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ひき潮の夢#音楽の薬箱

曲名:ひき潮
アーティスト:さだまさし
効能:行き場のない気持ちを慰めてくれた


こちらの企画に参加します。




大学を卒業して、私は家に戻ってきた。その年の春はなかなか暖かくならず、遅い田植えがあって、朝は水の状態を見に行った。その帰りに寒い日陰を自転車で走りながら、この曲を口ずさんだ。
さだまさしは、学生生活の間よく聴いていた。

この曲の主人公は、都会の生活をやめて、故郷に帰ろうとしていた。

都会の暮らしは鮮やかな色どり
華やかな寂しさと夢に良く似た嘘と
そんなもので出来ている可笑しい程に

哀しみが穏やかに扉を叩いて
ああ いつの間に私の友達になる 
知らず知らずのうちに 自分が変わってゆく

さだまさし「ひき潮」より

穏やかで美しいメロディーとともに、寂しさと哀しみが心の中ににひたひたと満ちてくる。
都会の時間の流れや、人波に漂ううちに変わって行く自分に疲れ、ふるさとへ帰ろうとする。だけど、ふるさとで自分が取り戻せるかはわからない。そんな主人公を想像する。

こんな日は故郷の海鳴りが聴きたい
子供の頃の様に 涙を流してみたい 
生きるのが下手な人と 話がしたい

ひき潮の悲しみの中から生まれる
ああ 夢もある わかってくれるならば 
黙って旅支度に 手を貸しておくれ

帰ろう 帰ろう 帰ろう 帰ろう
帰ろう 帰ろう 帰ろう 帰ろう

さだまさし「ひき潮」より


私は就職も決まっておらず、家へ帰って寒い春を過ごしていたが、この曲はいつも慰めになった。どこにも行き場がない気持ちを温かい波のように撫でてくれる曲だった。


時がたつにつれ、「ひき潮」と、学生時代によく読んだ室生犀星の詩につながりを見つけるようになった。

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや 
うらぶれて異土の乞食かたいとなるとても
帰るところにあるまじや

室生犀星「小景異情」より


「ひき潮」は、ふるさとへ帰る旅支度だと思って聴いていたが、もしかしたら、ふるさとへは帰らないのかも知れない。
ふるさとに帰っても、変わる前の自分を取り戻せるのだろうか。
そもそも、過去は取り戻すことはできない。
取り戻すよりも、更新して行かなきゃならないだろう。
だからこの人はきっと、恋しさを抱きながらも、ふるさとへは帰らないのだろう。

「遠きにありて思ふもの」

である、ふるさと。
帰っても、今の自分の空洞を埋めてくれるものは、何もないことを知っている。

ひとり都のゆうぐれに 
ふるさと思ひなみだぐむ
そのこころもて遠き都にかへらばや
遠き都にかへらばや

室生犀星「小景異情」より

一度でも故郷を離れたことがあれば、馴染みのある感覚ではないだろうか。

ふるさとは帰る場所ではない。
ふるさとは、思い出して恋しさに浸るものだと。
帰ってしまえば、そのノスタルジーは崩れてしまう。
帰りたいふるさとなど、じつは、どこにもない。

この詩は犀星の故郷、金沢での作なのか、東京での作なのか
議論があるが、私は金沢で作られたと思う。
犀星は都会での生活に窮し、故郷に戻ってくるたびに幻滅し傷ついた。
なかば吐き捨てるように、または嘆きながら「帰ってくるところではなかった」と歌ったのだと思う。
(犀星は、金沢の自然を愛したが、養父母とは受け入れ合えなかった)


学生時代、私はしょっちゅう家に帰りたがっていた。
しかし帰郷するたび、そこはいつも違う顔を見せた。
自分も変化していたし、しっくりくる場所ではなくなっていた。
ふるさとに過去のやすらぎを望んでも、叶うものではなかった。

さだまさしが歌う「ひき潮」とともに過ごしたあの寒い春、私はそれを感じていたのだろうか。ふるさとは、帰ってくる場所ではなかったかもしれないと。
しかし認めたくはなかった。
私はまだ何者でもなく、踏み出す方向もわからなかったから。


「ひき潮」のかなしみの中の夢。
私はそれに浸って、行き場のない気持ちを慰めていたのかもしれない。






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