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ある日のタクさん

厳しい夏が終わり、ようやく秋らしい、爽やかな日和になった。
空が深い深い海の底みたいになり、雲が白波を引いている。

こんな日は昼前から、介護士のピーくんが俺を外に出してくれる。
居室から直接ベランダに出る大きなガラス戸を開けて、ストレッチャーごと俺を据え置く。
「タクさん、寒くない?
あ、手足はあったかいね。
ちょっと僕、部屋の中掃除してくるから」
笑顔で俺の目を覗き込んで、ピーくんはいなくなった。
俺はふとんの下で、足の指をぐっぱぐっぱと開閉してお礼を言う。
「すぐ終わるからね」
ピーくんがまた顔を出して手をぐっぱと開閉する。

足の指でぐっぱとするのは、俺の唯一持っている意思表示法なんだけど、気が付いてくれてる人、いるかな。ピーくんは不思議と、俺のぐっぱの呼吸と合っていて、まるでわかっているみたいなのだ。


日差しが柔らかくなった。
まるで空気の中を金の粒々が流れていくみたいに見える。
何の匂いなのか、香ばしい。
俺は喉元にカニューレをつけていて、深呼吸はできないけどそのおいしさがわかる気がする。

視線を動かしていると、すぐ目の前の手すりに小柄なカラスが止まった。
「あ、エイドリアン?」
カラスは嬉しそうに一つ羽搏いた。
「タクさん、お元気そうですね!よかったわ。
今日はロッキー兄ちゃんと、サトシの田んぼにランチに来たんです。
その帰り」
「お兄ちゃんと二人でも来れるようになったの?すごいね。
前はお母さんたちとはぐれていたのにね」
エイドリアンはへへへと笑って頭を掻いた。
でも迷子になったおかげで、俺たちも会えたんだ。

「今はね、お母さんが忙しくて、私も大人にならなきゃならないの。
こないだの春に弟が二人生まれて。十人きょうだいなんですよ、うち。
勘九郎と段十郎っていうの。名前、和の路線に戻っちゃった」

一太郎、次助、三平に四之助、ゴードン、ロッキー、セバスチャン、そしてエイドリアン。それから勘九郎で段十郎か。
アリス母さん、てんてこまいだな。
エイドリアンの家族がみんな元気そうで、俺もうれしくなった。

「タクさんには、お母さんやきょうだいさんがいるの?」
そう聞かれて、母や父、じいちゃん、弟の顔が浮かんだ。柴犬のランタローの顔も。
そこへ囁くような声が聞こえた。
「エーイドリアーーン・・・そろそろ帰ろう」
ベランダから手が届くようなすぐそばの樹に、大きなカラスが止まっていた。
「ロッキー兄ちゃん!うん、わかった」

エイドリアンは「またくるね」と言いながら、ロッキーと連れ立って帰って行った。

初めてエイドリアンに会ったのはもう1年も前になるのか。
俺には1年が早いのか遅いのか、わからないが、枕元から香るこの匂いは
1年まえにエイドリアンと初めて会った時にも嗅いだ。
あのとき、ピーくんが、これは稲穂だと教えてくれた。
じゃあまた、運んで来てくれたのか。枕のそばに置いてくれたのかな。
すると1年を待つのも楽しい気がする。長くても短くても。


「タクさん、終わったよ。
もう部屋に入ってもいい?もう少しここにいる?」
そう言いながらピーくんは俺の手足に触れる。
「ちょっとひんやりしてきたね。中、入ろうね」
ピーくんは俺に直接触れることで俺の返事としているようだ。
厚手のタオルケットを掛けて、部屋の中に入った。
通りかかったコニちゃんに応援を頼んで、俺の体をベッドに移す。

コニちゃんはピーくんの後輩だ。
若い女性なんだが力持ちで、逞しい。
その点でピーくんはコニちゃんを頼りにしているようだ。
ヒミツだが、俺も、コニちゃんの介助のほうが安心だ。
ピーくんは俺くらいやせっぽちでユニフォームなんかダブダブで
これといって怖い思いをした経験はないんだけど、いつもひやひやする。
しかし、腕からはギンギンとした何か気迫のようなのが伝わって来て
「彼を信じなきゃ」なんて思わされるのだ。

「ツカダ先輩って、よく独りごと言ってますよね。
誰か来ているのかしら、ってぎょっとするんですよ」
コニちゃんが部屋を出ながら言う。
「え、だってタクさんがいるもの。ほかの利用者さんだってそう。
僕は独りごと言っている気はないんだよ」
「へーえ」
コニちゃんは複雑に笑っていた。
コニちゃんに限ったことではないけど、ピーくんみたいにいちいち利用者に話しかけることに抵抗があるみたいだ。

この施設は、重症心身障害者がほとんどで、医療度がかなり高い。
スタッフは時折鳴る酸素モニターのアラーム対応や入浴、食事、投薬、リハビリ、余暇活動と、とくに日程に変化はなく、大概は時間に沿って仕事をしている。時折、急性期の利用者がいれば、その対応も心得たものでスムーズだ。

流れるように動き、和やかな会話が聞こえる。
でも、スタッフ同士の会話ばかりで、利用者に話しかけていても
返事は期待していない。
まあ、仕方ないよね。返事なんかできないからね。
前後で判断してくれる人もいれば、自分がやりやすいように返事を作っちゃう人もいたりする。
職員それぞれ。
ただ違うのは、利用者のみんなにも答えはある、と思っているかいないかだ。


昨日、父さん母さんと弟、じいちゃんが連れ立って面会に来た。
「タクちゃーん、来たよー」と言いながら母がカーテンを開ける。
日中、居室のドアは解放され、カーテンで仕切っているのだ。

「元気だったかー?」と父さんの声がする。
「なんか兄ちゃん、ほっぺたが丸くなったみたい」これは弟のヒロ。
こないだの面会日より俺太ったかな。
胃ろうから毎食同じものを同じ量注入しているのに。
そういえば最近、筋緊張が高まって辛くなる、ということが少なくなっているからカロリー消費が減ったのかも知れない。

「タクちゃん、わかるー?みんなで来たよお!」
肉厚の手が俺の腕をさする。じいちゃんだ。
俺の視界にじいちゃんのしわだらけの顔が入り、じっと目と目を合わせてくる。じいちゃんは俺が家に居た頃から、こうして目を合わせて、話しかけてくれた。
俺は足の指ではりきってぐっぱー!とやった。

「また床屋さんしてもらったんだね。ここは月一回必ず整髪してくれるんだよ」母さんが誇らしげにいう。
小さい頃からこの施設の通園部に一緒に通って、母さんはここがすっかりお気に入りなのだ。
「うちにいた時よりスッキリしてる。うちじゃ、なかなかうまくできなかったしね。あ、でも鼻毛が伸びてる」
父さんはそういうと携帯バッグから鼻毛シェーバーを出して、ささっと俺の鼻毛の手入れをした。
「おまえ、そんなのをいつも持って歩いてるのか」
じいちゃんが半笑いで、呆れて言う。
「うん。俺も鼻毛が気になってだめなんだ」


家に居る頃から、こうして俺は家族の中にいて、毎日のやりとりを眺めていた。みんな、俺が見たり聞いたりして何か思っていると心がけてくれてはいるが、多分、ほとんどの時間忘れている。
何か俺が傷つくことを言っても、俺は反応しないから、とくに謝っても来ない。
俺も若いうちは、ちょっとそれがムカついて、不機嫌になることもあった。
けど、俺は不機嫌さえ表現できない。呼吸が荒くなって痰が増えて、咳込んでは吸引してもらうだけ。そのことも悔しくてさらに果てしなく不機嫌になって行ったものだ。
それでも顔の筋肉一つ、動かすことはできない。

俺が不機嫌だと母さんが落ち着かなくなる。すると家族みんなして気分が下降気味になるのを感じる。
そういう時は誰も俺には関わらない。介護はしてくれても、そっとしておこうという気持ちが見える。
そんな中、じいちゃんだけは、俺に話しかけてきた。ちゃんと目を合わせて、話しかけてきてくれた。「タクちゃんはわかってるんだ。言わないけど、ちゃーんとわかってるんだ」と言って。


この施設に入所して、なんだかすとんと落ち着いた。
家族じゃないってことが、ひとつの割り切りになった。
要求も期待も失くしたわけじゃなく、また新しい関係の中で作って行けると思った。

ぐっぱは、ずっと誰にも気づかれていない。
でもピーくんは俺には思いや言葉があると信じてくれている。
いや、感じてくれている。


「こんにちは。ツカダといいます。
タクさんにはいつもお世話になっています」
ピーくんが入って来て挨拶した。
「いやいや、お世話になってるのはこちらのほうで」
父さんが返す。

「お願いがあって。
あの、タクさんの鼻毛の処理のとき、ハサミを使っていたんですが、もしよければ、おうちの方で、こういうシェーバーを買って頂けないかと思いまして」
遠慮しながらピーくんは、だれかのシェーバーをサンプル用に借りて来て見せてくれる。
「衛生面を考えて、こういうのは個人持ちとさせていただいているんです」

父さんはおどけたようにバッグからさっきのシェーバーを取り出す。
「あ、そういうので、いいんです」ピーくんは面食らったように言った。
俺の回りで笑い声が重なる。
おれも一緒に笑いたいとつくづく思いながら、足でぐっぱぐっぱとやっている。
「タクちゃん、よかったね、鼻毛も綺麗になるよ」
じいちゃんがまた俺の目を捉えながら、ニコニコしわだらけの顔で言った。




おしまい





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