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「続かない」の続き〈りさ子 秋〉

りさ子はシマに請われて、町内の数人から預かった浴衣を仕立てている。
シマは親しい人を捉まえては、りさ子の和裁の腕を吹聴し、とうとう仕立物まで引き受けてしまったのだ。

りさ子は裁縫が好きで、独身時代は店の手伝いの合間に、洋裁も和裁も習ったが、人の着物まで仕立てる自信はなかった。
シマは話に調子づいて、とんでもないことを引き受けてくる。
これが挙句に、町の呉服屋の着物まで、請け負ってくることになった。
りさ子は、布を断つにも、仕立てるにも、不安で眠れないくらいに緊張したのだった。

シマの麻疹みたいな請負い熱はやがて冷めたが、夜なべ仕事は毎日続いた。晩御飯の片付けを済ませ、一息入れてから、繕い物などの時間が始まる。
りさ子はこの時間が眠くてつらかった。寝かしつけた稔が起きてくることもある。
ある時、こっくりしながら針を運んでしまい、指に刺して、飛び上がりそうになった。
正面では舅の清吉が新聞を読んでいる。シマは台所にいて見られずに済んだ。しかし清吉は新聞に顔を隠して、気づかないふりをしていたに違いないと思った。

夜なべ仕事の時に、眠っていた一美や稔が泣きだす日が増え、清吉は
「子どもを泣かせてまでしなくていい」ときっぱり言った。
シマは「そうですかね」と、はっきりしない態度だったが、その翌日からは夜なべが無くなった。

清吉は幼いうちに母が亡くなり、年の離れた弟2人の母がわりに世話をしたから、子どもの気持ちも、世話をする方の気持ちも、推し量ることができたのだろう。りさ子はありがたくて、清吉に親しみを感じた。

一美と稔が小学生になり、りさ子は自分で内職を選んではいくつか経験した。その頃、少し離れて、3人目の女の子が生まれた。

つぐみと名付けられた娘は大変利発な子で、家族に愛されたが、3歳を前にてんかんの発作を起こすようになった。
りさ子はつぐみをおんぶして電車やバスを乗り継ぎ、遠くの病院に通った。
しかし重い発作があったある秋の朝、4歳を待たずに、亡くなってしまった。

りさ子は何とか葬儀だけは済ませ、それからはしばらく寝付いてしまった。
経過はぐずぐずと芳しくなく、病院で精密検査を受けると、腸に病気が見つかった。
潰瘍ができ、腸壁が癒着していると言われた。
手術のために、大きな市の病院へ転院した。

退院して帰って、療養していると、つぐみが家のどこにもいないことが苦しくなった。みんなが出払って、日中に自分ひとりになるような日は、つぐみの名を呼びながら、家中を探し回った。
毎朝、新聞の三面記事を端から端まで読んで、同じように幼児を亡くした親を探した。そうせずにはいられない日々をしばらく過ごした。

体を心配したシマがある時、りさ子を慰めるように言った。
「いつまでも悲しんでいないで、元気を出してね。つぐみもそのほうが喜ぶよ。つぐみは親孝行したんだよ」

りさ子はその言葉を聞いて、なにかが、体のどこかで音を立てたような気がした。言葉がひとりでに出た。
「お母さん、親孝行だなんて、もう絶対、言わないでください」
いつも優柔不断で、何を考えているのかわからないりさ子の口から
決然とした言葉が出てきて、シマはその気迫にたじろいだ。

その翌日からまた、りさ子は「暗がりから引っ張り出した牛」になったが、徐々に元気を取り戻した。
「一美や稔と、もっと一緒にいなくては。今までつぐみのために、我慢ばかりさせてきた。もっと一緒に、どこかへ連れて行ってやりたいし、とにかく一緒にいたい」

相変わらず、はいはい、ばかり言って、子ども達を叱ることはめったにない。シマがりさ子の方を見ながら、子ども達を追いかけるようにして叱っている。

りさ子はそれでもいいと思えるようになった。生きて一緒にいられることは、何としあわせだろう。
「必要があれば、私は叱れる」と、揺らがない自分を見いだしていた。


(つづく)



なんとか、りさちゃん、着地しました。
ふへー。
これ、達夫さんが全く出てきませんでしたね(笑)
難しいなぁ。
でも実際、一美の立場だった私には、父の姿は薄かったかもしれません。勤めていたし、普段どんなふうにしていたのか、この頃はわかりませんでした。
それよりも、りさ子とシマの関りも、書き始めるといろいろ想像できてしまって、嫁としても身につまされるし、そちらが重点的になってしまいました。

事実を元に書くというのは、その事実に助けられたり、反対に足を引っ張られたりするものだなあと、書きながら思いました。
また続きが書けたらいいなと思います。

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