コロナの他にも無くしたいもの
ツイッターやブログなどで、過去にいじめられたことを語る方は、有名人と一般人に関わらず増えていると感じます。しかし、その数だけ加害者もいるはずなのに、「いじめていた」と語る人は、ほとんどどいないように思えます。
加害者が過去の行為を語りにくいとは、想像もつきます。被害者も本当はそれが分かっているので、「自分はいじめ加害者だ、とは誰も言わない」とこぼしたとしても、ただの皮肉であったりするかもしれません。
この「想像がつく」もの以外に、理由がある気がしてきたのは、自分もいじめ被害者であったからです。
「こうなのではないか」ということが、二つ、思い浮かびました。
これまで私が目にしたことがないだけで、その理由は、既に何方かが書かれていることかもしれないです。けれど、『いじめをなくす』解決策のヒントになりそうなことを、自分なりに考えてみたいと思っていたので、ここでまとめてみることにしました。
前・明らかに犯罪であることは
被害届が解決への第一歩なのは間違いありません。
それでは以下、お付き合いください。
いじめと考える範疇に差がある
私が受けていた被害は、無視といういじめ。
40年は前の出来事で、大昔ゆえ細かいことは余り記憶していないですが、他にもされたことはあります。ただ、記憶のあるところで、「不良が出席日数不足で留年しそうになり、仲間が署名を募ったが、サボったせいなので当然だと拒否したら殴られた」とか、「修学旅行のグループに入れてあげると言われて、泣いた。嬉し泣きではなく、自分は何も悪いことをしていないのに恩着せがましいことを言われた、との思いから、悔しくて泣いてしまった」など、それなりに相手にも理屈はあるので、これらは喧嘩的なものであると見て良いと思います。
そこで、無視のみを考えてみると、加害者は私を孤立させたクラス全員。
しかし、彼等すべてに加害意識はあったでしょうか。無視というのは徹底的に触らないことです。不良や偽善者以外の積極的には何もしてこなかったクラスメートたちには、何もしないのだからいじめもしていない、そう思われていても不思議ではありません。というか、私という同級生がいたことすら、とっくに忘れられてしまった可能性が高いと思います。
私自身も、授業ボイコットの同調圧力に屈せず授業を受けたりしたことがあったりして、和を重んじなかった、いけすかないクラスメートだと思われたかな、という自覚はあります。成績上位クラスに居たこともあり、よけい生意気に見えたかもしれません。
ただ、あくまで被害者であるから、発言の機会があったとき、されたことはきっちり主張してきました。
ここで、意識の差が生じたかもしれません。
被害者がいじめだと思ったらいじめ、しかし加害者のほうはいじめだと思っていない……。
そのようなケースが、世のいじめの多くを占めるのだとしたら、数は合わないです。
加害者が被害者でもある場合、被害にあったことだけ語りがち
上のことについて考えているうち、自分では加害した意識がなくとも、実は誰かをいじめていたこともあるのではないか、と思うようになりました。
上の段に書いた通り、自覚のあるほど生意気な人間であったと思うので、正しさの名のもとに何をやったか知れない、という危うさがあります。ネットいじめのように数で殴ることはやってこなかったかもしれませんが、相手が数人なら、わかりません。
「やったかもしれない」では、何も語ることができないです。
それに、はっきりと何かやったと覚えていたとして、それを詳細に語ることができたかといえば、難しかったかもしれない、と思っています。
・上の段のさわりにも書いたとおり、加害したことの告白には誰もが二の足を踏む
・また、被害を受けたこともある以上、そちらのほうが、いつまで語れるほどによく覚えている
・何を置いても被害者であるので、いじめを無くそうという思いが真剣である。そのため、被害の辛さのみ強く訴えようとしがち
いじめを無くすことはできないのか
永遠の課題まで、来てしまいました。
私は、無視にあっていた高校時代は、欠席1でした。ほとんど休まず、遅刻すらしなかったのです。
そのこころは、自分が悪いのではないのになぜ逃げなければならないのか、という負けん気が働いていたと思います。
学校に通うだけが人生じゃない、それはそうでしょう。ただ、入学した学校を続けられなければ、進路の選択が大きく狭まってしまうのです。何も悪いことをしていないのに。
逃げざるをえない人に逃げ場があるというのは素晴らしいことですが、問題はあくまでいじめる方なので、逃げるよりも、解決に向かわせるほうが健全な方法であると思っています。
・いじめた方、特にされたほうの気持ちがわかる「いじめて且ついじめられた方」は、どういう気持ちでいじめをおこなったか、出来るかぎり発信してほしい
・いじめた方、あるいはそれを見過ごしていた方が、いじめられていた方をクラス会などに誘うとき、誘ったことで免罪されるとは思わず、過去のことを謝罪するつもりで誘ってほしい。そして誘うときはそれを伝えてほしい。いじめられていた方も、もし勇気が出せれば、誘いに乗ってくれます。(私はその時、相変わらずの恩着せがましさを感じただけだったので、勇気が出ませんでした)
・だれもが加害者であった、あるいはそうなる可能性があることであり、被害者に心を寄せるだけでは解決しないかもしれない。学校であれ大人社会であれ、個々が常に、周囲に気遣いできる人になることは大事
努力できることはあるが、難しい
長々と書いてきましたが、社会のほうから変わらなくては、というのは難しいし、綺麗事的でもあり、甘い考えであることも分かります。
学生時代の加害者が社会に出て、過去の自分を振り返り反省することなどなく、大人社会で同様のことを繰り返しているかもしれません。やった方に頑張ってほしくとも、それは空しい気持ちなのかもしれません。
誰もが他人事と思わない
出来る人間が出来ることをやる、やってはいけないことはやらない、というのが、当たり前でいて、何より一番であり、第一歩であると思っています。
社会問題は全部そうなのですが、私自身、ただ生きるだけで大変で、積極的にできることは少ないです。
しかし、ただでさえ辛い思いをする方々に、ますます辛い世の中にしないよう、できるだけのことは心掛けたいと思います。
ご協力下さい。
結局、対処法もコロナと一緒か……。