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【個人的エッセイ】言ノ葉と図書館

 私は人間の持つ特徴の中で二つだけ「美しい」、「好感が持てる」と感じるものがあります。一つは「書き言葉」、そしてもう一つは書き言葉を含む様々な道具を産み出したり扱ったりする事を可能にする「前肢」、すなわち「手」です。

 私の活動の根幹をなす根本動機は図書館学です。このNoteも「図書館学の両輪」と言われる「資料保存(Material Preservation)」と「資料提供(Access Provision)」の思想に基づいて設計されています。

 私がコメント機能をOffにしているのは「資料保存(Material Preservatio)」が主な目的です。悪意ある何者かによって誹謗中傷が書き込まれてしまった場合、私が提供した情報がいかに正しくても読者の皆様に悪印象を抱かせてしまう懸念があるからです。

 私が執筆を続ける理由は「資料提供(Access Provision)」が主な目的です。Googleの検索結果に表示されるにはWebサイトを更新し続けなければなりません。【セリアンスロピー/Therianthropy】についてどれほど正しい情報を配信しようと、サーチエンジンの検索結果に表示されなければ誰にも読んでいただけない懸念が生じます。

 しかし、執筆を続ける事で冗長的な情報や不必要な情報が増えてしまい、本当に重要な情報が埋もれてしまう懸念があります。結果として不用意な更新は「資料提供(Access Provision)」を逆に損なってしまう懸念もあります。だからこそ私が提供する情報は出来る限り厳選されるべきであり、【セリアン/Therian】が生きていく上で不必要と思われる情報や【セリアンスロピー/Therianthropy】とは無関係と思われる情報は極力排除するように努めています。

 ですから、本来であれば図書館学そのものも【セリアンスロピー/Therianthropy】とは直接的関係はないため、このような記事を追加すべきか否かはかなり迷いました。ですのであくまでも個人的エッセイというカテゴリで書いています。


 私が大学で師事した教授によると、米国では「死ぬ前に図書館に行け」と言われるほど知識そのものが高く評価されているとの事でした。図書館は知性を守る要塞で在るべきで、私もそう在れればと考えて「【セリアンスロピー/Therianthropy】の図書館」をここに建てる事を決意しました。
 心の病と闘う知恵と勇気をもたらし、問題を解決する糸口を提供し、明日を生きる希望を灯す、知性とはそう在るべきだと私も思います。

【セリアン/Therian】とても希少な存在です。元々珍しい上に自分の正体を正直に他人に話すと攻撃されるリスクがあるので、カミングアウト出来ない方もとても多いはずです。近年になって【セリアン/Therian】同士がネット上で知り合う機会は増えましたが、それでもなお、【セリアン/Therian】が人間の世界で生きていくのは困難を伴うと言えるでしょう。

 だからこそ私が礎となり、日本の【セリアン/Therian】が少しでも幸福に近づけるように、出来るだけ正しい情報を提供出来ればと考えています。
 知識は時に身を守る盾となり、未来を切り開く剣にもなります。それと同時に言葉は他者を傷付ける刃にもなり得ますし、自分自身を傷付けてしまう事もあります。
 だからこそ、ただ単に道具や武器を提供するのではなく、その道具の正しい使い方もお伝え出来ればと考えています。刃物は相手を斬り付ける事もできますが、料理に用いれば美味しい食事を作る事ができますし、熟練の医師が振るうメスは病だけを取り除き人を救う事さえ出来ます。「傷付ける」だけでなく「助ける」、「救う」という選択肢も増やす事こそが図書館の存在意義であり責務だと私は考えます。

 道具は振りかざすものではなく正しく振るわれるべきであり、知識も同じだと私は考えます。そして道具に振り回されるのではなく、正しく道具を振るうためには知識と鍛錬が必要だとも思います。

 私が提供する情報が皆様に正しく活用される事を祈ります。

 果たされない願いはやがて呪いと化す。しかしそれでもなお願い紡がれた言葉はいつか誰かの祝福になる。そう信じて図書館を守り続けたいと考えています。


 余談ですが。私が図書館学を愛好する理由は利己的遺伝子説に基づいています。
 遺伝子の本質が生命を介して伝播する情報であるなら、情報の集積体である図書館はまさに生物が存在した意義の集大成ではないか。ならば図書館を守る事で個々の生物種の進化の過程と歴史と生存戦略を保存し、人類のより深い動物に対する理解を促し、人間以外の生き物や自然そのものとの調和の取れた世界の実現に貢献する。それが出来れば何と素晴らしい事でしょう。

 それが夢物語である事は私自身が何よりも理解しています。ですが何もしなければ何も変わらない。何かを犠牲にしてでも何かをした時にこそ何かが生まれ得る。
 だからこそ私は【セリアンスロピー/Therianthropy】を命懸けで守ります。多くの【セリアン/Therian】が何を考えどう生きたのか。私というただの一匹の獣が何を考えどう生きたのか。その「記録(Record)」を誰かが読み解いて「再生(Play)」した時にこそ、記号の羅列でしかない書物は読者の頭の中で物語という旋律になる。

 だから私は遺します。誰かに「再生(Play)」してもらえる日を夢見て。
 それが私という生命の「資料保存(Material Preservation)」です。
 それが私の生存戦略です。
 そしてそれが私が人間の特徴の中でほぼ唯一「美しい」と思える部分です。

 種を問わず、本気で生きようとしている生き物は皆美しいと私は思います。それがどのような生存戦略であれ、どれほど残酷であれ、それでも命懸けで生きようとする様は何らかの美を備えるものだと。或いは命懸けで生きようとする様を尊重し保存しようとする「美の感覚」という心の動きそのものが、生命が進化の果てに産み出した生存戦略だとするのなら、それは素晴らしいものだと私は思います。

 だから私は遺伝子は利己的であっても良いと考えています。本当に「種族として利己的」になるのであれば、必然的に利他するようになるのだと私は考えます。自分という個体は数年、長くても数十年で終わってしまう。だからこそ生き物は次の世代に命と希望と願いを託すのだと、私はそう考えています。
 だから、ここで終わってしまわないように。自分が死んでもずっと続いていくように。そう願わずにはいられません。