折々の青空
小学生の頃、日曜の昼前には毎週のように、お隣から祖父母に「お茶飲みに来て」とお声がかかる。
祖父母が出掛けると、「仮面ライダー」の放送時間になる。
1号・2号の時代だった。
その時は、父母弟と一緒にコーヒータイムになる。
甘いお菓子などとインスタントコーヒーが出てくる。
いつもは家事や内職で、じっと落ち着いてはいない母が
穏やかにそばにいてくれる、この時間がとても好きだった。
祖父母のいない時間は、母や父や、私たち子どもにとっても
解放感が味わえたのだと思う。
その頃、「兼高かおる 世界の旅」という番組も放送されていた。祖父が好きで毎週楽しみに見ていたから、じいちゃん子だった私も必ず一緒に見ていた。
パンアメリカン航空の協賛で、飛行機がのびのびと空を飛ぶ画面。青い空に白い雲。水平線、地平線。
外で遊んでいて昼に近くなると、あちこちからお昼ご飯の匂いが漂ってくる。家の周りで石でおはじきしたり、道路に落書きしたりしていると、
あ、今日はミートソースかな!などとわかって、ウキウキした。
呼ばれるまで、道路わきの消火栓(コンクリート製で赤く塗られ口紅みたいな形。40センチくらいの高さ)に腰かけて待つ。
見上げると青くてまぶしい空。
うれしい「日曜日の空」なのだった。
小学校5年の時に当時3歳だった妹が亡くなり、葬儀の準備中、外に出て手持ち無沙汰にしていた。その時もこの消火栓に腰かけて空を見ていた。晩秋の、その日の空も青かった。
学生になると、ビル街の底から見上げる、細長くどこまでも続く青い帯のような空を思うことが多くなった。
ビリージョエルにどっぷりだった私は、細長く切り取られた濃く青い空に
行ったこともないニューヨークという街を思い描いた。
30歳になろうとするころ、次男が生まれた。
切迫早産で丸2ヶ月の入院生活を経て、3990gという大きな赤ちゃんだった。新生児室では当時の大型力士の「〈朝潮〉ちゃん」というニックネームがついた。
分娩室から病室へ戻り、窓際のベッドに横になると、空が見えた。
春。午前9時ころの、うらうらとした美しい青空だった。
長男を母に託して、これから1週間弱の入院期間は、ただ新しい赤ちゃんと一緒に過ごせる。そのことが嬉しく、無事生まれてきてくれたこともありがたく、ひとりでに笑みが浮かんだ。
長男が2才になったばかりの頃、母子入所してリハビリ訓練していた施設で
長男は肺炎になり、お盆の間で施設はお休みになるため、赤十字病院に転院した。
そこで1ヵ月ほどすごす間に、私の祖母が亡くなった。
付添いしていたので、葬式には出席できなかった。
入院の間、次男は実家の母に頼んでいたのだが、
葬儀のバタバタの間に、歩けるようになった。
夫が写真を送ってくれた。
冷房の病室から、真夏の空を眺めた。
熱気でかすんでいるような薄青い空。
ばあちゃん死んじゃったのかと、遠く遥かな呆然とした気持ちだった。
たくさんの空があったわけじゃなく、いろいろな私がいた。
変わらないものがあるから、変わり続けている自分が見える。
最近、めっきり空を見上げていない。
じっと眺めて、動いているのは自分だと感じる時間がなくなった。
こんどはどんな時に、空を見上げるんだろう。
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