ふんわりかーさん
母が力強く逞しかったところを見たことがない。
角張ったり、激しかったり、冷たかった記憶もない。
いつも、どの記憶でも、ふんわりとぼやけて、待っていてくれる。
受けとめてくれる。
受けとめると言っても、がっちりと頼りがいがあったのでもない。
受け入れて、ひたすら受け入れて、落ち着くまで受け入れて。
手当をする。
私はいつの間にか元気が出てまたそのふわふわから飛び出て行く。
母はふんわりしたスカートを穿き、エプロンをかけて、家事をする。
ギンガムチェックのノースリーブから白い二の腕が伸びている。
母みたいなお母さんになりたかったが、あのふわふわはもらえなかった。
逞しくも力強くもない母が受け止めるのは、角ばっていたり、氷のような冷たさだったり、とんがった矢印だったりした。
それがあちこち引っかく痛みを感じながらも、母はぜったいに手放さない。
その姿勢は、すっかり腰が曲がって自分の事で精一杯な今でも、変わらない。
自分以外のことでは簡単に心を傷める。
だけど、もうあまり心配させたくはない。
そう考えるのは周りだけなのかも知れない。
意外と本人の腹は据わっているのかも知れない。
柳に雪折れなし、という言葉があるけど、
母は、柳というしなやかさではない。
不器用だけど、弱弱しいんだけど、折れない。
母の心の奥のほうで起こっているゆらぎやひび割れは
私の指では届かない。掬いとれない。
高齢になり、自分のことも満足に手が回らなくなり、母のやるせない気もちがだんだんと漏れるのを見る。
それはそれで、よかったと、すこしほっとする。
しかしたいがいは、穏やかに、やっぱり受け止める人になって暮らしている。
こういう人なのかなぁ。不思議だ。
86年間。
さまざまに味わってきたはずの黒い感情は、いったいどこへ置いてあるんだろう。
ブラックホールに捨てているのだろうか。
空へ放り上げて、虹に変えているのだろうか。