【個人的エッセイ】自分だけの正解
【セリアン/Therian】として長年生きてきて思う事は、
「誰に何を言われても決して揺らぐ事のない、自分だけの正解」
を見つけること、それを守り抜くこと、それと同時に他人に押し付けない事が、何よりも大切だという事です。
【セリアン/Therian】も【アザーキン/Otherkin】も多様性の権化のような存在です。「セリアン」と一口に言っても、犬も狼も狐も猫もハイエナもライオンも鳥もイルカも全てひっくるめて「人間ではない」という理由だけでひとまとめにしているに過ぎません。当然、鼠と猫と金魚と鳥と犬を「人間ではない動物だから」という理由で一つの部屋に入れておけば、人が目を離したスキに大参事になる事は火を見るより明らかです。
元来【セリアン/Therian】のコミュニティはこういった内部抗争のリスクを潜在的に内包しています。だからこそコミュニティが一定以上に大きくなる事も滅多にありません。何百人、何千人という個体を統率する事は、「真社会生/Eusociality」と呼ばれる特性を持つ一部の昆虫や哺乳類、或いはそれに類する特性を持つ人間のみが可能な事なのかもしれません。
そんな「違っている事が当たり前」のコミュニティの中で重要な事は、私個人の意見では「協調性」よりもむしろ「個性」の方です。いかに協調性を発揮しようと、他の誰かが極端な個性を主張すればその度にコミュニティは分裂の危機に晒されます。コミュニティの管理者が常に完璧な対応ができるわけでもありません。問題が起きた時にいつもいつも正しい対処が出来るわけではないのです。
ですから、いくら自分独りが自分の意見を抑えて他者と平和的に対話しようと努力しても、その努力が正しく報われる保証はどこにもありません。
国や地域が変われば何が正しくて何が間違いかも当然変わる。たとえ同じ地域であったとしても時代が変われば常識も変わる。ここ日本でさえも、「常識」や「価値観」と呼ばれるものは僅か30年足らずでがらりと変わってしまいました。
だからこそ、他人にどれほど反対されようと、自分自身だけは絶対に信じられる「自分だけの正解」を見つけること、そしてそれを守り抜く事が何よりも肝心になります。
しかしそれと同時に「自分だけの正解」を他者に押し付けないよう気を付けねばなりません。「自分だけの正解」は心の内に秘めて信じ守り抜くものだと私は個人的に考えています。
【セリアン/Therian】や【アザーキン/Otherkin】にとって、「自分だけの正解」はきっと既に存在すると思います。
他人に何を言われたところで【セリアン/Therian】である事や【アザーキン/Otherkin】である事を辞めるなど出来ない。少なくとも「本物の」【セリアン/Therian】や【アザーキン/Otherkin】ならそう考えるはずです。
ただ、「自分だけの正解」を信じる事は、なにも【セリアン/Therian】や【アザーキン/Otherkin】のみに取って重要な事ではないかもしれません。
或いは普通の一般人の方も、「誰に何を言われても揺るがない自分だけの価値観」を持っていた方が、SNSやマスメディアなどの自分とは無関係な他人の意見に左右されずに生きていけるのかもしれません。
高度情報化社会がもたらした弊害として、情報の過度な並列化と希釈が挙げられます。本来自分だけが大切に出来た価値をSNSで公開しシェアしてしまう事で、いずれ誰もが知る「当たり前」になってしまい、価値が損なわれてしまうリスクがあります。
例えば家族や友人と過ごしたかけがえのない旅行の記憶も、それをSNSにアップロードしてしまえば「どこにでもあるブログ記事」の一つになってしまうやもしれません。その投稿に何らリアクションがつかなかったり、或いはネガティブなコメントがついてしまったりすると、せっかくの素晴らしい記憶も台無しになってしまいかねません。自分自身の主観では「素晴らしい」と思っているものであっても、他者から見ると何の価値もなくなってしまう事もあるでしょう。
そうやって客観的な価値のみを判断基準にして生きてしまうと、何が自分にとって真の幸福であるか分からなくなってしまうのではないでしょうか?
旅行に行って特別な体験をした事が幸せだったのか。
それとも旅行先で撮った写真をアップロードしてたくさんの人から「いいね」されたら幸せになれるのか。
もしも自分の幸せが後者になってしまえば、実際に旅行して現地で楽しい思いをする事よりも、むしろ旅行先で「取材」して得た「素材」を用いて行う「演出力」の方が重要視されてしまいます。
さらに言うなら実際に現地に行かずとも、インターネットで旅行先の写真素材を集めて「あたかも実際に行ってきたかのような書き方」をするだけでも、SNSに投稿するには十分な記事が書けてしまうかもしれません。他人が書いた記事をコピーペーストするだけでも手軽にでっち上げてしまえるかもしれませんし、AIに頼れば自動生成してくれるかもしれません。
けれど、それでは自分自身の特別な体験には全く価値がなくなってしまいます。
実際に経験してもいない架空のエピソードで数字を取って、それであなたは幸せになれますか? もしもそれで幸せになれるというのなら、あなたは作家に向いているのかもしれません。
けれど他者から認められなければ、数字が取れなければ幸せになれないのだとすれば、それは幸せになるためのハードルが高いように私には思えてなりません。自分が幸せになれるかどうかを他人にコントロールされてしまうからです。
「自分だけの正解」を見つけ出す事は、ある意味で「幸せになるためのハードル」を下げる事だと私は考えています。
誰に何を言われても自分が素晴らしいと思えば素晴らしい。自分が幸せだと思うのならば幸せだ。その揺るぎない信念こそが、情報の過剰な並列化と希釈によって価値が損なわれてしまう現代にこそ、重要な考え方なのではないかと私は思います。
だからこそ、【セリアンスロピー/Therianthropy】や【アザーキニティ/Otherkinity】の「本人が自分が【セリアン/Therian】だと思えば【セリアン/Therian】だ」、「本人が【アザーキン/Otherkin】だと思えば【アザーキン/Otherkin】だ」という姿勢は、ある意味でとても尊いものだと言えます。自分の意志を何よりも尊重し、自分が信じたものこそを最後まで信じ抜く。
その信条の強さこそが、或いは【セリアン/Therian】や【アザーキン/Otherkin】の内なる強さと呼べるものなのかもしれません。