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人生の全ては偶然の歩みの上に


今年も大学入学共通テストの時期です

 今年の受験生世代は、現役世代は私の息子と同学年の世代です。それだけに、今年の大学入学共通テストは「普通の人生を歩めた息子と同世代の子供たち」が受験生となります。自分には「世の中の普通とは違う道を歩んでいる一人息子」がいます。一人の親として、今の仕事をしている立場として、感じていることを残したいと思います。

今もなお、”普通の家庭”を羨む日々

 大学入学共通テストを受験するほとんどの受験生は「世の中でいえば”普通以上の生活を送れた家庭”のもとにいる」でしょう。しかし、世の中はそういう子供たちばかりではありません。何かしらの障碍や疾患を抱え、日本社会が暗に強制している生き方とは別の道を歩まなければならない子供たちもおり、その子供たちのそばには、保護者がいます。当事者である子供たちも苦しみ、その保護者もまた、様々な苦難の上に立ちながら日々を生きています。私はそういう保護者の一人として、複雑な心境でこの大学入学共通テストの日を迎えました。「自分自身にとって普通の人生が、保護者の立場となって普通じゃなかったと感じている」この大きなギャップこそが、この話題を書くきっかけでした。
 息子が生まれて18年以上。幼稚園年長時に診断が確定した発達障碍(複数)や小学校中学年以降から続く不登校状態、そして通信制の高校への進学…と、普通の人生だと経験しなかったであろう事が続いております。今も、春からの自立支援訓練受け入れ施設の選定が決まらず、難航しております。保護者としては息子が成長し、自立出来るように日々出来ることを支援するしかありません。それは、自分の命が尽きる時まで続く「一生涯背負う現実」でもあります。

選択肢はあるように見えても見つからない現実

 前述のとおり、息子の自立支援訓練先施設は、これを書いている今でも決まっていません。息子が抱えている発達障碍の特性の1つである間欠性爆発性障害が、施設にとって受け入れがたい特性となっています。この障害をコントロール出来るようになるためには専門家による認知療法が不可欠であり、本人の努力のみでは成しえないものです。更に、この障害は施設に入所済の他の入所者に悪影響を与えかねないため、受け入れを拒否する施設が複数ありました。そういう事情があり、今に至ります。
 仮に、何かしらの発達障碍を持った子どもが普通の大学や専門学校などへ進学するとしても、非常に高確率で中途退学する道に追い込まれます。これは、今の仕事でも感じている現実です。グレーゾーンで「変わった性格の子」までのレベルならば偏差値の低い私大をギリギリ卒業出来るかも知れませんが、国公立大学は「大学入学共通テストを最後まで受験できる」事が必須ですので(仮に推薦入試であれど、大学入学共通テストを受験することを課している国公立大学が大半)、大学入学共通テストを最後まで受験できた時点で「日本社会に選別された”普通以上の学習意欲がある”子ども」である訳です。仮に発達障碍を抱えていながらでも大学入学共通テストを最後まで問題なく受験できていれば、その時点で人生の大きなふるいに残っている側と思っても差し支えないと私は考えます。
 当然、この辛い現実は保護者のメンタルにも一生涯のしかかります。特に、普通以上…特に理想に近い側の人生を歩んできた保護者とっては、あまりにも重い現実に心が病んでしまうのではないでしょうか。私自身、息子が抱えている発達障碍に対して、自分の心の中で一生悔やみ続けることでしょう。自分の精子や遺伝子が悪かったのか、自分の育て方が良くなかったのか、それとも乳児期に何か外傷があったのか…原因が明確でないため、メンタルは霧の中のようなもやもやが残り続けております。

メジャーな人間にやさしく、マイナーな人間を棄てる風潮の日本社会

 今の日本社会は「形だけ障碍者支援」の仕組みはできつつあります。平成28年に施行された「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」によって、さまざまな特性を持つ子どもが高等教育の現場に進学しやすくなりました。身体障碍に関してはバリアフリーという言葉が浸透しておりますが、それ以外については未だ道半ばです。発達障碍のように「病名はついたが社会での受け入れ態勢が全くといって良いほど整っていない」ケースはごまんとあり、「今後の検討課題」という言葉でお茶を濁されて問題を先送りされているのが教員の立場から見た現実です。その結果、教育現場において教職員の負担が急増しているのもまた事実です(自分の職業柄、複数の経験事例あり)。
 自分の息子のように「普通の学校生活が困難な子ども」にとっては、前述のとおり法律だけは出来ても未だに道は開けておらず、その子どもを支える保護者は心身のストレスや金銭面での負担が重くのしかかります。これをわかりやすい表現で例えるならば「普通の子どもを私立大学(理系)に8年間通わせるくらいの財政負担が高校入学時点から発生している」と言えるでしょう。財政面では、保護者2名の片方は子どものケアに縛られるため、ほぼ確実に働けなくなります。我が家も私一人の収入ですべて支えなければならない状況にあります。更に、私一人だけが仕事を頑張って収入を上げようとしても、ある程度の収入を超えると、国からの支援を受けにくい立場になります。世帯収入はむしろ減少しているにも関わらず、です。現に、息子を育てる上で国から支援を得ているのは、月1万円のこども手当のみ(しかも、昨年10月までの間は無給だった)。これは今年3月で終了します。このように、マイナーな立場にある人間への補助はほぼ皆無といって良いでしょう。心身の負担は言わずもがなです。これが今の日本社会の現実です。

人生の全てがガチャなのか、何なのか

 人生は、本人の努力で切り開けることばかりではありません。数日前に掲載された無名人インタビューでは自分の人生について話をしましたが、正直、言い足りない事だらけでしたので(実感、自分の人生で感じている事の10%くらい)、今後このnoteでも補足記事はたくさん書くでしょう。言いたいことを極力圧縮すると「人生の全てがガチャみたいなもの」ということに集約されます。全てが偶然の上にあり、その上に乗るか反るかの”結果”で決まってしまう。そう表現しても差し支えないかも知れません。本記事のように、乗るか反るかの意思決定が出来る健常な人と、障碍や疾患等で意思決定すら出来ない(答えが決められないor答えが一意にならざるを得ない)人の両方がいますので、”結果”と書かせて頂きました。

 私が今回の記事で書いた、一部の人間が抱えている重く辛い現実を「甘え」「自己責任」という言葉で切り捨てるのは簡単でしょう。実際、日本には「形だけの制度」や「ごく一部の人間だけが恩恵を受ける制度」はごまんとあります。しかも、すべて「自己申告しない限り受けられない制度」ばかりであり、抜け落ちている部分が多いのも海外の事例と比較すれば色々と知ることが出来る事実です。そういう片手落ちな制度を決める思慮の無い人間が政治の主導権を掌握してしまった時点で、日本の生き辛さは加速していくと危惧しています。「社会が定義する普通の人間」しか対象としない政治。そういう政治によって生み出された社会で、すべての人が生きていて良かったと思えるはずがないのは、自明の理でしょう。
 最後に、人間が持つ特性は先天性のものもあれば後天性のものもあります。どれだけ頑張っても出来ないことは無数にあります。本人の才能を見つけることも容易ではありません。特に発達障碍の方についてはなおさらです。まるで、ゲームのガチャのように目前の結果に翻弄され続ける人生を送られていると表現しても良いでしょう。息子を見ているとそう感じますし、保護者である自分もまた同様です。そんな息子のような人たちが持っている(と信じたい)秀でた能力を発見し、開花させる方法はないものか。もしかしたら、これが自分の研究者人生の裏テーマなのかも知れません。
「答えは未だ無い。もしかしたら人生をもってしても解決しない苦しい問題だが、親として立ち向かうしかない。」