表情が上にあって、物理が土台にいる
これは決して情に偏った話でもなければ、冷静な思考の話でもない
人が亡くなってしまう出来事は、今まででたくさんある。私が人間に生まれてよかったと思うのは、我々はこのことを弔う。祈り、平和を願う。ニュースで見る人々に対して、会ったこともなくても同一種の生き物として辛さを共感させられる。ところである。
しかし、虫たちや細菌たち、植物たちに致死量の水や薬品をかけてしまい無惨な最後を与えてしまったことはないだろうか。(危機を感じた虫たちの踠きは、本能的反射として捉えて)
タブララサと言われるよう、我々が幼い頃は、考えを自由自在に書き込められる。私は人間として生まれ、道徳を学び、"生"に対し絶対的な意識を持った。その故、私は時々、洗顔をする時でさえ怖くなった。「洗顔をすることで、見えない菌や汚れを落としているんだよ」と言われてからだった。それでも、大体の人々は気にせず顔を洗っている。これは、菌たちにとって、災害ではないだろうか。
そんなことを考えていたら、きっと私は精神的に生きていけないだろうと考えた。だから、苦しむ渦にばかり流されてはいたくないと今は思う。
きっと、生きること、そうじゃなくなることの大切さというのは、人間だからこそあるもので、感情が出す生き方なのだろう。
物理的な身体の上にあるもの
もし、私がこの世からいなくなってしまったら。などと考えたが、身はそのまま残る。21g軽くなったという供述もあるが、飛ばされた水分や、空気に触れ酸化した気体があったのかもしれない。それが本当だとしても、約50,000gの私の身体は残っている。
私がこの世から消えることはないはずなのに、"居なくなる"という表現がぴったりはまる。
何がなくなるといったら、精神的なもの、感情たち。こいつたちが本当に厄介で、我々が"辛い"と口にしてしまう原因である。もちろん、"幸せだ"と言える理由でもある。私はこの子達のことを、ちゃんと愛したいと思う。そうすれば、顔を洗うときに怖くなることもないだろうね。
表情が見えてわかる無限の世界はどこに
無くなってしまうけど、どこまでも広がっていけるこの精神世界の面白さって、一生かけて語られていくだろう。身体には限界がある。できないことやできることが、医学や科学、いろんな学問で証明されてきている。
その中で、限界や可能が精神の中にもある。ただ、それは何m?何㎡?または㎥?単位は?もし私が心理学、精神科学等の専攻をしていればわかるか?
こんなにも感情というものと向き合いながら生きているのに、学んだことがない。わかるはずもない。きっとまだまだわからないことがあるだろうし、超えることもできるのだろうし。
その無限に広げられる精神世界に行ってみたい。だから、ひとつひとつを具現化、肉眼化、五感で感じられる生き方をしたい。どんどん、目の前に現れてきてほしいと思う。
鑑賞の延長にて超えて
あなたが作ったもの、描いたもの、私はみている。きいている。さわっている。そんなことを嗜みながら、憧れを強く持つ。本当に、いろんな人の精神世界を実感できる鑑賞を楽しんできた。そこで問われるのは、「私の精神世界ってどんなの?」
勝手に出たもの、自然と表情に出ているものは、今の私の身体と精神がフルの状態(または精神が肉体を超えないもの)だとしよう。
無限の世界が広がっていると信じているならば、地球よりも大きく超えた精神世界を出して空っぽになりたい。いつか消えるその前に、みたことない自分に出会って挨拶をしてみたい。
人間の生き方を全力で、次は惑星にでも生まれ変わりたい。
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