【体験談】10年前に東北大震災を修学旅行中に経験し、命からがら逃げ延びた話
こんにちは、Hazuki-葉月-(@August742Leaf)です。
このnoteでは、2011年の3月11日、中学3年生だった私が修学旅行中に宮城県松島町の海岸近くで東北大震災を体験し、そこから同級生と共に命からがら地元・北海道に戻ってくるまでの話をしようと思います。
今回このNoteを執筆しようと思った理由についてですが、震災から10年が経ち、既に記憶が曖昧な部分があったり、忘れかけていることがかなりあるように思いました。
私がこのNoteを執筆している2021年2月も福島周辺で震度6強の強い地震がありましたが、日本で生活している以上はこのような天災に見舞われるリスクは常にあるという気構えと、あの震災をものすごく身近に経験しながら今生きていることへの感謝の気持ちを込めて書かせていただいております。
※「なんでそんな時期に修学旅行なんてあるんだ?」という疑問の方のためにお話しをしておきますと、私が当時通っていたのは中高一貫校で高校受験の心配がなかったため、その時期の修学旅行のスケジュールが組み込まれていたというわけです。
さて、私が震災を体験した松島町と言えば、かの松尾芭蕉が「おくのほそ道」にて訪れた際に「松島や〜」と詠ったとされ、日本三景の一つに数えられるほどの絶景でありますが、巨大な津波を受け、多くの被害者を出して当時多くのメディアから取り上げられた石巻市のすぐ近くにあることからも私たちが当時、非常に危ない状態であったと感じています。
ここから本題に入っていきましょう。
※もし私の当時の同級生や関係者の皆様がこのNoteを読んでいただいて、私の記述に誤り等がございましたら訂正いたしますので、こっそり連絡ください汗
※サムネイル画像はWikipediaより引用いたしました。
松島で地震に遭遇するまで
2011年3月11日。
あの日。修学旅行中だった私たちは午前中のうちにバス移動にて前泊していた福島県を後にして、宮城教育大学で何かしらの研修を受けていました。
研修の内容は全く記憶がありませんが、確か研修が終了したあと、そのまま大学で弁当を食べてしばらくしたのちに、松島に移動したという流れだったと思います。
松島に到着しバスを降りて、しばらくみんなで広場の方に向かって歩いていると左側には海岸が広がっていましたが、当日はあいにくの曇天であまり良く景色が見えませんでした。
雪もちらほらと降っていて、3月でありながら未だに春の訪れにはしばらく時間がかかりそうな雰囲気でした。
とはいえ、海岸の景色以外にも売店など見て回る場所はいろいろありました。
担任の先生から集合時間や注意事項の確認などのお話があり、「さぁてこれから自由行動だ!」というタイミングで足元から何かグラグラするものを感じたのです。
午後2時46分のことでした。
とにかく長く、強く感じた地震
それが地震だとわかるのにそこまで時間はかかりませんでした。
地震は確かに大きな揺れが伴っていましたが、これまで経験してきた地震のように「長くても30秒から1分くらいだろうなぁ」などと軽く考えていました。
が、皆様も覚えているかもしれませんが、そんな甘いものではありませんでした。
揺れはどんどん強さを増していき、最初はサッカーやバスケットボールなどで守備をしている時のように腰を落として踏ん張っていましたが、やがてそれすらもままならず、完全に地面に手をつき、しゃがみ込まなければなりませんでした。
ここで体験した地震は私がこれまで経験してきたどの地震よりも強く、長いものでした。
実際に東日本大震災はマグニチュード9.0という日本の歴史上でも最大規模の規模を観測し、揺れも160秒以上も続いたとされていますから私がここでお話ししていることは何も極端なことではないと思っています。
しゃがみこんでからも地震はしばらく続き、私の後ろでは広場の地面にヒビが入り、液状化現象が発生して隙間から液体が流れ出していました。
視線を前にやると瓦屋根の建物の瓦が割れて、屋根の上で飛び跳ねているような状態でした。
ようやく揺れが収まったと思ってあたりを見渡してみると、信号は止まっているし、民家の瓦は割れているし、呆気にとられてしまいました。
「どれくらい続くんだろう」と不安が募っていくうちに、揺れが収まりました。
あたりを見渡すと停電して信号が真っ暗になっており、先ほどの地割れや瓦の崩れも夢ではないということを悟り、一瞬だけあたりが静まり帰りました。
間も無く誰が切り出したか覚えていませんが、私たちが言葉を交わすまでもなく、「早くここから逃げないと危ない」ということは本能でもわかる状態でした。
先ほど来た道を迂回して、歩道からバスに駆け足で戻っていきました。
歩道もマンホールがある部分を除いて全て凹んでいるような状態でしたので、ほとんど縁石に乗って進みました。
みんなで急いでバスに乗り込み、先生が点呼を取り全員がいることを確認して、すぐに出発。松島を後にしました。
逃げる途中、松島海岸はこれからやってくる津波の大きさを示すかのように、ものすごい勢いで潮が引いていったのを覚えています。
今から思い返してみれば、自由行動の散策になる直前で地震が起こったのはかなり運が良かったです。
自由行動後でしたら、みんなバラバラになって避難が遅れていたと思いますし、そうなっていたら今これを書いている私の命があるかどうかもわかりませんでした。
その日の寝床を確保
幸いなことに地震直後にバスに乗り込み松島海岸を出ることができた私たちは津波を避けるように山側へ向かいました。
地震とともに信号も止まってしまったため、車両がお互いに譲りあって道を進んで行きました。
しばらく進んだのち、利府町にあった駐車場の広いコンビニにて停車し、しばしの休憩と先生方によって状況確認が行われ、今後の対応についてなど話し合ったものと思われます。
地震直後は皆パニック状態で、中には大泣きしてしまった同級生もいましたが、ある程度冷静さを取り戻し、励ましあったりしてショックから立ち直っていくことができました。
修学旅行中は携帯電話の使用が旅行前のルールによって使用が禁止されておりましたが、そんなことも言ってられない緊急事態となってしまったため、各自家族と連絡をとるように促されました。
そうは言っても基地局の停電などが重なったこともあり、私の携帯電話も繋がることはありませんでした。
また、私が通っていた高校は割と制服の着こなしにはそれなりに厳しい学校でしたが、先生公認で着崩されていたのが記憶に残っています。
私も制服のネクタイを外し、動き易い状態で過ごしておりました。
当日私たちは山側にある青少年自然の家に宿泊する予定でしたが、そもそも向こうが私たちを受け入れる体勢が整っているかもわからない状態でそちらの方角に進んでいました。
幸運なことに自然の家側は私たちの宿泊を受け入れていただけるとのことでしたので、その日は予定通りそこに宿泊することになりました。
途中、消防署か自衛隊の駐屯地のような所でしばしのトイレ休憩をさせていただきましたが、そのような所でも電波が安定せず、テレビの映像も途切れ途切れの状態で状況が逼迫していたことが伺えます。
時間が経つにつれて日が暮れて行きましたが、もちろん信号は復旧せず、真っ暗な状態です。
そんな状況であったため、交通事故を避けるべく、バスの車両の灯りを頼りに速度を落とし、非常にゆっくりと移動して行きました。
そんなわけで私たちが青少年自然の家に着いたのはかなり夜遅くのことでした。
青少年自然の家に到着すると、従業員さんが迎え入れてくれました。
従業員さんにも心配すべき家族や友人がいるはずで不安いっぱいだったと思いますが、そんな表情を一切見せずに中を紹介してくれたのです。
本棚から本が無造作に散らばっている状態で、停電は復旧せず、非常用電源のみのわずかな灯でしたが、私たちにとっては雨風を凌げ強い安心感をいただける環境でした。
部屋を紹介され、中にある2段ベッドの寝床を確保しやっと一息といったところです。
ようやく携帯が繋がり始める
荷物を下ろした私は当時のガラケーの携帯電話を開き、電波を確認すると未だに繋がるか怪しいと言った感じでしたが、ダメもとで実家に電話をかけました。
大体20時を過ぎたあたりの時間だったと思います。
地震直後は全く電波が繋がらずアタフタしていましたが、無事家族と連絡をとることが出来ました。
手短に「とりあえず無事です」とだけ報告して電話を切りましたが、一つ連絡を入れることができたことでまた一つ不安を取り除くことが出来た気がしました。
周りの同級生も家族と連絡を取ろうとしていましたが、携帯画面に表示されている電波をお互いに確認し、docomoは電波が3つ立ち、auは1つ、そしてSoftBankは未だに圏外と、当時の電波状況を露骨に理解することが出来ました。
その後、地震後の情報を収集するため、携帯の充電もままならない中で貴重な電池を使ってワンセグでニュースを見ましたが、津波で建物や車、人が流されている様子が映されていて生々しく写されていました。
正直、一安心とばかりに気が浮いていましたが、かなりゾッとしました。
私たちが地震を受けた時は松島海岸にいたのです。
繰り返しになりますが、その時思い返してみれば、ものすごい勢いで潮が引いており、ちょっとでも躊躇してあの場所に止まっていれば私たちも同じ様な目になっていたかもしれません。
そんな最悪の状況に見舞われることにならなかったのは不幸中の幸いでした。
そして改めて気を引き締めて、いつ充電できるかもわからない携帯の電源を切ることにしました。
夕食はハム1枚とようかん3分の1個
私たちが一息ついていると、各クラスのHR長(ホームルーム長、学級長みたいなポジションです)が先生方に呼び出され、段ボール箱を一つ持って戻って来ると集合するように促されました。
そこで私たちが受けた話がかなり衝撃的なものでした。
HR長が持って来たダンボール箱の中には、パンからお酒のつまみのようなスルメ、ポテトチップスにチーズなど無造作に食べ物が入っていたのです。
「これでみんなで数日間乗り越えて欲しい」とのことでした。
これは先ほど止まった利府町の電気もついていないコンビニで、その後の状況を危惧して先生方がポケットマネーで買っていただいたありったけの食料です。
ありったけと言えど数十人いる育ち盛りの学生にとって何日分の食料となるかもわからない状態です。
実際これだけの食料で、どれくらい過ごせるのだろうか?
そもそも無事に家に帰り着くまでにどれくらい時間がかかるのだろうか?
当時は不安で仕方がありませんでした。
例えとしては不適切かもしれませんが、戦時下における「配給食料」のような印象を抱いてしまったことは否めません。
とはいえ、地震の後、何も食べていなかった状態の私たちにとって、食べられるものがあるだけもありがたい話です。
(もちろん戦争を経験していない平和な場所で暮らしていけるのもありがたい話です。)
限られた食料をクラスメートと分け合って食べる他に選択肢はありません。
まず私の手元に渡されたのは、お酒のおつまみのような生ハムでした。
それを1枚取って食べました。
次に、セブンイレブンなどで売っているような100円の羊羹を一口だけ食べて、クラスメートに回しました。
およそ3分の1くらいだったと思います。
ハム1枚と羊羹3分の1。それがその日の夕食でした。
普段であればもちろんそれでお腹が膨れるわけがありませんが、この状況下でそんなことを言ってる余裕もありませんし、そもそも緊急事態でアドレナリンが出ていたからか、ご飯が足りないと思いつきもしませんでした。
僅かばかりの食事を終えて、寝る準備に入りましたが、その際にもかなり強め(体感で震度4〜5弱)の余震があり、多少の不安は残り続けていました。
3月の東北はまだ寒さが残り、備え付けの暖房も一切動くことはありませんでしたが、雨風が凌げるだけでもかなりマシな状態であり、着られるものを着て布団に入りました。
非常電源がついた状態で寝付けも良くありませんでしたが、なんとか眠りに着くことが出来ました。
バスに乗り続けてひたすら北へ
2011年3月12日。
被災した翌朝、起きてみると「まだ自分たちは生きている」という束の間の安心感と、「やっぱりこれは夢じゃなかった」という諦めにも近い感覚が残っていたのを覚えています。
この時の状態を整理すると、本来であればこの日が修学旅行最終日で、仙台空港から飛行機に乗って北海道に帰ってくる予定でした。
が、地震や津波の影響で海側に面している空港が水没してしまいフライトの目処が立たなくなってしまいました。
更に東京側に逃げるとしても原発に事故が発生したばかりで状況が全く不明な福島を経由しなければならず、避難経路としてはあまりにリスキーでした。
となると、選択肢は一つしかなく、それは乗ってきたバスに乗って北海道に向けひたすら北上すると言うことです。
そんなわけで私たち一同はバスに乗り込み、宮城県からひたすら北を目指すことになりました。
道中でいろんな人に助けてもらいました
その日は結局、宮城から8時間以上かけて秋田へ移動し、たまたま受け入れてくれた旅館に泊めていただくことが出来ましたが、道中ではいろんな方々に助けていただきました。
Google mapで確認すると本来であれば宮城から秋田へは車で3-4時間くらいの移動で到着できるようですが、およそ倍くらいの時間がかかったと言う計算になります。
徐々に復旧していったとは言え、信号ですら電気が安定せず、車で避難する人が激増し、渋滞がものすごい状態であったので仕方がなかったと言う状態でした。
運転手さんもガイドさんもご自身の家族が被災されている中で職務を続けられ、私たちが不安にならないようにと度々励ましをいただきました。
印象に残っているのはバスのガイドさんが暇つぶしにとバス内のモニターで映画を映してくれたことです。
そこでたまたま実写の釣りバカ日誌を見せてくれたのですが、とあるシーンの中でよく晴れた美しい松島の風景が映し出されており、何とも皮肉だなと思いました笑
私が被災した当日はあまり天気が良くなかったってのもありますがまたいつか戻って見てみたい気持ちが今でもあります。
また、昼が暮れた道中、休憩のために寄ったイオンでのお話しもここでしておきたいと思います。
もともとはトイレ休憩のためだったかとは思いますが、ほとんど誰もバスから降りなかったのが印象的でした。
私は普段から人よりもトイレが比較的早いと自覚しておりますが、人間、1日ほとんど何も口にしていないとそもそも出すものが無いため、トイレにも行く気が起こらないんだということも体験しました。
しばらくバスの中で待機しているとなんとイオンのお店の方が、私たちのために食料を譲ってくれたのです。
駐車場には食料はもちろん、避難用品などを求めてか、たくさんの人がごったがえしておりましたが、そのような状態の中で貴重な食べ物をいただけたことには感謝しかありません。
私たちもほとんど食べるものが無く、昨日の夜の僅かばかりの食事以降、朝昼と何も口にしておりませんでしたので、大変助かりました。
誇張でも無く、あの時食べたランチパックほどありがたい食べ物を私は未だに経験しておりません。
秋田にて滞在した旅館にしても、宮城県や福島県ほどダメージは大きくはなかったと思いますが、いきなり修学旅行中の大人数をほとんど飛び込みの状態で受け入れていただいたわけです。
おまけに食事までいただけることができて、昨日懸念していた食料の問題を一気に解決することまで出来ました。
繰り返す様ですが、3月の東北地方と言う寒さの残る季節において雨と風を凌げる場所で寝られると言う、普段であれば意識もしないようなありがたみをひしひしと感じることが出来ました。
また、励まし続けてくれたり、持っていたカードゲームなどで時間潰しに付き合ってくれた同級生や、未曾有の事態でありながら私たちを引率して先生方も含めて多くの方の支えがありました。
現在でも心の底から感謝しております。
この時はまだ家に帰り着いたわけでもありませんでしたが、かなり安心感を感じることができました。(安全であるかは別の話でしたが汗)
フェリーで北海道へ 自宅へ帰宅
※画像上の飛行機のルートは一切関係ありません。
2011年3月13日。
秋田にて一夜を過ごした私たちは昼の時間くらいまで旅館に滞在していました。
先生方がこれからのプランなどを共有するミーティングなどをしている間、私たちは部屋に待機しながら、ようやく電波の安定してきたテレビを付けて情報収集などをしていました。
まだスマホも普及していなかった頃で、ずっとテレビに釘付けになっておりましたが、どこの番組も地震や原発に関するニュースで持ちきりでした。
アナウンサーの方もヘルメットを被りながらのレポートで、緊張感が伝わって他のが印象的でしたね。
チェックアウトの時間も過ぎていそうな時間に私たちはバスにて大舘から男鹿半島へ向かい、その日の夜に出ている北海道・苫小牧行きのフェリーに乗りました。
ここまでの避難にかかった移動費、宿代、食費等の費用は後で補填があったかとは思われますが、ほぼ全て先生方のポケットマネーによるもので本当に頭が上がりません。
私がフェリーに乗るのは幼い頃、青森の曽祖母の家を訪れるために乗った時以来で、乗った瞬間は少々の懐かしさを感じるとともに、「やっと帰れる...」とひとときの間、落ち着くことが出来ました。
フェリーの中にはお風呂もありましたが、トラックの運転手と思われるものすごい体系に背中いっぱいに彫られている刺青をした方と同じ風呂に入ったり、洗面室で鏡を睨みつけるようにリーゼントを整えている方がいらっしゃったり、ある意味で緊張感のある乗船でもありました。
(私は現在本業で多くの運転手さんのお世話になっており、貶しているわけではありませんが、当時15歳だった私にとってあくまでその方々の見た目が少々怖かっただけです汗)
フェリーにて夕食と風呂を済ませて、多少のフリータイムがあった後は翌日午前3時頃、船が到着する予定だったので、さっさと寝ました。
次の日、日も登らないうちに目を覚まし、最低限の身なりを整えて船を降りました。
苫小牧の港に降りたった時は、校長先生を初めとした学校の関係者が迎えてくれており、それぞれの自宅付近までにの送迎バスが準備されていました。
ここで一部の同級生とはお別れです。
バスに乗って自宅付近の電化製品店にて降ろされた時、母親に迎えられてそのまま車に乗って帰りました。
まだ朝早かったので正直20分ほど歩いて自宅に帰る可能性も想定しておりましたが(笑)、親としてもとても心配だったに違いありません。
自宅に帰ってからの記憶は正直、ほとんど残っていません。
おそらくフェリーの都合で足りていなかった睡眠を補うため、そのまま眠りについたと思います。
おわりに
無事自宅に帰ってきた私たちは心身の回復にと1週間ほど学校側から臨時休校をいただき、そこから登校再開と言う流れになりました。
その頃には皆さまと同じようにテレビをつければ自粛された広告の代わりに「楽しい仲間がぽぽぽぽぽーん」とAC Japanの頭から抜けきれない広告を聞くことになりました笑
以上、ここまでが、私の体験談になります。
本文内でも触れさせていただいておりますが、ものすごい数の人たちの助けがあって無事に家に帰ることが出来、今もこうして生きてこのNoteを書くという機会を得られています。
私はたまたま生き残ることが出来ましたが、残念ながら亡くなってしまった方、今でも経済的、精神的なダメージを負ってしまった方など多数いらっしゃいます。
遺族の皆さまにお悔やみを申し上げると共に、生き残った1人としてこの命を大切にしていきます。
最後まで、画像もなければオチもない、ただの殴り書きと言っても過言ではないこのNoteを読んでいただきまして本当にありがとうございます。
2021年3月11日 Hazuki-葉月-
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