物語からはじまるショートショート〜第十回『マシューのゆめ』〜
ぼくは、正真正銘のひとりぼっちになった。
学校の人たちは、すこしも理解してくれようとしない。先生にだって、はれもの扱いされている。
おまけに今日…。
今日、ぼくはついに、家出ってやつをしてしまった。
朝。登校時間になっても、体がうごかなかった。
目は開けたし、熱があるようにも感じなかった。ただ足が、腕が、首が、頭が、制服を着てスクールバッグを背負うことを拒んだのだ。
やがて母さんが部屋をのぞき、不安げな顔で体温計を差し出した。それを脇にはさんでみたが、体温は36.0度。ぼくは、顔を枕にうずめたまま、母さんに体温計を押し返した。
多分、母さんはそのあとすぐ、単身赴任中の父さんに連絡しただろう。進のようすがおかしい、今夜様子を見に帰ってくれ、と。…それからのことは、一通り想像できる。昔ながらの亭主関白で、体育会系な父さんは、そんなことを許してくれるはずがない。男は根性。気持ちで負けるな。そう言い放つ姿も、母さんを説教する姿も目に浮かぶ。
考えていたら、背筋がぞわっとしてきた。あと何時間も、父さんの帰りを待つみたいに、ここにいるなんて。そんなことはできるはずがない。
というわけで、気づくとぼくは自転車をこいでいた。お年玉のはいった貯金箱だけをリュックに入れて、逃げだしたのだ。
とりあえずコンビニに寄って、おにぎりだけは買った。でも、ひとりで来たぼくを、店員さんは不審そうな顔で見てきた。だれかに通報されたら、もっとおそろしいことになるかも。そんなことはまっぴらごめんだから、ぼくはもうどこにも寄らないことに決めた。
それから前だけを見てひたすらペダルをこいだ。ときどき休んでは、ひとりぼっち、という言葉を頭に何度も思い浮かべながら。
日が暮れたころには、もう見たことのない町にきていて、周りいちめん、ばあちゃんの家みたいな古い建物ばかりになっていた。ところどころにある家庭菜園では、ナスやトマトが夕陽に照らされて、つやつやと、金色の光を放っていた。
きれいだな、と思うと同時に、お腹が鳴った。気づけば足もお尻もへとへとだ。ぼくは自転車を引いて歩くことにした。
十五分ほど歩いたところに公園を見つけた。ちょっと一休みするのには、良い場所かもしれない。
公園の角には、紐でくくられた週刊誌や新聞の山があった。明日が古紙回収なのだろうか。リサイクルされる奴らを見ていたら、ぼくはなんだかうらやましい気持ちになってきた。君らはいいよなあ。いらない、って思われても、また新しく生まれ変われるんだろ。でも、ぼくときたら…。
とたんに、担任のあきれ顔とか、クラスメートたちの冷たい視線が、まるで目の前にあるみたいにぼくの方を見てきた。
––––いやだ。
ぼくは目をぎゅっと閉じてみる。でもそうすると、夜に泣きながら父さんと話す、母さんの小さな泣き声が聞こえてきた。それから父さんの怒鳴る声も。
ああ、そうか、帰ったら、父さんがいるのか。ぼくはさらにユウウツになった。
チビで、運動も勉強もできない。おまけにへんなくせ毛で、人と話すのもへたなぼくを、父さんは隅から隅まで否定する。ほんとうは、気持ちが、心の中で大きな滝みたいにあふれている。なのに、のどで大きな岩がつっかえているかのように、ぼくは何も言葉にできない。ただ息苦しくなるだけだ。
そんなふうに考えていると、ここにある古紙より、ぼくなんかのほうがずっと、価値がないと思えてきた。頭がどんどん、重くなる。
ぼくはうつむきかけた。……けれどすぐに、あれ?と顔を上げた。視界に、白い角ばったものが映りこんだのだ。
なんだろう。新聞や雑誌にしてはかたそうなそれを、ぼくは人目を確認してから取り出してみた。
「なあんだ、絵本か」
声に出してそう言ってみたけれど、表紙の絵にどきりとして、思わずまじまじと眺めてしまった。青や黄、黒に緑と、カラフルな色。でも、描いてあるのは月みたいにも太陽みたいにも、もっと違うなにかみたいにも見える。その真ん中あたりに、二匹のねずみが立っている。
わけがわからないな、と感じながらも、ぼくはその絵のせいで、胸が高鳴っているのを感じた。
天を仰いで呼吸を整えてから、もういちどその本を見た。『マシューのゆめ』、というタイトル。ぼくは導かれるように、表紙を開いた。
マシューは、貧しい家族のもとに生まれたねずみ。親たちには、将来お金持ちになるよう期待をかけられている。けれど、当のマシューには、「せかいっていうものをみたい」という気持ちしかない。
そんなある日、マシューは初めて美術館に行った。そこには、見たこともない美しい景色が広がっていた。彼は絵の一枚一枚に目を奪われ、「せかい」はここにある、と気づく。
その夜マシューは、大きな大きな素晴らしい絵の中を歩く夢を見る。朝起きても、相変わらず貧しい暮らしは変わらなかったけど、今までの景色がまったく違うものだと感じはじめる。そしてマシューはその日から「えかきになる」と決めて生きることにした。
ぼくは吸い込まれるように、その本の世界に入った。なんだか、この「マシュー」ってねずみに、友だちみたいな気持ちがわいた。
そして、頭の中で、ほんとうは言葉にしたかったものたちが、渦みたいに動きはじめた。
学校はきらいだけど、運動場をスニーカーで走るときの、ざりざりっていう砂のこすれる音とか、プールのわざとらしく新鮮な水色のことはなんか好きなんだよな、ってこと。
今日自転車をこぎながら見た川の水面は、太陽の光をうけてちろちろ輝いていたっけ。さっき畑の前でかいだ土のにおいはほかほかとやわらかくて、肩の力を抜いてくれたよな。
誰もわかってくれそうにないこと、つまんない、ってはねかえされそうなことが、心の中に山ほどたまっていた。でも、それをどう伝えたらいいのかわかんなくて、うつむいてだまってしまう毎日だった。
でも、マシュー。
ぼくは紙の中に立つ友人に語りかけた。
マシュー、多分きみは、ぼくの話を聞いてくれるよね。少しずつしか言えなくても、ちゃんと待ってくれるよね。会ったことないのにさ、なんかそんな気がするんだよな。ぼくはじっと、絵の中のマシューを見つめた。
と、そのとき。突然どこかから声がしたのだ。
「えかきになる。これが、ぼくのゆめ。きみは?」
「えっ?」ぼくはまわりを見渡した。でも、だれもいなくて、ただ絵本の中に、美しい絵の前に立つマシューがいるだけだった。
気のせいかもしれないけれど、ぼくはさっきの質問を、頭の中で繰り返した。
ぼくの夢。ぼくの夢は…、もっとこの、心の中にある気持ちを、外に出したいってこと、かな。マシューと同じように、絵ではないかもしれないけど、きれいなものはきれいだ、って、好きなものは好きだ、って言いたい。みんなにあの美しいものの話を、したい。
そう思ったらつま先からうずうず、うずうずしてきて、いてもたってもいられなくなった。体の中をうわあーーって、熱いものがかけめぐる。ぼくは、走って自転車のところまで向かい、スタンドを上げて、サドルにまたがった。
「あ、本…」
地面をけろうとした瞬間、片手に絵本を持ってきてしまったことに気づいた。ぼくはふりむいて、古紙の山を見つめた。だめかも、って気がした。でも、この本をリサイクルされたらいやだ、って思ったから、ぼくはリュックに絵本をしまって、だいじに背負った。
足は重たくて棒みたいだし、日はもうほとんど暮れかけ。おまけにお腹はぺこぺこだ。
それでもなんだか晴れやかなきもちで、ぼくはペダルを力強くこぎはじめた。
※『マシューのゆめ』レオ=レオニ/作 谷川俊太郎/訳 好学社刊
この連載では、皆さんもお手に取ったことのあるような、既存の「物語」をもとに、新たな超短編小説(ショートショート)を作り出していきます。次回の更新は、10月20日水曜日の予定です。お楽しみに。
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