なぜジャパンカップで外国馬は好走できなくなったのか
今年は久々に海外のビッグネームが来日するということで、
「JCで外国馬の取捨に悩む」という懐かしいイベントが発生している。
その思考を回すひとつの材料として、本稿をまとめてみた。
ジャパンカップというレースが創設されたのは1981年。
「世界に通用する強い馬づくり」を目的として立ち上がった企画である。
実際、シンボリルドルフが初黒星を喫し、タマモクロス、オグリキャップ、スーパークリーク、メジロマックイーンが勝てないなど、日本のエース級が海外の伏兵馬に敗れ去るショッキングなシーンを何度も何度も繰り返し見せつけて、日本馬にとって高い壁であり続けたのが、昭和~平成前期までの「ジャパンカップ史」だった。
しかしある年から急激に潮目が変わり、平成後期からは文字通りの意味で「日本馬しか勝たん」というレースに様変わり。
当初の目的・役割は完全に役目を終え、令和のジャパンカップは
「日本馬同士で国内最高賞金を争う国内チャンピオン決定戦」へと性格を変えている。
本稿ではその変遷を詳しく見ていきたい。
JCにおける外国馬の戦績
創設以降、外国馬・日本馬が何勝してきたかを5年刻みで見てみると
以下の通り。(右側のカタカナはその区間でJCを勝った日本馬の名前)
1981~1985年 外国馬 3勝 日本馬 2勝 ルドルフ、カツラギ
1986~1990年 外国馬 5勝 日本馬 0勝
1991~1995年 外国馬 2勝 日本馬 3勝 テイオー、レガシー、クラウン
1996~2000年 外国馬 2勝 日本馬 3勝 エルコン、スペシャル、テイエム
2001~2005年 外国馬 2勝 日本馬 3勝 ジャンポケ、タップ、ロブロイ
2006~2023年 外国馬 0勝 日本馬 18勝 ディープ~イクイノックス
5年ごとで見ると最初の2区間は外国馬の勝ち越し。
次の3区間は日本馬の勝ち越し。
そこまでの5区間・計25回は外国馬14勝、日本馬11勝と拮抗。
当初は敵わなかった日本馬が徐々に盛り返し・・・という、
「ちょうどええ」感じの難易度設定(?)だった。
まさに創設のコンセプトが序盤強烈に立ちはだかり、それが徐々に攻略されていく様を競馬ファンがリアルタイムに感じられた時代だ。
ところがその後は一気に潮目が変わり、2006年以降は日本馬が18連勝。
しかも2007年以降は17年連続で3着以内を独占。
あれよあれよという間に別のレースになってしまったような感じ。
いまや「ジャパンカップ」は海外の強豪を招いての力試しではなく、
国内最高賞金レースを国内の馬同士で取り合う国内王者決定戦に様変わりした。
なぜ極端に潮目は変わったのか
1.日本馬の海外挑戦が本格化し、日本馬が強くなった
日本馬が積極的に海外へ打って出るようになり、且つ勝てるようになってきたのが90年代末。この「日本馬の世界台頭」と入れ替わるように、
JCの海外勢の勢いも落ちていった。
シーキングザパールが日本調教馬として初の海外GI制覇を飾り、
翌週にタイキシャトルも勝って一気に日本馬が海外にその存在を知らしめたのが98年。
※日本馬の遠征実績はすべて下記サイトより情報を取得。
そしてその98年にJCを勝ったのがエルコンドルパサー。しかもこの年は史上初の日本馬ワンツースリー。
以降、99年スペシャルウィーク、00年テイエムオペラオー、01年ジャングルポケットと日本馬が4連勝を決める。
そしてそのジャングルポケットのJC勝ちの翌月、01年暮れの香港国際競争でエイシンプレストン(香港マイル)、アグネスデジタル(香港カップ)、
ステイゴールド(香港ヴァーズ)が勝つという固め打ち。
特にステイゴールドは、「日本産馬」として初の海外GI制覇だった(それまでの海外GI制覇は「日本調教馬」ではあってもすべて外国産馬だった)
結局、98~24年までで日本馬は海外GIで(55,57,42,407)。
平均すると「年間約20頭が出走し、2-3勝し、惜しい競馬をする馬も4-5頭」
という成績であり、それがもう20年以上も続いている。
こうした日本馬大躍進は国内外の関係者・ファンに多大なインパクトを与えたようだ。
実際に強い日本馬が増え、また、日本馬が強いという認知も広まった。
JCにおいては、2000年までは毎年のように上位3番人気の内2頭くらいを外国馬が占めていたのに対して、2001年以降は外国馬が人気になること自体が珍しくなっていった。「そういう馬」が来なくなったのもあるし、日本馬が強いのをファンも認識し始めたというのもある。
そしてついに2011年のデインドリーム(1人気6着)を最後に、10年以上も外国馬が上位3番人気以内に推されることはなくなってしまった。
馬の脚は消耗品。
そしてJCに招待されるほどのレベルの馬ならば、高級品でもある。
ビジネス的な意味でも動物愛護的な意味でも、勝てないレースに走らせることにメリットはない。
いくらアゴアシつきの招待レースで、あまつさえボーナス金まで支給されるとしても、だ。
同時期のBCや香港にはバンバン欧州トップホースが遠征する。
なぜなら北米の馬や香港の馬が地元以外の世界の大レースで活躍しているかというとそんなことはない。だから欧州馬にとって北米や香港は内弁慶な馬たちを倒すだけでよい「草刈り場」として機能する。だから行く。
でも日本の馬は、アウェーにバンバン出ていって、割と勝ってしまう。
そんなやつらのホームに乗り込んで、勝てるわけがない・・・
そう考えるからこそ、強い馬ほど、日本には送り込まなくなった。ということが考えられる。
2.デットーリだけが本気
本稿冒頭に見た5年刻みの成績で見たとき、
最初の3区間は外国馬10勝、日本馬5勝と外国馬ダブルスコア圧勝だったが、
96年以降は外国馬4勝、日本馬24勝と日本馬があまりにも圧倒している。
そしてその96年以降の外国馬4勝のうち、3勝がデットーリ騎手によるもの。
というか、96年以降の外国馬(4,2,5,113)のうち、
デットーリが(3,0,3,1)複勝率85.7%で、
その他の騎手が(1,2,2,113)複勝率4.3%。
06年3着のウィジャボードが外国馬最後の馬券圏内で、これもデットーリ。それ以降はデットーリの騎乗がなくなり、07年以降の外国馬は(0,0,0,57)。
つまり96年以降は「デットーリが連れてくる外国馬」以外は、JCで勝負にならなくなった、と言っても過言ではない。殆どの調教師がJCへの情熱を失い、デットーリに勧誘されたときだけ本気を出す。みたいなことになってしまったように見える。
また当のデットーリ自身も「出れば勝てる」がこれだけ続けば、「もういいかな」となったのかもしれない。
3.香港国際競争の充実
よく言われることだが、この影響も無視できないだろう。
JCから13年遅れて94年に創設され、以降、GⅡ競争をGIに格上げしたり、賞金を増額したりと番組を充実させてきた。
2000mの香港カップ、2400mの香港ヴァーズ、どちらもJCと出走馬を取り合うライバル関係にある。
中にはJCと香港、両方出走するという剛の者もいるが、どちらか片方と言えば香港のほうを選ぶ馬が、特に欧州には多いように思う。
それは、
・異なる距離の4競走が同日開催され、帯同馬を伴った遠征がしやすい
・JCと有馬の間で日本のトップホースが来ない
・馬場なのか力関係なのか、実際、JCより欧州馬が勝ち負けしやすい
といった魅力が考えられる。
その年の欧州の2000~2400の主要競走に出走していたような馬の名前が、
香港カップ、香港ヴァーズの歴代勝ち馬・好走馬にはズラリと並ぶ。
昔ならJCに来て目玉になってくれていたんだろう、という馬が香港に流れていると感じる。
香港カップ歴代勝ち馬はコチラ
香港ヴァーズ歴代勝ち馬はコチラ
4.ディープインパクト、オルフェーヴルの登場
ディープインパクトが凱旋門賞に挑戦し、1番人気に推され、3位入線失格したのが2006年。この年、フランスから帰国してJCを勝った。ここから日本馬の18連勝が始まっている。
オルフェーヴルが凱旋門賞に1度目の挑戦をし、1番人気に推され、ゴール寸前で惜しくも差された年が2012年。この年以降、JCで外国馬が3番人気以内に推されたことは1度もない。
偶然だとは思うが、この2頭の強烈な三冠馬の登場が、JCでの外国馬戦績衰退の転機と重なっているのは面白い。
まあ実際のところこの2頭が日本国内で見せた圧倒的なレースぶりは世界中のホースマンと競馬ファンが知るところとなり「日本馬強し」「日本のレースで日本の馬に勝てる気がしない」というムードに拍車をかけたというのはもしかして実際にあるかもしれない。
5.為替相場との関連
米ドル/円のレートを5年刻みで見ていく。データは下記サイトより。
JC創設当初の1981~85年は1ドル=220~250円程度だったのが、
次の86~90年は急激な円高となり、130~150円程度となった。
さらに91~95年も下がり続け95年はついに100円を割り込んだ。
この円高加速期はちょうどJCで外国馬が強かった時代と一致する。
特に初めて200円を割った86~90年は外国馬が5連勝。
つまり円が高くなるにつれ、おいしいジャパンマネーを求めて強い外国馬がJCへ多数訪れてくれるようになったということだろう。わかりやすい。
その意味では、JCはいい時期に創設されたとも言える。
いっぽうこの時期、円高を追い風に日本の馬産地は海外からの種牡馬や繁殖牝馬購入を加速させていった。この時期の購入馬からサンデーサイレンス、トニービン、ブライアンズタイムといった後の3強種牡馬が出たし、ダンシングブレーヴも来たし、成否はともかくラムタラが日高に来た時は驚いたものだ。
そして96~00年も100~130円の円高が続き、欧米の当歳~1歳セールで若い良駒も買い漁った。95-99年の購買馬からグラスワンダー、エルコンドルパサー、タイキシャトル、シーキングザパール、タップダンスシチー、シンボリクリスエス、メイショウドトウ、エイシンプレストン、クロフネなど2000年前後のマル外ブームを作る名馬が出た。
これらの動きにより日本調教馬・日本産馬のレベルが飛躍的に向上し、先述した98年以降の日本馬海外大躍進、そしてJCに来ても外国馬が勝てない問題へとつながっていく。
円高がJCに外国馬を呼び、しかし同時に円高が日本馬を強くし、
後に外国馬を寄せ付けなくなった。
こういう構図が見える。
09~13年にかけてはリーマンショック、ギリシャショック(に端を発する一連の欧州金融危機)の影響もあって久々に円高が加速し、100円を割り込む状況となったが、この頃にはもう「いくら円がオイシイとはいえ、いま日本に遠征しても日本の馬には勝てない」という状況ができあがり、遠征馬の質・量は落ちていった。
ちなみにこの間、香港ドル/米ドルのレートがどうだったかというと、
基本的に129円前後で安定している。
というのも「そういうルール」になっているらしい。
こう考えると外国馬が日本に来なくなった理由や、どうせアジアへ遠征するなら香港へ、となっていった理由が余計によくわかる。
以上、歴の長い競馬ファンであれば体感も含めてアタリマエに知っていることばかりだったとは思うものの、ノスタルジーも含めて何らか面白いと思ってもらえる方がいたなら幸いです。