込んでいた時って、何かできたときの達成感とか、相手に自分の気持ちが伝わったことの喜びとかそういうもののために頑張っていたし、それが私の嬉しさに繋がっていたと思う。
私は、もっと、もっと「自分のために」を欲張ってみてもいいかもしれない。
言語化できないなら絵に?!
ところで、この絵は、私の軸探しの一か月間で、時間を共にしていた友人が描いてくれた絵である。
この左右にある赤と青い渦のようなものが、色んな人の意見や価値観などで、青いうねうねとしたものが私の「軸のようなもの」だという。
つまり、色んな人の意見などの「外的なもの」が、私の持つ「軸のようなもの」を覆いかぶせている感じがしたと友人は語ってくれた。
この絵を見たとき、正直、自分の心の中を見られたような「どきっ」とした感情があった。
私の元々思っていた、まっすぐで芯のある軸のイメージとは違って、うねうねしているところがちょっと私らしいかもしれないなと思ったり、色んな人の意見に影響を受けやすい自分のことを良く表しているなと思ったりした。
(自分の絵を描いてくれるってとっても嬉しいものってことも知った。)
完璧じゃなくていい。変化しながら不完全に生きる
「うねうねの軸」で思い出したことがあったので、その話を最後にしようと思う。
松の木、である。
松の木は、風に打たれる影響で、まっすぐな幹ではなく、うねうねした幹になることがあるという。
そんな松の木のように「しなやかに」生きることを大切にしていると話してくださった方のお話と繋がった。
また、私にお勧めの本ありますか?と聞いて読んでみた本、
『ぼくを探しに』(missing piece)
という絵本のメッセージには、
何かが「足りない」「欠けている」ということについて考えさせる内容で、
不完全でいることって、完璧でいることよりも楽しいもので、面白味があるものなんじゃない?と思わせてくれたのだ。
おそらく、私は自分に対する理想が高く、完璧を求めていたのだろう。
今、私はまっすぐじゃなくて、うねうねしていてどこに伸びるかもどこにつながるかも分からない上に自分の「軸みたいなもの」は霧の中にある気がしていて、そういうイメージが現段階ではしっくりきている。
そもそも、一ヶ月なんて短すぎる!!(笑)
まだまだこれから、知らない自分にも、色んな人とも出逢い、その度にしなやかに変化していくだろう。
だから、私が追い求めていた、「まっすぐで一本の揺るぎない軸」は本当は必要ではなく、ただの完璧な理想像でしかなかったのかもしれない。
そして、その「軸のようなもの」を変えていきながら、不完全な自分のまま、これからも進んでいきたいなと思う。
そんなことを感じた、ひと夏の経験をまとめたお話でした。