【1章1話】小説『葬送のレクイエム──亡霊剣士と魂送りの少女』
プロローグ
生者の世界を指し示す、金色の羅針盤。
死者の世界を指し示す、銀色の羅針盤。
時の砂時計は、生者の刻から死者の刻へとこぼれ落ち、二度と戻らない──……はずだった。
──ひとりの青年が、忘却の河を渡るまでは。
第1章 魂送りの少女
第1章1話 荒野の邂逅──声なき叫び
──あぁ……、やっぱりツイてないなぁ。
真っ黒い人垣となって、うごめきながらひとかたまりに迫ってくる人々の群れに囲まれ、少女はひとり、半泣きになっていた。
……ダメ。
腰を抜かしてる場合じゃない。
歌え。
腰を振って、踊れ!
それしか、この場を切り抜ける方法はない。
ガチガチと鳴る歯を食いしばりながら自分を奮い立たせても、萎えた足はちっとも動かない。十四年間の短い人生が、脳裏を走馬灯のように流れていった。
こんなことなら一回ぐらい、町で友達とショッピングとかしてみたかった。普通の女の子みたいに。誰の目も気にしないで。
……あぁ、でも。でもね?
せめてこれが大きな街の舞台女優だったらって思うんだよ。
黒い人垣になるぐらいファンのひとたちに囲まれて、付き人さんが「押さないでくださーい。サインは順番に」なんてやってる人気者だったらって思うんだけどね。
そうじゃないのがつらい。
「だってこのひとたち、もう死んじゃってるしぃ……!」
何なら皮膚とか腐ってただれて、中からウジとかハエとか湧きまくってる。眼窩はくぼんで黒く、髪もほとんど残ってない。汚れの染みついた服はボロ布になってて、男か女かもパッと見わからない。手が伸びてくるだけで、臭くて鼻が曲がりそう。
──亡者。
彼岸から現世に戻ってきてしまった救われない魂たち。精確にいえば、それが悪霊化して実体をもったもの。
奴らは、生きている人間を襲って食べる。
大人も、子どもも。
赤ん坊でも、老人でも。
男だろうと、女だろうと。
亡者どもの前では、関係ない。
……それが、隊商に見捨てられて幌馬車から荒野に放り出された、まだ十五にも満たない少女であっても。
唯一、少女に活路があるとしたら、それは歌であり踊りだった。
亡者たちの魂をあの世に送り返すといわれる魂送り。少女が幼い頃からたたきこまれたもの。
特に、聖堂に仕える一流の謡い手ともなれば、その踊りと歌だけで数多の亡者の魂を浄化して送り返すという。
……歌も踊りも満足に教えてもらえなかった少女には、到底、ムリなこと。
亡者の爪が食い込んだ右肩に痛みが走った。左腕に取り憑いたのは別の亡者。生前の筋肉も衰えているだろうに、どこにそんな力があるのか、巨漢のような剛力で締め上げてくる。
がむしゃらに振り払おうとして、さらに別の亡者に髪の毛を鷲づかみにされた。
手足が裂けるのが先か、食われるのが先か。
少女は亡者たちの人垣に呑み込まれ、もみくちゃにされて、窒息しそうな臭いと腐った肉の壁にあえいだ。生理的な涙がとめどなく頬を濡らした。
なんで。こんな。救いがないんだろう。
地獄みたいな世界で、それでもがんばって生きてきたのに。
こんなところであっけなく……終わり。なんて。
「 」
不意の、空白。
目の前をふさいでいた亡者がずるりとくずおれて、頭上に、二度と見るはずのなかった空が見えた。
陰鬱な曇り空を背景にして、逆光の中に、見知らぬ黒い影。
亡者かと思った。違った。
何かが鈍く、光を反射した。剣だ。
目にも留まらぬ速さで亡者どもを斬り付けていく。男の一挙手一投足で、亡者どもの肉片が宙を舞う。
亡者どもに動揺が走った。動揺──なんて感情があるとすれば。
男の腕が、少女をつかみ上げた。思いがけない強さで。
「立てるか。走れ!」
少女は目をみはった。
懸命に立とうとした。でも、ムリだった。恐怖で足がおかしくなってる。震えるばっかりで、全然力が入らない。
ぐしゃぐしゃの泣き顔で首を振ったら、男が舌打ちした。横顔に焦りが見えた。思ったより若い。二十歳すぎぐらい。
自分に標的を定めた亡者をひとり、ふたりと剣で斬り倒して、男は残りの亡者に埋もれつつある少女を引っ張り出した。今度は立たせるのではなく、抱きかかえた。追いすがってきた亡者を蹴散らして逃げの一手へ。
少女は男の首にひっしとしがみついた。
男が走った。
飛ぶように景色が変わった。速い。
亡者どもを振り切って、矢のように走る。
けれど、少し走ったところで、少女は砂埃の舞う乾いた地面に再び放り出された。
受け身をとる暇もなく、舌を噛みそうになりながら派手に転がる。擦り剥いた腕に熱が走った。
「痛たた……。……って、う、後ろ! まだ追いかけてきてるのに!」
少女の苦情を無視して、男が背を向けた。
胸に、再び、どす黒い絶望の嵐が押し寄せてきた。今度こそ見捨てられるのかと思った。
でも、変だ。方向が逆だ。
男は、追いすがってきている亡者たちの方に向き直っている。どうして。
突然現れた男に斬り付けられて、亡者どもは怒り狂っているようだった。少女ではなく、立ちふさがる男の方に一斉に飛びかかっていく。
少女は我を忘れて叫んだ。
男がいなければ、次に狙われるのは自分だということも頭から抜け落ちて。
悲痛に泣き濡れた声で、追いすがるように悲鳴をあげた。
「ダメ……! 逃げて!」
男は。
その瞬間を待っていた。
思い思いにうごめく亡者どもが、一気に距離をつめてくるときを。
男の腕で、剣がうなった。その気配が不思議な光を帯びて鋭利に研ぎ澄まされていく。
一閃。横なぎの剣尖が宙を裂く。亡者ごと。
男に飛びかかっていた亡者どもが一刀のもとになぎ払われるのを、少女は見た。
沈黙。
地に伏せながらも最後まで起き上がろうとしていた亡者のひとりが、今度こそ、事切れたように動かなくなった。
すべての亡者どもを沈黙させた男が、ゆっくりと振り返った。戦いの烈気に張り詰めた、修羅の顔で。
あまりのことに、少女は腰を抜かしたまま言葉も出ない。
自分の十倍はいたであろう人数を相手どって、一歩も引かない心持ちも。それを一挙に斬り伏せた力量も、尋常ではなかった。
おかしなことに、亡者の危機が去った今、恐ろしいのは男の方だった。
男の全身から吹き荒れる悲しみが、少女にそう感じさせた。自分が男を傷付けたような気持ちさえ、していた。
不用意に蓋の開いた、心の傷。
その恐ろしいまでの強さとは相反する、触れてはいけないほどの、危うさと、もろさ。
──不意に。
言葉を失った少女と、男の目が合った。吸い込まれそうな蒼氷の瞳。凍てついて、時が止まったままの。
剣を曇らせていた脂を無造作に拭って、男が少女に近寄った。
少女が身を硬くした。その剣で斬られるのではないかと、本気で思った。
……降ってきた言葉は、違った。
少しの焦りを含んで、苛立たしげ。
「おい。まだ立てないか?」
「……え? た、立つ?」
少女は困惑した。力の入らない足に力をこめようとした。
……ダメだ。足だけじゃなくて、全身がわなないている。
亡者への恐怖、だけではなかった。目の前の男に向けたもの。
「わわ、私はいいから、置いてってください。助けてくれてありがとう。あとは、ひとりで大丈夫……」
「何、寝言ほざいてんだ。いつ亡者に襲われるかわからないのに、こんなところで立ち往生するバカがいるかっ。それに、あいつらは復活する。今はただ動きを止めただけで、じきに……」
男の言葉が、尻すぼみに消えた。視線だけで背後を見やる。
倒したはずの亡者どもが、ゆるゆると起き上がっていた。
さすがにダメージが大きいのか、立ち上がろうとしては転んでもがいている。それも時間の問題だった。
少女は青くなって後じさった。
「……嘘……。なんで。さっき倒してたのに!」
男が舌打ちした。
「あいつらは剣じゃ葬送れない。動きを止めるだけだ。……今のうちに逃げるぞ」
「え? ……きゃあ!?」
抜き身の剣を地面に刺して、男が再び少女を抱いた。横抱きに。
少女はさっきまでの恐怖も忘れて、おっかなびっくり男にしがみついた。
男が走った。亡者どものいる荒野から離れて東へ東へ。
少女の頭は、もうどうしようもないぐらい混乱していて、これが自分の見ている都合のいい夢なのかわからなくなった。
夢でもよかった。
最期が、恐怖に彩られているのでなければ。
「──…………」
「あ……おい。しっかりしろ」
慌てたような男の声が、どこか遠くから聞こえる。
死地を脱した少女は、男の腕の中で、眠るように意識を手放した。
☆☆
少女が目を覚ましたのは、夕刻になってからだった。
見慣れない天井が見えた。
せまい、けど、幌馬車の中じゃない。隊商の天幕とも違う。どこだろう。
カーテンのすき間にのぞく窓の陽射しは、夜の訪れを待ってせつないぐらいの茜色。
ぼんやりしていると、無言でコップが差し出された。水だった。
旅装束を解いた男──いや、青年がぶすっとした顔でベッド脇の椅子に座る。宿屋の一室らしかった。
「ひとに助けてもらっておきながら、のんきに爆睡とはね。あんた、いいご身分だな」
「……爆睡……」
思い出した。隊商の幌馬車から荒野に放り出されて、亡者に襲われたところを、この青年に助けてもらったような……。
ぞっとした。亡者に食われかけた肩と二の腕を抱きしめた。今更、震えがきた。
「……夢じゃなかったんだ?」
「へぇ。あれを夢だって思えるんなら、神経の方も相当、図太いみたいだな」
青年は金髪を掻き上げながら、これ見よがしにため息をついた。
……なんだろう、このひと。全然優しくない。
それでも、助けてくれたのは間違いなくこの青年だった。
少女は頭を下げた。
彼が救い出してくれなければ、今頃、亡者たちのお腹の中。
「助けてくれてありがとうございました」
「……」
お礼を言われて、なのに、青年は不満顔。
眉根を寄せて不機嫌に黙られると、少女もどうしていいかわからなくなる。怒らせたのだろうか。少女はブランケットを引き寄せて手をもじもじさせた。
「あの……ごめんなさい。お礼、何もできなくて……」
「……理由」
「え?」
「なんで、あんなとこにいた?」
お礼の代わりに、青年が訊ねてきたのは、年端もいかない少女が、保護者もなくたったひとりで荒野のど真ん中にいたことへの説明。今度は、少女が黙る番だった。
青年がため息をついて、窓の外に視線を逃がした。サイドテーブルのコップの中で、溶けた氷がカランと鳴る。ものさびしげに。
「……言いたくなかったら、言わなくていい」
「……」
「家はどこだ。この辺りなら送ってやる」
「……」
──静かに問われた、途端。
蓋をしたはずの感情の堰が切れて、涙がこみ上げた。
泣くのは卑怯だ。そう思ったのに。止まらない。でも、この青年のせいじゃない。
青年は驚かなかった。あるいは、少女が泣いている理由さえ、見透かしているのかもしれない。
青年が、少女の粗末な服に目をやった。特に、少女の足に痛々しくはまっている鋼鉄の足枷を。
……少女が、誰かの持ち物である証を。
「……元の持ち主が亡者にやられたか。それとも、嫌気が差してそいつから逃げて出したのか?」
「ううん。そうじゃなくて」
「?」
男がけげんそうな顔をした。予想していたどの答えとも違う、というふうに。
呼吸を整えるまでに、少し時間がかかった。悲しみがあふれ出さないのを確かめて、少女はゆっくり息をついた。……今度は大丈夫。
「亡者たちを倒すために、あそこにいたの」
「……? おまえ、剣が使えるのか? とてもそうは見えないけど」
「──魂送り。それが私の仕事。ご主人様たちの隊商が次の町まで逃げる時間を稼いで、亡者たちの楯になるために」
少女の言葉に、青年が絶句した。
なぜそんな顔をされるのか、少女にはわからない。
歌い踊ることは、少女の生きる意味だった。生かされる理由だった。
商人である主人の命を守るために、その身を賭して戦うのだ。剣と楯ではなく、文字通りの人身御供。
……ちゃんと役目を果たしたのに。
青年が、憐れなものでも見るように少女を見た。
少女はびくりと身を震わせた。
「……お、怒った?」
「別に。あんたに対してじゃない」
「?」
じゃあ、誰に対して?
思ったけど、怖くて訊けなかった。戦ってるときも怖かったけど、今もなんだか怒ってる。
「護衛はどうした。荒野を渡るんなら用心棒がいたはずだろ? 亡者が出ることなんて、わかりきってんだから」
「いないです。そんなの」
「いない?」
「だって、護衛って高いんでしょ? 用心棒を雇うぐらいなら、私たちの方がいいんだって。その方がずっと安上がりなんだって。女の奴隷はそれぐらいしか使い道がないから有効活用するんだってご主人様が……」
みなまで言えなかった。
青年の気配が、戦いの最中のように底冷えたからだ。そのくせ、今にも腰の剣を抜きそうなぐらい猛っている。
何がそんなに青年を怒らせたのか、少女はわからなかった。わかったのは、何かとんでもない失言をしたらしいということぐらい。
しまったと思った。
そういうことはよくあった。考えなしに喋って、なぜか主人を怒らせてしまうのだ。そういうときは言葉じゃなくて拳が飛んできた。
この相手はもっと怖い。
主人は丸腰だったけど、こっちの青年は剣を持ってる。あんなにあっけなく亡者を倒す剣だ。なます切りに斬り刻まれても不思議じゃなかった。
少女はとっさに身をかばった。
「ご、ごめんなさい! ぶたないで」
「は?」
「剣もやめてください。あ、でも。殺るならいっそひと思いに……」
「おまえ、俺をなんだと思ってる……」
少女は恐るおそる目を開けた。拳は、飛んでこなかった。青年の剣も、鞘に収まったまま。
部屋の様子は、さっきと変わりない。いや、少しだけ陽射しが傾いた。青年の端正な顔にも陰がさして、いっそ陰鬱そうになっている。少女の方もそう見えるのかもしれない。
「魂送りってのは、亡者どもが弱ってからやるものだ。詠い手がひとりでやるなんて愚行、聞いたこともない。まして修行もろくにしてないガキなんて……」
「……え……?」
少女は瞠目した。倒せないのは、自分たちの力が足りないからだとばかり思っていた。
「……帰る場所はないってことか」
少女もこくりと頷いた。
正直、仕事を果たしたあと、自分がどうなるのかは想像もしてなかった。そうやって仲間たちも死んでいったから。もう少しマシな人生を送りたかったと思うだけで。
見ず知らずの青年に助けられて生きてるなんて思ってなかったのだ。
「拾ったからな。放り出すのも後味が悪いよな……」
「ご、ごめんなさい」
「……謝ることじゃない。拾った俺の責任だ」
「でも……」
青年が、三度目のため息をついた。
外はもう、夜の気配が濃くなってきている。
「とりあえず明日考える。俺はあっちのソファ使うから、おまえはそこのベッドで寝ろ。いいな」
「えっ。そんな、ダメです。私がソファで……」
「おまえが気にしなくても、俺がするんだよ。いいからそこで黙っておとなしく寝てろ」
そ、そう言われても……。
「……さっきまで寝てたから眠くないです」
青年の額に青筋が立った気がした。蒼氷の瞳が怒気を帯びる。
少女はびくっとブランケットを引き寄せて頭から被った。
「やや、やっぱり寝ます! おやすみなさい!」
……とは言ったものの。
潜り込んだところで、眠れるわけがない。
バクバクとうるさい心臓の鼓動を感じながら、少女はブランケットの中で猫みたいに丸まった。
夜は、まだまだ長そうだった。
☆☆
『──……番。──……番!』
『は、はい。──って、えぇっ……ご主人様⁉ なんでここに。亡者から逃げなかったんですか?』
『何言ってやがる。つくづく薄気味悪いガキだ。寝ぼけてねーでさっさと水くんでこい。それから飯と馬の世話だ。なまけたら承知しないぞ』
『は……はいっ』
『──ったく。ぐずぐずすんな、このウスノロめ。どうせ亡者どもの楯になるしか能のないおまえを生かしてやってるんだ。ありがたく思え』
『……はい。ご主人様、あの……』
『あぁ!? まだ何かあんのか』
『……私、まだ……──』
☆☆
……。
…………。
──明日になったら、全部、夢だったらいいな。ご主人様と別れたのも、亡者に襲われて死にかけたのも。
……そう思って眠りに落ちたのに、目が覚めても、やっぱり昨日の続きだった。
猫の額みたいにせまい宿の一室。窓の外の太陽は高くのぼっていて、部屋の借主である青年はいなかった。
でも、昨日はなかったパンとスープは、小さな丸テーブルの上に載っていた──ひとり分。脇には、宿の備え付けのメモで書いた、小さな紙切れ。
少女はベッドから降りた。裸足でぺたぺたと板張りの床を踏み、横切るほどの広さもない部屋を歩く。
鋼鉄の足枷についた鎖がじゃらりと鳴った。いつもどおり。
少女の指が、テーブルの上にあった紙切れをつまんだ。ひらひらともてあそんだ。手持ち無沙汰に。
昨日から丸一日食いっぱぐれていたお腹の虫が鳴いた。どことなく悲しそうだった。
聞いていた少女も泣きたくなった。自分のお腹の音で。
「……。お腹すいたなぁ……」
☆☆
「……だから。なんでそんなになるまで食わないんだ。出かける前にわざわざ書き置きしといただろうが……」
数刻後。
宿の部屋に帰ってきた青年の額に、こらえきれない青筋が立った。
部屋に帰ってきたら、少女がなぜかベッドの上でうずくまっていて、腹の虫が盛大な大合唱をしていたのだ。
テーブルの上には、青年が部屋を出る前と同じパンとスープが、手つかずのまま。パンは表面が乾いていて、スープには埃が浮かんでいた。でも、空腹の少女は気にしない。
「はひふへほほへへ?」
「何言ってるかわかんねぇよ。いいから、食ってから話せ。俺も食い物も逃げないから」
「ふふーほほへへ」
「だから、落ち着いて食えって……」
まぁ、でも、これに関していえば青年の方も行き届いていなかった自覚はある。
昨日、目を覚ましたときに食事をさせてやればよかった。考えてみたら、昨日は水を飲ませてやって、それっきりだ。
(──っていうか、腹減ってんならそう言えよ。犬猫じゃあるまいし……)
……前言撤回。犬や猫だって、腹がすけば自分でねだる。
そういう意味では、意思表示の乏しい少女は実にやっかいだった。勝手に我慢して、勝手に行き倒れになりかねない。
パンくずのひとつ、スープの一滴も残さずきれいに食べて、少女はやっと人心地ついた。
少女が食べるのを見て、青年まで満腹になった気がしたほど見事な食いっぷりだった。
「──で? さっきの話。俺がもってきてやったメシ食わなかった理由は?」
「ご、ごめんなさい」
「別に責めてるわけじゃない。テーブルの上の書き置き、見なかったのか?」
「ううん、見ました。でも、てっきりお仕事のメモか何かだと思って……」
少女が申し訳なさそうに身じろぎするのを見て、青年は追及するのをやめた。……まさか。
「……まぁ、いい。とりあえず、ほらこれ。買ってきたから開けてみろ」
「……?」
渡されたずた袋から出てきたブラウスとスカートに、少女が目を丸くした。
青年の方をしげしげと見る。物珍しいものでも見たかのように、変な顔をした。
「……。えっと、お兄さんが着るんですか、これ?」
「……どこをどう見たらそんな発想になる……」
「だって──」
ようやく自分のだと気付いて、少女の顔が喜びに輝く……──ようなことはなかった。たちまち青くなった。世界の終わりみたいに。
「……? どうした」
「……もらえません、こんなの」
「別に。こっちだって、おまえが気に入るとは思ってない。でも、亡者に襲われたその格好じゃ買い出しにも出られないからな。ひとまずそれで我慢して──」
「違う……違う! そうじゃなくて!」
少女が叫んだ。血を吐くようだった。泣きそうにくしゃっと顔をゆがめた。
「なんで私なんかに優しくするんですか! 亡者から助けてくれて、ご飯くれて、服までくれて……おかしいよ。怖いよ。なんなの。なんで私なんかにそこまでするの?」
「……。なんで……って」
青年は半ばあっけにとられて少女を見つめた。
さっきまでの無邪気な様子からは想像もつかない激情に、意外さを禁じえない。追い詰められた野生動物が刃向かうような、張り詰めた緊張感があった。
「助けるのに理由がいるかよ……」
ぼそりと言った。低い声だった。
少女がはっとしたように身を正した。うろたえた。……青年に口答えしたことに、今更ながらに気付いて。だけど、ごめんなさい、とは言わなかった。
かたくなな沈黙が降りた。双方とも、互いに譲らないのがわかった。
青年には青年の主義主張があり、少女には少女の生きてきた人生がある。昨日、行きずりに出会ったばかりのふたりが和解するには、あまりにもお互いを知らなすぎた。
「おまえは……」
先に沈黙を破ったのは青年の方だった。
何かを言おうとして、その先の言葉が続かずに、また黙る。ため息とともに、逃がした。
「……まぁ、なんだ。いつまでも『おまえ』じゃあんまりだな。名前は何て言うんだ?」
少女はちらりと顔を上げて、また気まずそうに首を振った。横に。名乗りたくないのか、それとも……。
「……。……じゃあ、メルってのはどうだ。俺の故郷の、女神の名前だ。気に入らないようなら別の……」
──名前をと言いかけて、やめた。
少女の瞳が、今度こそ爛々と輝いていたので。
青年は淡く苦笑した。……笑ったことなんて、ここ何ヶ月もなかった気がする。
「俺はアスターだ。……機嫌直ったんなら、さっさと着替えてくれ。宿の主人にチェックアウトを待ってもらってるんだ。あんまり待たせるわけにいかないからな」
そう言って青年が部屋を出ていくと、少女は慌ててずた袋の服に手を伸ばした。
(第1章2話に続く → https://note.com/b1uebird88/n/n014d98877a5f )
(イラスト:漫画家 青木ガレ先生)
(※この小説は「カクヨム」様に掲載したものを一部改稿しています)
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