幸せに気づく?不幸せに気づく?
それを知ったら世の中を見る目が変わる、という類の言い方、物の見方があると思う。子供のうちは何も知らず幸せだが、大人になるにつれ、世間の悪い様を知って、所謂世知辛さを知るとともにそれとどう向き合うかという問題が出てくる。
結局のところ世の中の人は幸せになろうとしているのか、不幸せにやらないようにしているのか、大人になるにつれて幸せになろうとしなければそれは不幸せにしかなれない、といったような感じになっている気がする。
詩人の目を持って世の中を見れば、そこに希望よりも残酷な真実が多く転がっているのがわかる。パートタイムポエマーならちょっとした幸せだけを拾い集めることもできるし、それが賢い生き方とさえ思っている人達もいる。
常に詩人でいたなら、きっと気が狂ってしまうだろう、という予感があり、そこから目を背ける為、そうならない為に貴重な時間を潰す、という行為が行われる。
といったことがこれまで自分の考えてきたことだった。
幸せの条件は賢い事、という人もあれば、愚者が1番幸せである、というような人もある。
そこでふと思ったのだが、幸せになる、という定義を置いておいた上で、とある状態になる、その状態を保つということは、ただ恵まれて環境がそうなっている人であっても環境が変わればそこから追い払われてしまうし、そうでない人にとっては、自分がそういった環境にあるかどうかということさえもわからない。そこで幸せ、というのがある環境だとして、それを探し、保つ為には、やはり技術が要るように思う。結局のところ、幸せになる、である、ということ、もしくは他の状況である、ということを目指す為には、必要なのは賢さであり、詩人の目であるように思う。
望遠鏡で太陽を覗き込まないように、常に見続けることはないが、結局、遠い世界を知る為には望遠鏡がいる、ということを思った。