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『パパのバカ それから』


 蟻塚徹くんへ

 いつもお手紙ありがとう。事務所へ送られてきたものは、なまものや危険物、一部の写真をのぞき、すべて麻生綾乃本人にわたしてあります。

 十一歳の誕生日にはみなさんから多くのプレゼント、メッセージをいただきました。あなたからもはげましのお便りとちょんまげ、刀、干物、薬草などを送ってもらいましたが、これにはその真意、どう扱っていいかわからず本人ともどもたいへん困っております。以前、新幹線で親しくお話ししたかもしれませんが、あくまでもファンのかたとの交流でしたので、思い込みや行き過ぎた行為はお控えいただければ幸いです。

 お姉さんついては、よく検討したところご希望にそうことができませんので、ここにお写真を返却いたします。今後ともかげながら応援してくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。

                    甘粕事務所
                    代表 甘粕律子


 九月下旬になって麻生綾乃の所属事務所から手紙が届いた。それを持って団地を駆け上がってきた徹は、家へ入ってくるなり風邪で学校を休んでいた恵ににかっと微笑んで手渡し、「おい章夫、章夫」と叫びながら走り去った。一刻も早くみんなに見せびらかしたいのだろうが中身を確かめないのはあわてものの証拠である。章夫くんはいなかったらしくすぐに舞い戻ってきたが、よほど自慢したいのか王様のようなそぶりでその封を切って読むよう姉に命じた。恵はしかたなく応じてやり、驚いた。文面を読み上げても徹はぽかんとしていたが、最後まで読んで弟どころでなくなる。あわてて逆さに封筒をひっくり返す。あれほど念を押し、言い聞かせておいたのに姉になんの断りもなく送られた写真がそこにあった。

 三枚のそれが画用紙に貼られている。それぞれ見出しがふられ、まずセクシーショットとあり、スカートをひらつかせ、太股をあらわにし、パンツを覗かせながらアリヅカ薬局の階段を昇っている姿、次にファミリーショットが続き、刀を差すちょんまげ頭の徹と並んで口からたこ糸を出しているあの姿、そして帰京の日のフォーマルショットとなり、京都駅のホームでスリップドレスをひるがえしながら恥じらう姿があった。一枚目は隠し撮りされたやつ、二枚目は例のあれ、三枚目は徹に呼びかけられ振り返ったもので、恵の背後にアロハシャツを着たちょんまげ健さんのにやにやした顔が写っていた。彼はその日、おじいちゃんやおばあちゃんといっしょに見送りにきてくれたのだ。いずれにせよまともな写真は一つもなく、こういうのをタレント事務所へ送るのはふざけてるとしか言いようがない。そうでなければ完全にいかれている。

 恵は徹を見た。なにやら考え込むふうなのを見てやっぱりいかれてるほうだと思った。しかし京都から帰って以来、こうした挙動や姿にできるだけ腹を立てないようにしていたのでぐっとこらえる。徹は「綾乃ちゃん、マネージャーとうまくいってないのかな。こんなことで落ち込んじゃだめだよ、お姉ちゃん」と言い、「おかしいなあ。ふしぎだなあ。わからないなあ」と連発する。恵にとってはおかくもなければふしぎでもなく、そう思わないことのほうがわからなかった。こわくもあったが、そこまで並はずれる弟をかわいそうにも思った。

 恵は画用紙に貼られた写真をもう一度見る。見方によっては愛くるしいといえなくもない。まじめくさった顔でいるよりいまを写している。レンズに向かってポーズを決めたりカッコつけたりするより天真爛漫な姿だ。意外性も強いだろう。見る目があればこれを認めるかもしれず、大人になったら微笑ましく思うかもしれない。恵はもう一度手紙に目をやる。女の子へちょんまげをプレゼントし、ラッキョウの瓶詰めやら刀のオモチャを送ったら、万に一つ、人気者の気をひくかもしれない。

 そう思おうとしたがだめだった。写真は恵自身のことだから理解できるとしても、贈り物をもらう立場になったら絶対に近寄りたくないだろう。いくらできた人間でもちょんまげやラッキョウや刀をうれしがるには相当の包容力が必要だ。それについていくには気の遠くなるような習練か、壊れた感覚がなければならない。

 押入れをごそごそやっていた徹がサッカーボールを取りだした。あゆみさんからもらったやつだ。そして机の引き出しからベーターカプセルを手にしてにっこり笑い、鼻をじゅるじゅるとすする。恵が「この手紙ってさ……」と訊くよりさきに「病気、ぼくに移さないでね」と言って部屋を飛びだしていった。恵は咳が止まらなくなった。


 YaYa会館四階の非常階段に立ち、昼近い秋の陽射しと風にあたりながら恵はだれもいなくなった中庭に転がるサッカーボールを見つめた。『連の会』関係者が会場の準備を進めるあいだ、大方の子どもたちは親の手伝いをするか別室に閉じ込められているはずだが、徹は一人で外に出てドリブルやシュートのまねごとをしており、それをママに見つけられ、たったいまえり首をつかまれ建物のなかへ消えたところだった。残されたボールは花壇の縁にぶつかり、溝の上を転々として止まった。

 東京へ帰ってきたとき蟻塚家の面々はそれぞれ悩みごとを抱えていた。恵はもちろん鮎川夫婦の心中事件、一人娘のめいのそれからが気になってしかたなかった。夏休みの自由研究が水の泡となることやおじいちゃんがひどく気落ちしたことは、それはそれで重要な関連がありなおざりにできなかったけれど、気分的には二の次だった。ましてせっかく仲よくなったちょんまげ健さんとの別れを惜しみ、返事がこない麻生綾乃へのいらだちを深めて味気ない学校生活の再開におびえる徹の気持ちや、京都でのできごとを気づかうふりはするもののボランティア活動に熱中し、思ったより周囲に認められ正式スタッフとなるのを機にあれこれ仕事を任せられるパパと、だんだん存在感が小さくなりあせればあせるほど空まわりしてしまうママの、両親の微妙な心持ちのことなど眼中に入らなかった。めいは京都府下に住む父親の親戚へ預けられたが、やがて九州にいる母親の身内に引き取られ、そして施設へ入れられたということだ。連絡はかなわなかった。心中の原因はよりを戻そうとした父親が母親の睡眠薬を使い発作的に行ったものとされ、めいの証言がそれを裏付けた。盆踊りの日、あの報を聞いてからというもの恵は彼女と会っていない。

 まずおじいちゃんを助け起こさなければならなかった。やぐらの下で尻もちをついたおじいちゃんは恵にことばを発したあと、携帯電話を握りしめたまま何度か立ち上がろうとしたが、腰が抜けてしまったらしく奇妙な叫び声とともに地面でのけぞるばかりだった。突然のことに恵は身動きできずにいた。町内会の若者がおじいちゃんのからだを起こし、救護室へ連れていこうとしたときもまだうわの空だったと思う。大太鼓が中空にぶらさがり、強い陽射しのなかで揺れていたのはよく覚えている。「病院や! 糸はんの病院へ行くんや!」と叫ぶおじいちゃんの声を聞いて恵もそう思った。支える手を振り切って駈けだすおじいちゃんを追い、ハッピをつかみながらいっしょに走った。

 タクシーのなかで二人は黙りこくった。「だいじょうぶなの」という問いに「わかるかい」という答えがあっただけだ。鮎川夫婦の身を案じているのは間違いないが、口をつぐむうちさまざまな思いが高じ、孫と祖父は異なる憂いにとらわれていたのだろう。恵の頭にあったのはめいがいまどこで何を考えてるのか、両親がこんな事態になったのはどういうわけか、ほんとうに心中なのかということだが、なぜ恵はとっさにめいを犯人だと思ったのだろう。前日のめいと糸さんの様子、そもそもめいが父親と会った場面を目撃してしまったせいもあるが、核心をぼかされたようなもどかしい感覚が残ったままだ。

 病院へつくとすぐに太鼓党のメンバーが駆け寄った。そばにいた警察の人がおじいちゃんを呼び、小さな声で立ち話をしたあとエレベーターのなかへ消えた。ついていこうとした恵は制止させられ、太鼓党の人たちとロビーに残された。めいにはとうとう会うことができなかった。

 前日のあのひとときが最後だったのだ。ゲームセンターと喫茶店で交わした会話を心に刻みだれにも喋らない恵と同じように、おそらくおじいちゃんも鮎川糸との話し合いを永遠に自分のものとしてしまうだろう。口裏を合わせたわけでないけれど、それについてはお互い触れようとしなかった。東京へ帰ってから恵が聞いたのは、親の葬儀にめいは出席せず、京都という場所からも親類縁者という人間関係からもすすんで離れたがったということだけである。

「やっぱりここにいたか」

 パパが非常口から顔を出した。

「うん」恵は振り向き、視線をまた戻す。「そろそろ戻ろうと思ってた」

「小春日和だな」とパパが娘の真横へくる。「忙しくてあまり話をしてなかったね。言いわけをするわけじゃないが、あの件があってからおじいちゃんにできるだけそっとしておくよう言われてた。でももう十一月だし、仕事もひと段落するからやっと落ちつけるようになると思う」

「べつに気にしてないよ、わたし」

「パパは気になる。ママのこともあるし」

 恵はちらっとパパの横顔を見た。手すりに胸をあて、空のかなたでも見つめているようだ。

「お昼が終わるまでここにいていいかな」

「ああ」とパパが腕時計を見るのがわかった。「講演がはじまるまでにちゃんと戻ってるんだよ。この午後が三日間の締めくくりなんだからね」

「うん」

 恵の肩をもむように叩いてパパは建物のなかへ入った。

 風が出てきたようだったがそれでもこの時期としては暖かいほうだろう。YaYa会館は凌心寺から数百メートル離れたところにこの秋オープンしたばかりで、『連の会』事務局もここに移っていた。一階がギャラリー、二階がオフィス、三階から四階が多目的スペースとなっており、ボランティアの拠点として当然ながら、その営利活動や仏門事業を阿久津豊さんの営む株式会社YaYaがこのなかで統括していくそうだ。恵は中庭の向こう、ホール入口の掲示板でかすかに揺れる今回のイベントポスターを見つめた。大人と子どものつないだ手が真ん中に描かれ、そこに一昨日からはじまった『連の会』のオープンレクチャーが告知されている。文化の日をはさむ連休の三日間、ゲストを招き話を聞いたあと、会の人たちによるシンポジウムが行われる。パパはそのディレクター役である。

 ・一日目“私のなかのネット社会”
   講師=浅井一己(大学教授)
 ・二日目“子どもたちのからだとこころ”
   講師=姉沢友彦(教育評論家)
 ・三日目“境界線上のアリア”
   講師=阿久津豊(『連の会』代表)

 こういうのは子どもたちにむずかしいんじゃないのか、と大人たちは口をそろえたが、意識して聞けば簡単なことだと恵は思う。たしかに専門用語もあり聞いててわからない部分はあるものの、テーマが社会との新しい関わり方で、話題がコンピュータや学校や音楽のことであれば子どものほうが直感力はある。この数日耳にした会話を思い出しながら恵は、掲示板のポスターから再び中庭のサッカーボールへ視線を移す。

 正直いって、講演の内容にはピンとこなかった。下心のある説教ばかりで喋る人自身が酔いしれているのがありありとわかった。スライドで教育現場を紹介したり参加者にレッスンをしてみたり、その一つ一つがまるで催眠術のショーみたいだった。新興宗教のようなまねがあの人たち特有のやり方だろうか。

 昨日の姉沢友彦の場合はとくに驚いた。演劇体験を人間教育に取り入れているらしく、やたらもったいぶった話し方をし、姿勢がいいとか声が通るとか、子どもたちの自然な姿を強調するにいたって恵はあ然となってしまう。この人は何もわかっておらず、これまでさんざん人を出し抜いて生きてきたにちがいない。親子の相互関係を重んじると言いながら正しく美しいことばかり志向し、しきりに感動的なせりふを吐く。他人をとやかく言いつつ自分をひけらかし、その快感にひたるタイプだろう。そう思っていたとき、会場のはじっこから調子っぱずれの声がひときわ高く響いた。

「わたしにはできません! あなたにもできません!」

 あゆみさんの長男の、障害児の相原義春くんだった。

 二百人ほどの聴衆がいっせいにそちらへ振り向いた。義春くんはうれしそうに笑っており、両側に座るあゆみさんと次男の隆昭くんが恐縮した面持ちで頭を下げた。壇上の姉沢友彦先生はしばし絶句したものの、事情を察したらしく咳払いしただけでその場をすませた。

「たいへんけっこうです! もうけっこうです!」

 再びとどろいた義春くんの声に場内から笑いがもれた。あわてたあゆみさんと隆昭くんが彼の両脇をつかんで外へ連れだそうとした。姉沢友彦先生は苦虫をかみつぶしたような顔でそれを見送ったあと、彼らが出ていってから表情をやわらげ、障害者との出会いにより自分の教育観や演劇観がどのように育まれてきたかを体験を交えて述べた。もう話を聞くまでもないと思った恵はトイレへ行くふりをし、そっと会場を出た。

 ロビーで義春くんは窓に両ひじをついて、にこにこしながら外を眺めていた。後ろのベンチに座ったあゆみさんと隆昭くんはうつろな眼差しでその背を見つめている。恵が近寄って隣りに腰を下ろしてもあゆみさんは軽く微笑むだけである。しばらく無言ののち隆昭くんがぼそっとつぶやいた。

「ぼくもあんなふうに、お兄ちゃんみたいになれたらいいなあ」

 恵はその顔を見た。手前のあゆみさんは黙ったままだ。

「景色が違うんでしょうか?」

 恵の質問に隆昭くんが振り向いた。

「それは同じだと思う。見方が違うんだ」

 その意味がよくわからず恵が「でも」と言いかけたとき、あゆみさんが口を開いた。

「二人ともそれぞれ違ってるからすばらしいんだわ。義春には義春の世界があり、隆昭には隆昭の世界がある。お互いまねしようとしてもできっこないし、意味ないもの。私がうれしいのは隆昭がそうやって思ってくれ、義春がこうやってそばにいてくれること。それだけで十分」

「『連の会』の基本ですね」

「大きくなるとみんな忘れちゃうのかな。私が活動的に動きまわるのはそれを守りたいだけかも」

「パパとママもすごく尊敬してます」

「ありがとう、恵ちゃん」

 隆昭くんが立ち上がり窓際へ歩いていく。お兄さんの肩に手をかけ耳打ちして戻ってくると、恵に「きみはえらいなあ」と言いトイレへ向かった。恵はなんだか恥ずかしい思いがした。

 通路や中庭へ人が出てくるのが見えた。そろそろお昼になったのだろうが恵は食欲がなかった。仕事の手伝いもせずこうして日なたぼっこをしているのだからまっさきに駆けつけるわけにいかないし、みんなと顔を合わせたくなかった。休憩室よりもここにいるほうがずっと休まる。

 また徹が一人で中庭へ出てきた。だれかと戦っているようで、足を振りあげ拳を突きだし攻勢にでたかと思うと武器をくらったらしく、さらにキックやパンチを決められ苦しげにのたうちまわる。植え込みへまわりポケットから何かを取りだす。ああウルトラマンになるんだな、と思った恵は非常階段の上から声をかけてやる。

「徹、シュワッチ!」

 そのとたん弟の動きが止まった。あたりを用心深くうかがい声の主を探している。

「おーい、ここ、ここ」

 徹が四階を見上げた。「あ、あ、あ」と妙に力抜けしている。

「またママに怒られるよ。よくあきないわね」

「ずっと見てた?」

「まる見え。いま、ウルトラマンになったんでしょ?」

「変なとこで声かけるから中途半端じゃん」

「どういうこと? 変な生き物になっちゃったの?」

 徹はそれに答えないでベーターカプセルをポケットにしまい、再びあたりを見まわした。

「サッカーボールならあっちよ」

 それを指さしてやると、「おい、恵」と真後ろで声がしてぎくっとする。

「だれかここにこなかったか?」

 パパが非常口を開けてやってきた。

「ううん」

「ほんとだろうね」

 パパは恵を見つめ、手すりからたれた彼女の腕の先へ目をやる。徹がとぼとぼ中庭を歩いていた。

「ここにいるあいだ、だれか非常階段を通らなかった? だれかの声を聞かなかったかい?」

「さっきパパがきて、話しただけだよ」

「そうか」

「どうしたの?」

「相原義春くんの姿が見えないらしいんだ。ホールのどこにもいないとあゆみさんがあわてている」

「ここにはパパのほかだれもこなかったし、彼が下にいる姿も見てないよ。ひょっとしたら外に行っちゃったんじゃないかな」

「ママがいま凌心寺へ、隆昭くんが駅のほうへ捜しにいった。もう一度建物のなかを見てまわるから恵も手伝ってくれないか」

「わたしも外へ行ってみる。そっちのほうが心配だもん」

「そうしてもらおうか。けどどこで見つかるかわからないから、講演がはじまるまでに帰っておいで。それで見つからないようだったらべつの手だてを考えなくちゃならないから」

「うん、わかった」

 恵はさっそく非常階段を降りていく。「頼むよ。お弁当はちゃんと取っておくからね」というパパの声が聞こえた。


 そうはいっても恵になんのあてもあるはずがない。外へ出て右へ行くか左へ行くかでまごついてしまい、このへんの地理をほとんど知らないのだ。中庭を通り抜けるとき「お姉ちゃん、どこ行くの?」と徹に訊かれ「散歩」と答えたが、実際そんな気分があるのかもしれなかった。

 近くの大きな公園へ足が向いたのは、いい天気ときれいな並木道に誘われたせいだが義春くんがいる可能性を自分なりに考えた結果でもある。ワークブーツにジャンパースカートのストリート系だからうってつけのスタイルにちがいないが、偶然そうなっただけの話である。意外と豊かな緑を眺めながら恵はさっきから言いわけばかりしている自分に気がつく。広々とした公園に足を踏み入れ三々五々くつろぐ人びとの姿を見て、たった一人であせってもしかたないと思う。

 まわりに図書館や野外劇場や植物園、中央に芝生や池があり、奥はむかし粟名山と呼ばれた小高い丘となっており、公園の名はそれに由来する。入口の掲示板にそう書いてあった。義春くんは近所の公園で水辺遊びをするのが好きだと聞いていたから恵は池のまわりを歩いてみる。散策路にそって紅葉したカエデや実をつけたイチョウ、さらにケヤキやプラタナスが立ち並んでゆるやかな風とともに葉が舞い散る。木々からもれる陽射しが気持ちいいので恵は近くのベンチに腰かけ、水の上の鳥たちを眺めた。

 五分もそうしてなかったはずだが、恵は思わぬ姿を見つけ「あっ」と小さく叫んだ。なぜこんなところでと思うよりまえに見てはいけないものを見てしまったと思った。車輪つきのおもちゃをひきながら阿久津祥子ちゃんが池のほとりを歩いてきたのだ。ニットの黒カーディガンにねずみ色のスカートだったせいか風景のなかでくすんで見えてしまう。声をかけるべきかどうか迷っているうち向こうから「こんにちわ」と微笑んできた。そして恵の隣りのベンチに座った。

「こ、こんにちわ」

 恵は何を喋っていいのかわからず、足下にあるおもちゃへぎこちなく目をやる。

「これ、あたしのフーちゃん」

 いまやっとわかった。初めて彼女と会ったときフーちゃんと遊んでいたと言ったのはこれのことだったのだ。だがじっと見てもそれが何かわからず、かといって質問するのもためらわれた。

「祥子ちゃんも義春くんのこと捜してるの?」

「ううん。フーちゃんと散歩してるの。彼女はここがとても好きなの。そうだよね」

 と手にしたひもを軽くひっぱる。彼女と聞き、恵はもう一度それを見る。とうとう口にしないではいられなくなった。

「それってなんなの? 生き物なの?」

「だからフーちゃん。カメのフーちゃん」

 ああ、カメだったかと恵はなぜかひと安心した。彼女の部屋にあったマネキンがイルカのスーちゃんだったとすれば、このプラスチック製の箱のようなものがカメであるのはわからなくない。

「近くにこんな大きな公園があっていいね。ここだったら毎日きてもあきないわよ」

「くるのは週に一、二度。公園のほかにもフーちゃんにはお気に入りの場所がいっぱいあるから」

「祥子ちゃんはめぐまれてると思う。都会の真ん中であんな大きな家に住め周囲にこんなすてきな場所があるんだもん。YaYa会館ていう立派な建物もできたし」

「あたしのものじゃないよ、みんな」

「でも、そういう環境にいられてうらやましいな」

「あたしはフーちゃんやスーちゃんと仲よくできればいい。お父さんみたいに活動したり、新しい知り合いとつきあうのは興味ないもん」

 恵はそんなことばを聞くのは初めてだった。彼女は意外に素直かもしれないし、似ているところがあるかもしれない。

「それはそうとYaYa会館にいなくてだいじょうぶなの? 午後から阿久津豊さんの講演があるんだけど」

「昨日、おとといと出席したし、今日も朝から手伝ってた。お父さんの話は何度も聞いてるから出なくて平気。フーちゃんが散歩したがってたし」

「そうなんだ」

「来月になったら同じタイトルの本を出すよ」

「そういえばパパとママが言ってた。多くの人から応援があって念願の出版だって」

「メグちゃんはどうしてここにいるの?」

 そう訊かれ恵は笑ってしまった。もっともな疑問である。彼女よりここでベンチに腰かけてる自分のほうがよっぽど不自然といえる。

「相原義春くんを捜しにきたんだけど途方にくれちゃって、ちょっと休んでたの」

「ヨッちゃんなら野外劇場へ行ったよ」

「えっ、見かけたんだ」

「だってくるときいっしょだったんだもん」

 恵はがく然とした。つまりそういうことだったのだ。

 つかみどころのない話だったが、彼らはYaYa会館の前で歩け歩け運動のグループと出会って公園まできたあと、お天気劇団の人たちが芝生の上でリハーサルするのをいっしょに見物し、それから別々となったそうである。祥子ちゃんは「じゃあね」とフーちゃんをひきつれて立ち去った。恵はその後ろ姿を見やってから、反対の野外劇場のほうを見つめた。

 早足でそこへ向かった。砂利道を通り、芝生を横切り、木々の繁る一角を抜け、コンクリートでできた屋根つき休憩所まできたとき、そこに寄り合う十数人の集団へ目がいった。少々緊張した雰囲気はあったけれど、いずれも中学生か高校生ぐらいの障害児が思い思いに会話を交わしていた。もしかして義春くんがそこにいるかもと思った恵は、空いたベンチを探すふりをし顔を見渡したがそれらしき姿はなかった。逆にじっとにらまれてしまう。急いで歩きだし、水飲み場へ行こうとした恵はそこでも同じ数人連れのグループを見る。草むらにはアリを追いかける男の子がおり、公衆便所で母親に連れられた女の子が泣いていた。広場へ出るとそうした一団があちこちにあり、総勢で百人ぐらいいそうだった。恵はここにいたり野外劇場の催しが障害者に関係あるものだと察し、その入口を探した。

お天気劇団 秋の公演
 『カバくんが助けてくれた』 入場無料

 入口に立てかけられた手書きの看板を見て恵は、ははんとうなずく。まだ開場前だったけれど義春くんはこれに惹きつけられたのだろう。この周辺にいるにちがいないと思い、広場や劇場のまわりを捜してみることにした。

 さんざん歩きまわったがどこにも見あたらない。リハーサルらしく会場から音楽や効果音、動物の鳴き声をする人の声がした。恵が裏門の前まできたとき建物から一頭のシマウマが走ってきた。もちろん気のせいで、シマウマの被り物をかぶった人間が駆けてきたのだ。門柱にぶつかり、仰向けざまに倒れて顔が見えた。なんと義春くんだった。

「あっ、だいじょうぶ? どうしてそんなかっこうしてるの?」

 恵は彼のそばへ駆け寄り、助け起こす。

「そこにいるのは、アリヅカメグミさんですか」

「うん。みんなであっちこっち捜してたんだよ」

「ありがとうございます」

 義春くんは満足そうに笑い、被り物をすべて脱いだ。

「それ、どうしたの?」

 もう一度訊いてみた。

「カバくんが助けてくれました」

「えっ?」

「シマウマさんはもうだいじょうぶです」

 そう言って被り物を折りたたみ、建物のほうへ歩いていって楽屋口の床に置き、にこにこしながら戻ってくる。

「あれでいいのね」

 わけがわからなかったが、変には思わなかった。

「はい。それでは歩け歩け運動へ行きましょう」

「えっ、『連の会』の会場へ戻るんでしょ? みんなそこで待ってるよ」

「はい。歩け歩け運動です」

「行き先はYaYa会館だからね」

 恵がそう念を押すうちに義春くんは「よーい、スタート」と言って足早に歩きだした。

 両手を振って大げさな身ぶりで歩く義春くんを恵は小走りで追いかけた。数メートルほど離されたが彼のほうが速度を落とし、その真後ろへ足を緩めてついていく。別れ道や信号があるたび「あっち」「こっち」「止まって」「行くよ」と声をかけ、道の真ん中で立ち止まったりすると「危ないよ」と背中を押してやる。十七歳の男子と十二歳の女子だから力の差は歴然としているが、義春くんは素直にしたがってくれる。なんだかリズムがついてくるようで恵は楽しくなり、体育の日の二人三脚リレーを思い出した。

 国立競技場で行われた都民おおらか体育祭に家族みんなで参加したときのことだ。東京都民でもないのにいいのかなと思ったけれどあまり関係ないらしく、『連の会』のメンバーも何組か家族連れできていた。徹は国立競技場のピッチに立てるというだけで興奮し、それほど気乗りのしなかった恵も塾の試験が続いたあとだったのでいい気分転換になった。

 四組のカップルで四百メートルのトラックを一周するレースで、恵とパパのカップルは最後の走者だった。たすきをもらったときは三位だったが、恵とパパは互いに腕をまわし、掛け声をかけ快調に走った。すぐさま二番手となり、半分くらいきたところでトップに立った。「よしこの調子だ」とパパが言ったとたん歩調が乱れあやうく倒れかけたけれども、体勢を持ちなおしゴールへ向けまっしぐらに進む。と、背後から「いちに、いちに、いちに、いちに、いちに」というリズミカルな声が聞こえてくる。義春くんとあゆみさんのカップルだった。ちらりと振り向きその姿に驚いたせいか、恵とパパはゴール目前で足をからませ転倒した。次とその次のペアにも抜かれてしまい、結局四位だった。彼らの掛け声がずっと耳に残っていた。

「義春のからだは特別なの。障害児だと思ってみんな勘違いしてるけど、彼のテンポさえつかんでしまえばすごい力を発揮できるの。その呼吸をつかむのがたいへんなだけ」

 決勝でも一等となり、賞状を手にあゆみさんはうれしそうにそう言った。義春くんはからだを左右に振り、母親など眼中にない様子だった。

 あのときもっともらしいことほど危ういものはないと思った。あの掛け声と走り方をすごいと感じたのであり、それを説明するのはむずかしい。しかしこうして義春くんのからだに触れているとあゆみさんのことばが思い出され、知らず知らず力が湧いてくるのも事実だ。このリズムをどう表現すればいいのだろう。

 YaYa会館が見えてきた。義春くんの背に触れながらお互い胸を張り、元気のいい姿勢で歩く。建物の前にいた隆昭くんが駆けつけてきて何も言わずいっしょになかへ入っていった。


 午後の講演はすでにはじまっており、それを聞く気になれない恵はすぐに外へ出た。中庭にはあいかわらずサッカーボールと戯れる徹がいた。建物のまわりは静かである。恵が近づいていくのを目にしても徹はリフティングを繰り返しているだけだ。

「まだやってるんだ」

 恵が快活に声をかける。

「義春くんっていつもマイペースじゃん」

「見てたのね」

 ボールが転がり、それを拾った徹は尻の下へ持っていき座る。恵は花壇の端に腰を落とした。

「なんかあったの?」

 徹は黙っていた。

「講演がはじまっても、パパやママに引き戻されずにこんなとこで遊んでるんだもん。なんかあったに決まってるよ」

 徹一人のせいでなかった。建物のなかへ入ったとき妙にしらけた雰囲気があるのに気づいた。義春くんが戻ってきて受付にいた人たちは顔を輝かせたがどこかよそよそしいそぶりだった。恵がいないあいだに何かあったのは間違いない。それを確かめたくも関わりたくもなく中庭へ出てきたのだが、弟の黙りようはやはり気になる。

「とうとうやっちゃったんだ」

 徹がぽつりともらしたので恵はその顔を覗き込む。またとんでもない悪さをしでかしたのか、あるいは恥でもさらしたのか。

「やっちゃったって、何を?」

「だからパパとママが」

「パパとママが?」

「みんなの前で大ゲンカしちゃったのさ」

「みんなの前で大ゲンカ?」

 恵はバカみたく徹が言うのを繰り返すだけだった。驚いたが、そう聞けばさっきのしらじらしさもうなずける。

「原因はなんなの?」

「知らない。突然だったから」

「もう仲直りしたんでしょ?」

「知らないよ」

「ママはどこにいるの?」

「知らない」

「パパと同じ会場にいるんだったらもう落ちついてるでしょ。二人とも大人なんだもん」

 徹は何も言わなかった。

「義春くんだってちゃんと帰ってきたんだよ。パパとママもほっとしてると思うな」

「その義春くんのことがきっかけだったんじゃないかなあ」

「どうやって捜すかってことでしょ。それなら戻ってきたんだから解決したはず」

「そうじゃない。義春くんのことはあくまでもきっかけで、すごいけん幕でやりあってたんだぞ。パパはママをぶったし、ママは家を出てくんだって」

「そんなおおごとなの」

 これまでパパが手を上げるのを見たことないし、ママが家を出ていくとしたら恵が幼稚園以来のことだ。

「ぼくたち、どうしたらいいんだろう」

「どうしたらって……。わたし、会場へ行ってみるからあとでね」

 恵は不安だった。弟の前でできるだけ明るくふるまってみたものの、何か決定的な事態がパパとママのあいだに起こったとの思いが強くする。

 春以降、蟻塚家が『連の会』に関わるようになってからパパとママの関係は微妙に変わった。ママが誘ったのにパパのほうが認められるようになり、それが願いであったにもかかわらず二人のあいだにとまどいとわだかまりとすきまができた。熱心に活動すればするほど距離が広がってくようだった。両親の仕事ぶりはみんなにほめたたえられたが、子どもにとっては息苦しさを感じるばかりで、いつか大きな破局があるのではとびくびくした。それが今日でないという保証はないのだ。

 すぐに会場のドアを開ける気になれず、恵はロビーのベンチに腰かける。心を落ちつけようと座ったものの夏以来のことを回想するうちだんだん腹が立ってくる。京都のことであれ『連の会』のことであれ、パパとママが家族のためにお膳立てしたものはことごとく裏目に出て、その火の粉がまっさきに自分たちに降りかかってくる。勝手に仲間割れまでして、えらそうなことを言うわりに身近な存在を無視しているとしか思えない。

 夏休みのあいだ、恵と徹はふだんと違う場所でふだんと違う人たちとふだんとまったくかけ離れたできごとを経験した。それはパパやママが望むものとは異なる社会的ふれあいかもしれないが、大人たちが考えるボランティアよりずっと新しい発見があった。自然保護や社会福祉や教育問題の役に立たなくても視野が広くなった気がする。パパとママは『連の会』と関わることによって、そして今日のオープンレクチャーに参加してどんな収穫があったというのだろう。

 ここまで考えて恵はかぶりをふった。京都がそうであったように、子どもにとって『連の会』にも思いがけない実りがあるかもしれない。パパとママの思惑にとらわれる必要なんかないのだ。大人のものさしで判断してはいけないのだ。みんなの関心から外れたところにチャンスがあるのだ。そう考えたらパパとママのケンカであろうととるにたらないものに見えるだろう。恵は強引に気分を落ちつかせ、ベンチから腰を上げた。

 ドアを開け、その内側に立った。阿久津豊さんは賛美歌がどうとか声明がどうとか身ぶりを交えて話し込んでおり、講演はたけなわのようだ。パパは舞台のそでにいるはずで、ママは会場のどこかに座っているはずだが後ろからではよくわからない。端から順に後頭部へ目を凝らしていっても、あゆみさんと義春くんは反対のドア口ですぐ見つかったけれどママの姿はどこにもない。恵が漠然と講演を聞いているとふいに肩を叩かれる。横に立った隆昭くんが手招きをし、ドアの外へ出る。

「お母さんなら、二階の応接室にいるよ」

 ロビーへ出るなり隆昭くんが小さな声で言った。

「あ、そうなんだ」

「捜してたんでしょ。行ってあげるといい」

「どうもすいません」

 ちょこんと頭を下げ、恵が歩きかけると再び肩を叩かれる。

「ぼくのほうこそお礼を言わなくちゃ。さっきはあわててて忘れてしまったんだ。恵ちゃん、お兄ちゃんのことありがとう」

「いえ」

 恵はもう一度うつむく。

「お兄ちゃんと帰ってきたときの恵ちゃん、すごく頼もしかった。あんなふうにいっしょに歩けるなら何があってもだいじょうぶだと思う。あとでうちの母さんからもお礼を言わなくちゃね」

 隆昭くんはそう言って会場へ戻っていった。そのひと言、気遣いがうれしかった。恵は少々元気を取り戻してママのところへ向かった。

 ノックしても返事がないのでかまわずドアを開けると、ママは驚いた顔でこちらを見つめた。テーブルの上に食べかけの幕の内弁当が二つあり、頬に米粒がついていた。

「なんだ。恵なのね」

「お弁当、食べてたの?」

 恵がそう訊くと、ママは恥ずかしそうにテーブルへ目をやる。

「わたし、お昼まだなんだ。お腹へってないけど食べたくなってきた」

「お弁当なら余ってるわよ。三階の控室へ行ってごらんなさい」

「じゃあ、取ってくる。ここでいっしょに食べてもいいでしょ」

 ママは笑みを浮かべうなずいた。

「そうそう、義春くんのこと聞いたわ。あゆみさんと隆昭くんがとても喜んでた。まわりの人も感心してたわ。ママもほっとしたし、恵が連れて帰ったと聞いて詳しいこと教えてほしかったの。どこで見つけたの?」

「あとで話す。ねえママ、ここ」

 恵は人指し指で自分の頬をさした。束の間きょとんとしたママは気づくと真っ赤になった。

 思いのほかママが落ち込んでおらず恵は安心した。やけ食いするぐらいだからノーマルな精神状態といえないだろうが、それでもちゃんと会話できそうで肩の荷が軽くなった気がする。三階から幕の内弁当一つと缶入り麦茶を二つ持って恵は応接室へ戻った。

 部屋にはだれもいなかった。テーブルの弁当もなくなっていたが、ソファにママの小物入れとノートがあったのでお手洗いか給湯室にでも行ったのだろうと恵はその向かいに座る。ゆっくり幕の内をつまんでもママがいっこうに戻ってこず心配になり立ち上がろうとしたとき、そっとドアが開く。部屋に入ってきたママは思いつめたような顔をしており、恵はいやな予感とともに箸を置く。

「ごめんね。食べすぎて、気持ち悪くなっちゃったみたい」

 ママのひと言に恵はほっとした。

「余ってるからって二人分も食べるからよ。はいお茶」

「ありがと」

「薬、もらってくれば」

「だいじょうぶ。いま、漢方薬を飲んできたから」

「京都のおじいちゃんが送ってくれたやつでしょ。あれって精神安定剤じゃなかったっけ」

「なんでも効くのよ。恵はゆっくり食べてていいからね。ここで私、ちょっと休憩する」

 それっきりママはソファの背にもたれて何も言わなかった。恵は黙々とお弁当を食べたが、ママにじっと見られている気がして落ちつかない。パパとのことを訊いてみたかったが、どう切りだそうかと迷ううち無理にいま話さなくてもいいのではと思えてきた。上目づかいにママのほうを覗くと、体調が悪いのか物思いに沈んでるのかこっちを向きながら放心してるみたいだ。が、じろりと目が動く。

「何をちらちら見てるの?」

「マ、ママのほうこそさっきからじっと……」

「だって親だもの。恵もだんだん成長していくだなあって感心してたの」

「時がたてば大きくなるよ」

 とまごつきながら残ったご飯に箸をつける。

「ところでこの春に引っ越して、学校も変わり半年ちょっとたつけど、どうなの恵は?」

「どうって言われても」

「来年からは中学生でしょ」

「そうだけど」

 と麦茶をひと口飲む。

「これからの目標とか、希望とか、いろいろあるんじゃないの」

「急に訊かれても困っちゃうな」

 と四分の一ほど残して幕の内弁当にふたをする。あらたまった話になり、勉強やボランティアのことを訊かれるまえに例の件を持ち出してしまおうと恵はまじめに顔を向ける。

「家族のことでもいいのよ。パパやママについてどう考えてるのかしら」

 表情には表さなかったものの恵には渡りに船。だが、ああだこうだと思い悩んできたのにそうやって聞かれるとかえって喋りにくい。馬鹿みたいだ。しかし、ママも同じ心持ちだったのだろうか。

「恵は、自分でしっかり考えられる年頃だから言っとくけど、ママは来週、仙台の実家へ行こうと思ってる。ついさっきパパと言い合いしちゃったけど前々から考えてたことなの。しばらくそっちで過ごすつもり。あなたたちのためにもパパとママのためにも、この先後悔しないためにもね。だから恵がどういう意見なのか、聞いておきたいの」

 いきなりそんなふうに言われショックのほうが大きい。

「離婚するの?」

「そうと決まったわけじゃないのよ。冷却期間というのかな。今年になり次から次へといろいろなことがあって、お互いに身のまわりのことをじっくり考える余裕がなかったんじゃないかと反省してるの。恵や徹へもしわよせがいってるだろうし、これじゃ会社の仕事に振りまわされ、ごたごたの絶えなかった私の両親と、まったく同じといわないけれどそっくりになっていく気がして、一度冷静に立ち止まってみる必要があるのかも。ボランティア活動がどんなによくても、それで家庭がおかしくなるなんて馬鹿げてるものね。パパはいま水を得た魚のように張り切ってるけど、まえのパパのほうがやさしかったと思うわ。恵はそんなふうに感じない?」

「う~ん、どうかなあ」

「以前あったような、家族のほんわかとした空気が徐々に消えてしまったんじゃないかしら。ふだん気づかなくてもあれってすごく得がたいものよね。このままだと全部なくなっちゃって、家のなかがぎすぎすした空気で溢れてしまいそう。恵も同じように感じてるんじゃないかな」

「パパもママも勝手だよ。二人でもっと話し合ったらいいのに」

 そう言い返した恵をママは心外そうに見つめ、やがて視線をはずし黙ってしまった。

 気づまりな間が長く続いたので恵は「会場へ戻ってる」とゴミ袋に入れた幕の内弁当と缶入り麦茶を持って立ち上がる。そして部屋を出てから、ママの沈黙に負けてしまい、義春くんのことも話せず、言いたいことが全然言えなかったとうなだれた。ここぞという機会を逃したようで敗北感にうちひしがれた。

 翌々日、ママは家を出ていった。


 それから一ヵ月以上になる。

 パパはまだ眠っているみたいだった。

 せっかく落ちついて塾の週末教室へ通えるようになったのにまた休まなければならない。ベッドから起き上がるとパジャマの上にカーディガンをはおりトイレへ行き、顔を洗い歯を磨く。外は晴れているもののすごく冷える。リビングルームのエアコンを入れ、テーブル脇のストーブをつける。時計を見たがパパや徹が起きてくるのは一時間ぐらい先だろう。部屋からやりかけのドリルを持ってきて、昨夜パパが読んでいた阿久津豊さんの本をテーブル隅へやり、オーブンから出したピザトーストと煎れたてのコーヒーを口にしながら恵は塾の勉強をやった。

 暖房のおかげで部屋は暖まってきたが、それよりさっきまで壁に照りつけていた陽射しがいまは背や足へと移って暖めてくれるのがよくわかる。恵はストーブの火を弱くし、陽射しを正面に受け窓の外を眺めた。遠く、東名高速を走る車にそれが反射しちらちら輝いている。ドリルを放り出し、椅子に座ったままぼうっと景色を眺める。周囲は雑音がいっぱいあるはずなのに、からだを流れる血の音が聞こえそうなほど静寂に満ちている気がした。どれくらいその姿勢でいたのだろう。寝室の扉が開いてパパが声をかけてきた。

「おはよう。いつも早いな」

 恵は振り返り「おはよう」と言ってから棚のデジタル時計を見た。さっきから十分も経っていない。

「まだ早いんじゃないの」

 パパは「ああ」とかすれ声で答えてトイレに向かう。テーブルの上に目をくれたがとくに何も言わなかった。

 今日の、阿久津豊さんの出版記念パーティへ出席するかどうかを決めるとき、蟻塚家のあいだで意見が分かれた。『連の会』の活動がいやなわけでも阿久津豊さんの著書を否定するわけでもないが、なぜそこに恵と徹がいなければならないのか彼ら自身に納得がいかなかったからだ。それ自体はボランティア活動といえず、恵と徹には本分の勉強やスポーツがある。パパはそこにはいろんな人が集まり出会いの場となるだとか、音楽や宗教に詳しくなれるチャンスだとか、パーティのあとで『連の会』スタッフの忘年会があるといった理由を述べたが、どれもいまひとつピンとこない。要するにそう言われているからでしょという恵のひと言と、ご馳走を食べられるならしょうがないねという徹のつぶやきにパパは弱々しくうなずくだけだった。

 しかし、その著書『境界線上のアリア』がつまらないというわけでない。阿久津豊さんの日ごろの言動を知っているせいか、パパが家に持ってきたそれを恵は辞書をひきつつ興味深く読むことができた。心配したほど堅苦しい内容でなくアニメやロックのことがに引用されており、三大宗教や新興宗教についてもわかりやすく書かれていた。阿久津さんのキャラクターがにじみ出てくすっと笑えるところもあり、その目次はこんなふうだった。

 第一章 弥勒菩薩とマリア様
 第二章 モハメド·アリの躍動
 第三章 デザインされた心
 第四章 祈りのサウンド
 第五章 アキラとトトロとドクロ
 第六章 転生していく神話
 第七章 ツールへ戻る
 第八章 ハードロック寺院
 第九章 聖職者たちの行く末

 少し疑問なところもなくはなかったけれど印象として悪くなかった。先日のオープンレクチャーで講師を務めた三人のなかでは最もおもしろそうな話であり、阿久津豊さんの講演を聞き逃したことを残念に思うほどだ。あとの二人の話を聞いてむかついただけにこういうセンス、こういう態度、こういうユーモアが好ましく思われた。

 とはいえ、それと出版記念パーティに出席することとは別問題だ。ボランティア活動でないのはいうまでもなく、子どもたちが楽しめるものとは思えないし、何か身につくことがあるとも思えない。単なる数合わせだとしたらナンセンスきわまりないが、パパもよくわかってなく、いくら話し合っても答えを知らない者同士が喋っているみたいだった。

「あ~、スッとした」

 トイレから出てきたパパがおどけた声で言い、恵のいぶかしげな顔を見てさらに明るく続ける。

「おいしそうな朝食だね。パパも同じものをいただきたいとこだが、今日はパーティでいっぱい食べられるからトーストにしておこう。そのコーヒー、おととい買ってきた豆を使ったかい。やっぱり、週末の朝はおいしいコーヒーがいちばんだもんな。恵もおかわりをどうだい。パパが絶妙のブレンドで煎れてあげるよ」

「うん、ありがと」

「恵が先に起きてくれててほんとに助かる。部屋もこんなに暖まって、なんだか生気がみなぎってくる感じがする。家族でゆっくり朝食をとるのも週末の特権だな」

 そう言ってパパが目の前に座ったので恵がドリルを閉じかけると、あわててことばをつぐ。

「いや、勉強の邪魔をするつもりはないんだ。気にせず続けてくれ」

 すぐに席を立ったパパは新聞を取りに玄関まで行き、子ども部屋を覗いて「徹、そろそろ起きたほうがいいぞ」と声をかけ、戻ってくるとそわそわとテーブルにつく。コーヒーがはいってトーストができても落ちつきなく動くばかり。恵に対して必要なことしか口にせず、ときおり一人で相づちをうちながら新聞を読む。丹念に読んでいるのかどうか紙面をめくる音がことさら響いた。

 廊下をのそのそパジャマ姿の徹がやってきて目をこする。おはようも言わずくるりと振り向き、再びのそのそトイレのほうへ歩いていく。

「あいかわらずだな、あいつは」

 恵はとくに返事をせず、ドリルへ視線を戻す。

「ねえ、恵」と間をおいてパパが語りかけてきた。「もしどうしても行きたくないんだったら無理することないんだよ。今日、パパはみんなに出席してもらいたいと思ってるけど、このまえも言ったとおり、べつに強制するつもりはないんだ。ここしばらく精神的にずいぶん負担をかけてきたわけだし、勉強をおろそかにできないのもわかってる。だから塾へ行っても家でゆっくり休んでても、パパは決してがっかりなんかしない。恵がいいと思う過ごし方をしてくれたほうが安心できる」

「気にしないで、パパ」恵はぱたんとドリルを閉じる。「決めたことだからちゃんと行くよ。パパに見せつけようとこうしてるわけじゃなく、早く起きたからゆうべやり残した続きをやってるんだもん。それに阿久津さんの本を読んだら、どんな出版記念パーティになるのか興味が湧いてきたし」

「そう言ってくれるとほっとする。今度の本は有名ではないがしっかりした出版社からでて、集まるのがボランティア関係者だけでなくいろいろな分野の有名人というからパパも楽しみにしてるんだ。聞くところによると作家の芦田あっぱれとかロックバンドのアヘアへの連中がくるらしい」

「へえ、そうなんだ」

 と恵は答えたが、どちらも知らない名前である。それを聞き返すと面倒くさくなりそうなので調子を合わせた。

「これはあくまでも噂で、あとでこないとわかってうるさく言われるのもあれだから徹には黙っててほしいんだけど、元Jリーガーのアントニーハオもくるかもしれない」

「すごいじゃん、私は知らないけど。でも、どうしてそういう人たちがくるの?」

「さあ、パパにもわからない。阿久津さんのつきあいが広く、『連の会』の影響力がそれだけ強いということじゃないかな。学者とか中小企業の社長がやるようなパーティと違って、なにごとも奉仕の心でやってるからまわりの人たちを自然と惹きよせていくんだろう。もしパパがまえの会社でそういう人たちを集めようと思ったら相当のカネとコネが必要だからね」

 それじゃあ芸能人や政治家のパーティみたいと言いかけたが恵は黙った。廊下の奥で徹のうめき声がしたからだ。二人はいぶかしげに顔を見合わせ、洗面所のほうへ走った。

 トイレのなかでガタゴトと音がし、徹の苦しそうな息づかいが聞こえてくる。ドアを叩きながらパパがどなった。

「おい、どうした」

「ウ~、ウ~」

「お腹が痛いのか」

「ウ~、ウ~」

「早く鍵を開けなさい」

「ウ~、ウ~」

「恥ずかしがることないんだぞ」

「ウ~、ウ~」

「……パトカー呼んでほしいのかな」

「それなら救急車でしょ」と恵が口をはさむ。

「そうだよな……」

 とつぶやき力ずくでドアをひこうとしたとき、ガチャという音がしパパは尻もちをつく。たちまち異様な匂いが漂ってきた。徹はパジャマを着たまま便器を抱きかかえるかっこうでうなだれ、口から泡を吹いていた。なにやら吐いたらしく唇の端にスルメのようなものがひっかかっている。

「おい、だいじょうぶか」

 パパはあわてて徹を抱き起こし、その背をさすり便器のなかへ目をやる。

「あっ」

 恵は小さく叫んだ。徹の足元にふたの開いたブリキ箱が転がっており、そこにスルメイカや五色豆や乾しぶどうなどの食べ物がぎっしりつまっていたのだ。そして予備のトイレットペーパーを置く棚の上にラッキョウの瓶詰めがあった。パパもそれに気づいたらしく徹の顔を覗き込んだ。

「ひょっとしておまえ、こんなとこで何か食べてたの?」

「ウ~」

「変なものでも食べたのか」

「変なものって何よ」と恵が口を出した。

 パパはもう一度、足元から便器のなか、そして徹の顔へ目をやる。

「食あたりかな、それとも食い合わせかな」

「生ものなんかないはずだけど」

 恵はしゃがんでブリキ箱のなかを見つめる。

「ウ~、ゲボッ」

 徹はのどの奥からモチのようなものを吐きだし、唇についたスルメを捨て嘔吐物とともに水に流した。

「ははあ、モチとスルメをいっしょに食べたんだろ」

「ウ~」

 ぐったりとからだを動かす徹。

「ひょっとしてあんた、ここで毎朝ラッキョウとかお菓子を食べてるの?」

「ウ~」

「いまはそんな、責めるような言い方はやめなさい」

「責めてるんじゃなくあきれてるの。パパもそう思うでしょ。毎朝、ウンチしながらラッキョウを食べてるのよ。どっちも似たようなもんだろうけど、家族の一員として情けなくなる」

「悪い癖についてはあとで言い聞かせよう」

「ウ~」

 そううめいておならをする徹。

 顔をしかめ、居間へ戻ろうとする恵。

 徹の頭を叩き、ブリキ箱を拾い上げるパパ。

「ともかく、ひどいことにならないうちわかってよかった。ここは早く用をすませるんだ」

 リビングルームへ戻ってきた二人はげんなりと席についた。恵は目の前のピザトーストやコーヒーを口にする気が失せ、それをかたづける。「これも頼む」とパパも食器を差しだし、台所でたっぷり洗剤をつけ洗っていると、「なんだこりゃ」という素っ頓狂な声が聞こえてきた。

 パパはテーブルに徹のブリキ箱を広げ、鼻を近づけ匂いを嗅いでいる。

「なに考えてんだ、徹は」

「いいかげんにして。パパこそなんでくんくんしてんのよ」

 恵の突き放した言い方にパパはたじろいだ様子である。

「誤解しないでくれ。これを見てみろ」

 よく見るとブリキ箱の内部が二重になっており、下側にあるのはどうやら乾物らしかった。

「おやつだか保存食だか知らないけど、いまさら徹の好物に驚いたりしないもん」

「違う。これは薬草だよ」

「え、そうなの。徹ったらそんなものまで食べてるの」

「まさか食べたりはしないだろうが、なに考えてんだろうね。京都のおじいちゃんからもらったものにちがいない」

「そういえばママもおじいちゃんから漢方薬をもらってた。なんでも効くからって健康食品のように口にしてた」

「ママもママなりに悩んでいたんだろう」

 とパパはうつむく。恵のひと言で話がややこしい方向へ飛び火しかける。そこへ廊下をのそのそ歩いてきた徹が「あ~、スッとした」とさわやかな声で言った。

 なんだかすべてがうやむやになってしまいそうだった。


 YaYa会館に向かう途中、車の後部席から外を見つめながら何をやっても時間がたっていくことに恵はふしぎな感覚を覚えた。空は晴れてても冷たい風の吹く季節であり、繁華街にはクリスマスの飾りつけや音楽があふれ、道行く人びとに年の瀬を控えたあわただしさも感じられる。ただ時の移ろいがいやおうなく押し寄せてくるのにそれが早いのか遅いのか、もっと正確にいうとそれがどういう理由で過ぎていくのか恵にはわからない。どう考えても理不尽に思えてしかたない。祥子ちゃんと会った公園、義春くんを見つけた野外劇場、そして彼といっしょに走った道を通り過ぎていったけれども、あれから一ヵ月以上たったという事実はそういうカレンダーの裏付けがあるだけだ。こうして同じ空間へ戻ることができるのに再び同じ時間へ戻ることがなぜできないのだろう。

 ここへくるとやはりママのことを思い出してしまう。あのとき恵が感じたこと、ママと話し合ったことは何度か思い返していたが、この場所でたしかにそうしたと思うと後悔の念ばかりよみがえってくる。YaYa会館四階の非常階段に立って眺める風景は冬枯れの色が濃く、ママがいないという欠落感、ママがいたらという切迫感がつのってくる。恵は身震いした。ちらっと出たつもりだったがコートを着ていなかったので寒さが身にしみる。太陽が雲の陰に隠れ、午前中より風が強くなったようだ。建物内に戻り、キャットウォークへ通じる扉を開けてパーティが準備される光景を見下ろした。人の息と食べ物の匂いが漂ってくる。子どもたちは脇へ追いやられ、熱心に立ち働くのは大人たちだけだった。

 ママとおじいちゃんは、いまごろ仙台で会っているにちがいない。明日、家へくる予定のおじいちゃんがパパとママの仲介役となって動いてることを恵は知っていた。ママはあゆみさんとも連絡をとっているようだし、直接そのことについて喋らなくても週に一度は家に電話がかかってきて恵は近況を報告した。パパとママが声を交わすのはまれであったけれど、おじいちゃんを経由してお互いの言い分を述べ合った。そこで二人は決まって子どもたちが生きがいだと口をそろえるのである。

 パパによれば、地元に帰ってからママはオルタナティブ・ネットワークというボランティア団体に加わり、有機野菜やエコロジーグッズを広める部門で働いているとのこと。あとで本人からも聞かされたが、先週パンフレットといっしょに段ボールに入った野菜の詰め合わせセットが送られてきたのはそれを定期的に注文せよというシグナルらしい。「新しく打ち込める活動ができてよかった。お互いこれぐらいの距離があったほうがいいんだろう」と中身をあらためながらパパは言った。

 恵はささいなことで口を尖らせた。その野菜を『連の会』事務局へ持っていき、鍋かサラダにしてみんなにすすめようとパパが言いだしたからだ。

「ずるいよ、パパ。わたしたちだって食べたいもん」

 パパは呆気にとられた顔つきをした。

「当然じゃないか。恵は、これを全部パパが持ってっちゃうとでも思ったのかい?」

 早とちりしたみたいで恵はうつむく。

「せっかくママが送ってくれたものを、子どもたちに味合わせないでそんなまねするわけないさ。パパも見くびられたもんだなあ」

 その夜は寄せ鍋だった。家族三人で食卓を囲みながらパパは再び、仙台へ行ってからのママが生き生きとしはじめ、人間としてお互いに尊敬しあい、双方のボランティア活動にとっても前向きな結果をもたらすにちがいないと語った。恵はあいまいに相づちをうつばかりで、徹は箸をつつきながらおいしい、おいしいと連発するだけだ。

「じゃあ、おじいちゃんは明日、なにしにくるの?」

 恵は疑問に思ったことを口にしてみた。

「おじいちゃんがあいだに入ってくれたおかげでパパもそれに気づいたんだ。未来への、愛のキューピッドみたいなもんだな」

「……マジ?」

 徹がふともらし、その場は静まったものの恵が頭を小突くとパパは苦々しく笑った。


 どよめきが聞こえてきた。

 恵は眼下の人だかりに目を凝らす。準備のととのったパーティ会場の片隅で阿久津敏くんが尻もちをついていた。その前で徹がファイティングポーズをとったまま相原隆昭くんから羽交い絞めにされている。パパがそこへ駆けてきて敏くんの様子を見たあと、徹を会場の外へひっぱっていく。

「覚えてろよ!」

 そう叫んだのが徹だったので、恵は身を乗りだしてもう一度場面を確かめようとした。床に倒れていたのは敏くんであり、徹から蹴られたのだろうが痛そうに股のあたりをさすっていた。とすればいまの捨てぜりふをはくのは逆のはずだが、そうでないのは原因が敏くんの側にあり、徹のキックごときで追いつかぬほどの諍いがあったにちがいない。手すりから離れた恵は階下のロビーへ向かった。

 パパと徹の姿はどこにもない。会場へ顔を出してみたがみんな散り散りとなって騒ぎの跡形はなく、パーティの招待客が集まりはじめている。敏くんはけろっとした顔で妹の祥子ちゃんと連れ立ち、卓に並ぶケータリング料理を眺めていた。あと十分ほどではじまる予定だった。あちこちまわったあげく恵は以前ママを見つけた二階の応接室へ行ってみた。

 ノックしようとしたらドアが開きパパが出てきた。恵と顔を合わせ驚いたふうだ。

「やっぱここだったんだ」

「あ、恵か」

 片手に何か黒いものをつまんでいる。

「なにそれ?」

「ん、なんでもないよ」

「なんでもないってことないんじゃない」

「よくわからないんだ」

「そういうのをよくつかんでられるね」

「徹は、トカゲのしっぽだと言ってる」

「な、なんでそんなのを」

「でもパパはそうでないと思う」

「じゃあ、なんなの?」

「なんかの干物じゃないかな」

「食べ物なの?」

「まだ、よくわからない」

「さっきのケンカの原因がそれなんだ?」

「そうそう」とパパはドアをからだで押しあごをふる。口をへの字にした徹がソファに腰かけ、ひざの上に例のブリキ箱を抱えていた。「朝あんなことがあったばかりなのに、敏くんに自慢するためわざわざあれを持ってきて、離れたすきにこの干物を入れた入れないで言い合いになったらしい。あれを見せびらかすのも信じられないが、豪華な料理が待つパーティのまえにどうしてこういうゲテモノで争うのか、パパはまったく理解できない。恵もよく見張っててくれ」

「こりないね。でも見張るといったって、あれを持ってきたなんてわたしも全然気づかなかったんだから無理」

「明日おじいちゃんに確かめるが、もし生薬だとしたらもったいないったらありゃしない」

「そういう問題じゃないと思うけど……」

「おっと、こんな時間だ」とパパは腕時計を見た。「あいさつがあるから先に行くけど、ともかく徹にはよく注意しといてくれ」

 ひからびた正体不明の黒いものをつまんだままパパは廊下を歩き、階段を上っていった。遠ざかる、そのひょうひょうとした後ろ姿に違和感を覚えないでなかったが、振り返って部屋のなかで微笑んでいる徹を見たとき、恵はくらくらするようなめまいを覚えた。自分がこの身内であることにほとほとイヤになる。

 徹がやっと口を開いた。

「お姉ちゃんは、あれなんだと思う?」

 知るわけねーだろ、と言ってやりたかったがぐっとこらえる。恵にとってはトカゲのしっぽだろうとドクダミの葉っぱだろうとサルノコシカケだろうとミミズのかす漬けだろうと、ラッキョウの瓶詰めと同じなのだ。

「きっと宇宙人のウンコだよ!」

「うわっ、おもしろくな~い!」

 はしゃいだその言い方にむっときて首を絞めてやる。すると徹はポケットからベーターカプセルを取り出した。ウルトラマンに変身するつもりなら、こっちだってセーラームーンとなっておしおきしてやる。久しぶりのきょうだいゲンカだがかまわない。ソファの上で熱中していたので二人ともだれかに見られているとは気づかなかった。

「エッチよねえ」

 そうつぶやいたのは祥子ちゃんである。からだを絡ませあい、足ばさみされた恵とヘッドロックされた徹はそのままの格好でドアのほうを見つめる。

「お父さんとお母さんも裸になってよくやってるけど、小学生のきょうだいがそれをやってるの、あたし初めて見た。お兄ちゃんは男のお友だちとばかりだし、中学生にならないと気持ちよさがわからないんだと言ってた」

 目をしばたかせるばかりで恵と徹は声が出なかった。

「あたしも入れてほしいな」

 祥子ちゃんと妙に色っぽい表情をした。恵は徹のからだを突き放し、あわてて答える。

「あんた、勘違いしてる」

 起き上がりながら徹も言った。

「きみんち、変態一家じゃないの」

 祥子ちゃんはフフフと意味深そうに笑った。

「『境界線上のアリア』出版記念パーティへようこそ。早く行かないとおいしい料理食べそこねちゃうよ」

 恵は徹と顔を見合わせる。いろいろな思いが交錯してなにを喋っていいのかわからなくなってしまう。遠くからサイレンの音がした。だんだん天気が悪くなるらしく窓の外は陽が陰り、風の吹きすさぶ音が部屋のなかに聞こえてくる。徹は床に転がるブリキ箱を拾い、祥子ちゃんを無視するようにそのなかを調べはじめた。クッションを元に戻し、恵がソファやテーブルの位置をととのえていたときパーティ会場のにぎやかな響きが部屋に入ってきた。いつのまにか祥子ちゃんの姿が消えていた。

「さあ行こうよ」と恵は徹をせかした。

「あのきょうだいの近くに行きたくない。イカレてるもん」

「あんた、他人のこと言えないよ。あの子たちは成績が優秀だっていうから負けてるかもしれない」

「勉強のこと持ち出すなんて卑怯だぞ。パパやママみたいな言い方するなよな」

「そんなつもりないけど日ごろの総得点かも」

「ああいうやつらにかぎってうまい汁を吸うんだ。ぼくなんか乾物ばっかりだもん」

 そう言うと徹はブリキ箱のふたを開け、その匂いをかいでうっとりとした顔になる。

「またわけのわかんないことやってる。さあ行くよ」

 恵はもさっとしたその頭を小突くまねをして立ち上がる。と、さっきから鳴っていたサイレンがはっきり聞こえ、建物の近くで止まったようだった。窓から覗くと敷地に救急車が停まっているのが見え、さらに複数の、そしてパトカーのサイレンも聞こえてくる。いやな胸騒ぎを覚えた恵は「おいで」と徹の手をひき、ホールへ走った。

 パーティ会場は騒然としていた。すでに階段やロビーでも多くの人があわてふためき蒼白な顔で動きまわっており、のどを押さえたり背を叩き合ったりする姿があった。会場でマイクを持ったパパが客を落ちつかせようと叫んでいたが、それより恵は床の上に横になったりはいつくばったりする何人かに目がいき、そのなかに敏くんを見つけた。食べたものを床に吐き散らし口から泡を吹いていた。同様の光景があちこちあり、恵はとっさにパーティの料理にあたったのだろうと察したが、だれかの砒素だの青酸だのという声を聞き何も口にしていないにもかかわらず吐き気を催すような不安を覚えた。救急隊員が症状の重そうな人から担架に乗せ、それでまにあわない人たちは身近な人に抱えられたり背負われたりして一階へ降ろされる。恵は徹の手をひきパパのもとへ駆けたが「控室へ戻ってろ」と怒鳴られ、さっきの部屋へ向かう。徹は黙りこくったままからだを震わせていた。

 ずいぶん長くそこにいたような気がする。二人とも無口なままだった、恵が窓から何台もの救急車が出たり入ったりする光景を眺めるうち徹はソファで眠ってしまい、独りぼっちで静かな室内をうろうろした彼女自身もいつしか弟と並んで眠りに落ちていた。

 パパに肩を揺らされ、目を開けてもそこがどこかすぐにわからなかった。徹も同様だったらしく目をこすりながら「おはよう」と寝ぼけている。恵はパパの険しい顔を見つめた。

「さあ行こう。病院で検査するんだ」

 窓の外は真っ暗だった。


 翌日、恵と徹は学校を休んだ。からだに異常はなかったが精神的ショックが大きいと気づかわれ、ニュースで事件を知ったおじいちゃんから朝いちで東京へくると連絡があったからだ。ママは迷ったあげく仙台で待機するそうだ。徹夜で駆けずりまわったパパは朝から警察に呼ばれていた。これまでに二十三人が急性中毒で入院し、はっきり原因がわかったわけでないが、昨日のパーティで出されたシチューになにかしらの毒物が紛れ込んでいたらしく専門家が分析中とのことである。

 今朝になって一人が亡くなった。阿久津敏くんだった。恵はそれを聞いても考えることがいっぱいありすぎて感情や思考がショートしてしまったようだった。起きぬけのせいか徹はあいかわらずぼうっとした顔でその知らせを聞き、うわの空でテレビを見つめる。パパは二人にやさしくことばをかけて出かけたが何を話したか覚えていない。おじいちゃんがくるまで恵は自分の部屋に閉じこもり漠然と机に向かい、徹はテレビのスイッチを入れっぱなしにしリビングルームと自室を行ったり来たりした。

 退屈というわけでなく何かを待っているわけでもないのに時間は遅々として進まない。新鮮な空気を吸うつもりで窓を開け、青い空と冬の風に揺れる向かい側の団地の洗濯物をちらっと見たものの、寒かったのですぐ閉める。仕切りの向こうでごそごそしていた徹は、冷たい風が入ってくると必ず文句をたれるのに無言で部屋を出ていった。恵は学校を休んだことを後悔した。机に向かっても何もする気になれず、授業に出てればこんなに途方にくれてしまわないだろうと思う。

 おじいちゃんは午前十時すぎにやってきた。途中で薬局に寄ってきたせいで遅くなったという。鎮静やら抗菌やら解毒やらの効果があるという漢方薬の入った袋を手に持ち、ショルダーバッグのなかには京都名物生やつはし、それに仙台名産笹かまぼこが入っていた。おみやげを喜んだのはむろん徹だけである。

「みんな食べられるものばっかりだ。おじいちゃん、見る目があるなあ」

 恵は苦笑した。こんなもので感動できるとはおめでたいやつである。おじいちゃんは孫が元気でうれしそうである。

「おまはんらが喜んでくれてわしもほっとした。そや、ちょんまげ健さんからも預かり物があった」

 おじいちゃんはバッグの奥をごそごそやる。恵はいやな予感がする。

「これやこれや」

 おじいちゃんは箱を二つ取り出す。弟に差しだしたそれの中身はつやつやしたちょんまげだった。徹はさっそく頭にかぶり得意がっている。もう一方の包装をほどくと、いちご味、みかん味、りんご味など色とりどりの糸引きアメである。恵は思わず懐かしそうな声を上げてしまった。

「どや、気に入ったか。おまはんらが並んで撮ってもらった写真、そんときの思いでの品や。あんな仲がええきょうだい見たことないいうて、健さんも感心しとったで」

 恵は気分がふさいだ。徹は遠い日々を思い返すように目を細めている。

「健さん、元気に活躍してるかなあ」

「ああ、あいかわらずの張り切りぶりや。こないだも湯どうふと茶だんごの大食い競争で一等賞になったんやで。めし代が浮くとか大喜びやったわ」

「すっげえ。さすがちょんまげ健さんや」

 徹のはしゃぐ横で恵はひそかに思う。いったいどこがすごいのだ。元気にはちがいないがそれを活躍というだろうか。いや絶対にそんなことないはずだ。

「健さん、仕事のほうはどうなの。チャンバラチーム『けんもほろろ』ってまだやってるの?」

 恵はそれとなく質問してみた。

「ああ、いま『うなぎのぼり』っていう居酒屋チェーンでアトラクションをやっとる。ずいぶん人気を呼んどるらしく、社長から直々に表彰状が出たうえ特別ボーナスまでもらったそうや」

「すっげえ。さすがちょんまげ健さんや」

 たしかに活躍しているようだ。どこかおかしいという気もするが、京都で学んだのはみっともなくてもすじ違いであっても予想を上まわる展開だったと思い出した。先のことを想像して選択肢を並べてみてもどれひとつとしてあてはまらず、うらめしくなるような事実のなかにヒントがあった。居間に立ち、ざらめをまぶした糸引きアメをしゃぶりながら恵は黙っていた。今回の事件についてももっともっと考えてみなければいけない。

 ふと耳を傾けると徹が昨日のできごとをおじいちゃんに説明しているようである。おじいちゃんにしたら大きな事件に巻き込まれた子どもの話を聞くカウンセリングみたいなもので、孫たちの気持ちを落ちつかせ、なまなましい記憶から心のわだかまりを取りのぞくつもりなのだろう。恵はくりかえし話をするのがいやだったので「宿題があるから」と言って自室へ戻る。そもそも今日、おじいちゃんがここへやってきたのは別居中のパパとママのあいだを取り持つためだった。

 お昼は出前となり、おじいちゃんはてん丼、徹はいくら丼、恵はかつ丼にした。食べおわるとおじいちゃんは居間と台所のあいだを行き来し、用意した生薬を調合して子どもたちに無理やり飲ませた。かなり苦く臭いものだ。念のためというが、おじいちゃんの安心のためにはいちばん効き目があるのだろう。

 一度だけパパから電話があった。長々とおじいちゃんと話し、徹には細々とした注意ごとを言いつけ、恵が受話器をとったとき心なしか声がかれていた。

「だいじょうぶか」

「うん」

「今夜は思ったより遅くなりそうだ」

「何時ごろ?」

「そうだな、九時すぎには帰れると思う。夕食は先に食べて平気だから」

「わかった」

「おじいちゃんの言うことをよく聞くんだぞ」

「うん」

「徹がまた変なものを口にしないよう気をつけるんだよ」

「うん」

「もう一度、おじいちゃんとかわってくれ」

 心配してるわりにパパのほうが疲れてるみたいだ。事件のことでいろいろあるのだろう。その後の経緯とか、『連の会』や阿久津家の様子も訊いてみたかったがさしさわりがあるような気がした。夜になれば詳しく教えてもらえるはずだから、いまのうち宿題をやっておこうと恵は部屋に戻りドリルを開いた。しかし食後の薬が効いたのか半ページも進まないうちに昼寝をしてしまう。

 机にうつぶせで眠ったため、よだれがたれて首すじが痛い。まだ三時にもなっていなかった。ティッシュで口をぬぐい、首を片手でもみまわしながら恵は洗面所へ行く。家のなかはやけに静かである。リビングを覗くとおじいちゃんが腕組みをしたまま上半身を揺らしている。「なあんだ」とつぶやいて弟の部屋へ顔を出してみると、ちゃっかりパジャマに着替えた徹が寝息を立てていた。

 恵は音をたてないよう台所でココアをつくる。マグカップを持ち、そっとリビングを通り抜けようとしたときおじいちゃんが声をかけてきた。

「なんやそれ」とひざかけをたたみながら恵のほうを見つめている。

「このココア?」

「ほうや。ちょっと貸してえな」とカップをとり、その匂いをかいで口をつける。

「やだ、汚い」

「甘いな、これ」とさらにひと口すする。

「人のを横取りしないでよ」

「毒味したんや。もう一杯、つくったらええ」

「自分でつくったらいいじゃん」

「そやかて、わしが口をつけてしもうたんやで」と恐縮した気配はみじんもない。

 こういうところも遺伝なのだろうか。恵はもう一杯つくるとさっさと部屋へひきあげ、手持ちぶさたに周囲を見つめる。このままでは自分がどんどんダメになっていく気がする。デイパックにドリルと筆記具を入れ、ダッフルコートをはおり、おじいちゃんに声をかけた。

「塾へ行ってくる」


 すでに夜の九時を過ぎている。駅からの帰り道を歩いてきた恵は団地を見上げた。暖かそうな明かりが郊外の冷気のなかで寄りそうように浮かんで虫の集団みたいだ。そこにもドラマがあるはずなのに遠目からはけなげに美しく見えてしまう。帰るところはやはり巣しかないと思うと複雑だ。ママのように脱出したとしてもべつの巣へ帰るだけだろう。団地だろうが豪邸だろうが関係ない。

 塾はおもしろくもつまらなくもなかった。時間はあっというまに過ぎたが家にいるときのようなのんべんだらりとした快感はない。それぞれが事情を抱えるうざったさは感じるもののはっとするような混沌はない。だから家族がいちばんというつもりはないけれどどうしてこうもむかむかするのか。

 パパはもう家に帰っているだろう。エレベーターのドアが閉まろうとしたとき四、五歳の男の子を抱く父親らしき人が乗り込んできた。恵に「すいません。三階をお願いします」と言った。そして男の子を床に下ろし、「いいか、ママにちゃんとあやまるんだよ。パパがいつも迎えにいけるとはかぎらないんだから」と頭をなでる。恵が見ると男の子は恥ずかしそうに父親の陰に隠れ「パパのバカ」とつぶやいた。つい先日、恵もそんなつぶやきをもらしたはずだ。四階の廊下へ出て、自分が歩いてきた夜の町並みを眺めた。

「ただいまあ」

 と勢いよくドアを開けたものの返事はなかった。玄関にパパの靴があり、リビングからテレビのバラエティ番組らしい笑い声が聞こえ、ちかちかまたたく光が見えた。すきやき鍋の匂いが漂ってくる。自分の部屋へ直行した恵は、かばんを下ろしコートを脱いで机の上を整理してから居間へ向かう。気になって徹の部屋を覗いたが暗くひっそりしている。

 リビングから突然、ウルトラマンの主題歌が聞こえてきた。何かはかられているのでないかと恵は頭をめぐらし、慎重に廊下へ顔を出す。テーブルにはすきやき鍋と伏せたままの茶碗があり、まだ夕食をすませていないように見える。「ただいま」ともう一度小さな声で言うと「ムフッ、フアッ、シユッ…」と得体のしれない声がした。なんだかバカらしくなって恵は床を鳴らして居間へ踏み込んだ。

 思わず腰を抜かすところだった。寝室とのあいだにウルトラの父、ウルトラの祖父、ウルトラの子供がそろって腰に手をやり、並び立っている。

「パパ…、おじいちゃん…、徹…」

 恵が力なく声をかけても、三人は「ムフッ、フアッ、シユッ…」と発するだけである。

「もう、いいかげんにしてよ」

 そう言う恵をウルトラのパパがじろりと見つめた。

 周囲を見まわした恵は、テーブルの上に薬草の切れ端とベータカプセルが置かれているのに気づいた。背後にある寝室にはふとんが敷かれている。

 ウルトラのパパがベランダのほうを指さした。恵が振り返ると窓ガラスに目をらんらんとさせた三人の顔が映り、その向こうに星のようにきらめく夜景がある。もっと確かめようと恵がそれを開けたときだった。

「シュワッチュ…」

 駆け寄った三人が次から次へと夜空へ飛び立っていった。


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