8-06「漫画『かぐや様は告らせたい 天才達の恋愛頭脳戦』について、あるいは、ラブコメにおける取引主義の帰結するところ
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「恋愛は駆け引きだ」という最も俗っぽい心理学的学説は、どんな世代でも経験的な説得力をもった主張だと思われる。駆け引き、まるで商人同士の取引のようにおこなわれる「押して(推して)引いて」のやりとりは、しかし「相手の気持ちがわからない」という点で、商取引のような、「平均的な価格」「相場」があらかじめ同意されている場合とは異なる。相手に対して無知であること、という一見ネガテイブでストレスのかかる状態が、恋愛という取引においては良く働くのだと思う。ありていにいえば、相手が何を考えているか、という点を丁寧に想像すればするほど、相手の人格を尊重することになるし、逆に自分がどのように思われているかを自分自身で想像するので、自分の行動を弁えるようになる。ただし取引というからには、際どいコースに速球を投げる必要もあるので、もっとも激しいひとたちのやりとりを聞いてみると、半ば戦いのような様相を帯びていく。
ラブコメ漫画と呼ばれるジャンルの美学はまさに、この「取引」における、人格を尊重する優しい調子と、競争や争いの様相とを過剰に表現することから成り立つように思われる。歴史的な形式もあるだろうが、私たちの最もよく知っている俗流心理学のデフォルメとみなした方が、わかりやすいと感じる。
赤坂アカが描く「かぐや様は告らせたい」は、副題「天才たちの恋愛頭脳戦」からも明らかなように、この「取引」を作品構造にも表層にも表現した作品である。主人公の2人、ミユキとカグヤは共に、偏差値77を誇る秀知院学園の生徒会に所属する。ミユキは生徒会長、カグヤは副会長であり、共に学年1位2位の成績を維持する。2人には出自において大きな違いがある。ミユキの家はさほど裕福ではなく、環境的に恵まれてはいなかった。彼は並々ならぬ努力をして現在の地位にのしあがったである。対してカグヤは、日本の産業構造を支える巨大企業の令嬢で、恵まれた環境のおかげもあって、芸事や勉学に秀でている、と言える。
このような天才2人が、天才的な頭脳を駆使して恋愛という取引を行う。その「高度すぎる」内容が我々の経験の斜め上を行くものであり、それがナンセンスでシュールなので、コメディとして成り立っているようである。
ところで、恋愛を「取引」とみなすことの一つの意義は、当事者間によって作られる空間に、ある種の「均衡」が成り立つ様子が見いだせる、という点かもしれない。「釣り合い」と呼んでもよいだろうか。上述したように恋愛における心理的取引は、相手の本心への無知によって、行動の基準が決定される。「押す(推す)」も「引く」も、無知ゆえの態度であり、それが当事者の行為の力場をつくる。そしてその力場は、そのつど最適な「予想」を形成し、それがまたフィードバックすることによって行動が修正さていく。最初のフェーズが終わった時、すなわち、お互いに「慣れ」が生じた時、そこには「均衡」、すなわち、プレイヤーAが可能な行動の範囲とプレイヤーBの可能な行動の範囲、そして、お互いの予想世界におけるそれぞれが取りうるであろう行動の範囲が決定される。もちろん恋愛の取引は、ゲーム理論のようにゼロサムゲーム的なモノではない。歪であり、かつ具体的なケースによって絶えず影響を受けながらも、同時に「これより外側」が存在しない、均衡状態が実現しているように思う。それが「相手への無知」によって実現されているのである。
(外側、という領域は、付き合うか、付き合えないか、の領域かもしれない)
いびつな均衡状態を「不均衡的均衡状態」と呼んでもよいだろうか。優位や劣位は必ずどちらかに宿るわけで、その意味で心のバランスは大きく傾いている。しかしながら「大きく傾いたまま」、「取引」が終了まで続いていくのである。
作品にもどる。カグヤとミユキはあの手この手を駆使して、取引を行う。例えば、それまでガラケーしか使ってこなかったカグヤがスマホを入手したとき、「既読」をめぐる、私たちの世代にとってなじみ深い戦略ゲームを行う。日頃からスマホに慣れているミユキにアドバンテージがあり、すなわち、カグヤは既読のシステムを理解していないので、「(2時間も既読にして、さらに新しいメッセージもすぐに既読されるのは)ずーーっと俺とのトーク画面を開いていたとしか考えられないんだが…」(単行本11巻)という直接的な際どい攻撃を行うこともできる。狼狽したカグヤであったが、機転を聞かせたメイドの早坂が、「(カグヤは)お嬢様なので、連絡事項はいちいち、使用人がすべて確認しております」と伝え、いままでのやりとりも全て見られていたと思いこんだミユキのほうが恥をかいた形になる、というエピソードがある。
こうした「取引」が示すのは、たえずポジションを変化させながら、しかし基本的には進展のない状態、均衡状態である。第14巻において、意を決したミユキが文化祭の最中に告白をする。カグヤもこの日に想いを伝えるつもりだったので、そこで成就したかに見えたわけだが、ここはまだ関係のクライマックスとはならない。カグヤのほうに「無知」のままで関係に突入することの罪悪感があり第15巻の終盤にならないと、「交際」という状態には発展しないのである。
第15巻は2人にとって重要だ。一度は成就したかに見えた関係が一度壊れてしまい、さんざん悩んだ挙句巡ってきたチャンスである。ここでカグヤの口から語れられる言葉は以下である。「好きな相手には自分を見せてほしものじゃないですか!(...)全てを分かち合って…全てを分かり合えたら…!そんな素敵なことはないと思うでしょ!?」カグヤにとっては、無知がもたらす取引的な均衡よりも、互いに開示すること、自覚によって取引を脱することに、恋愛の終局(この場合は交際)がある。
こうしたカグヤの願いは、大企業の令嬢として、絶えず戦略的に行動するように(ゼロサムゲームに行動の準則を従わせるように)教育されてきた過去に対する負い目によって、生み出されたものだ。言うなれば、あまりに「取引」に慣れすぎたカグヤが、取引の関係を降りて、純粋・無条件な「贈与」(返礼の義務がない贈与)に身を委ねることが、真実の関係のために必要だ、叫んでいるのである。対してミユキの意見は異なる。「好きだからこそ、弱い部分は見せられないものじゃないか?(...)もし相手の許されない要素を自分が持っていたら、とか思うだろ!」すなわち、無知であること、弁えて均衡状態を人工的に作ること、そこに経済的で市場的な関係を構成することこそ、2人にとっては重要な原則なのではないか、という主張である。これもまた、ミユキの環境が心にそう叫ばせたと言える。裕福ではなく、努力を方法からして自ら探すしかなかった彼は、カグヤと対等になるために行った全てを、知られてはならないと考えていた。私的労働を恥ずべき行為だと考える時代の人のように、彼は私的領域で行ったことを隠してこそ(それに対する無知こそ)、良い関係のための条件だと考えるのである。
恋愛状態の重要な点は、述べてきたように、この取引によって互いが忘我の状態にいたり、それによる無知が歪でありながらその形のままバランスを保つことにある。しかしながらどうやらその終局においては、カグヤとミユキ、お互いの出自や階級、育った環境によって形成された人格上の下部構造が露呈する。このようにして始まった新しい「対等」をめぐる取引の終局は果たして2人に幸福な状態を作ることができるのか。幸福はたしかに、ミユキのうったえるように、無知のヴェールをまとった2人の、柔らかな契約論的関係にあるようにも思えるのだが、均衡の形が変わってしまった時、どうなってしまうのだろうか。2人の物語の結末はラブコメという形式を超えて、私たちの現実の問題へと関係しているように思われる。