
【個人的エッセイ】ゼロを基準に考える
【セリアン/Therian】として生きていると、或いは狼犬として生きていると、人間の価値観は息苦しいなと感じる事は少なくありません。
人間はよく「〇〇が出来て当たり前」、「〇〇は知っていて当然」、「〇〇は常識」という考え方をします。そして、その要求水準を満たしていない人々を減点方式で評価します。「100点満点が当たり前」、それ以下は「欠陥」であると考えます。日本社会も、この傾向が強い文化圏のひとつと言えるでしょう。
しかしこの価値観は、人によっては非常に息苦しい考え方になってしまいます。
人間にも個人差があるように、生き物にも本来個体差が存在します。それぞれ得意な事もあれば苦手な事もあります。
狼にも群を率いる個体もいれば率先して狩りにいく者、皆の留守中に巣を守る者など、様々な役割があります。しかしどの個体も最初から能力を持っていたわけではなく、成長の過程で自然と身に着けていきます。それは人間も同じでしょう。最初から何でも出来てしまうような天才は数えるほどしかいないはずです。成長する過程で自分が何に向いているのか、どんな職業に就きたいのか、何を目的に生きるのかを発見していくのが一般的だと思います。
しかし、人は色々なものを比べたがります。製品の良し悪しやコストパフォーマンスを比べたがる。料理の味の良し悪しを比べたがる。人間の能力の優劣を比べたがる。今では人々はネット上であらゆるものを比べたがっています。
比較する事そのものは、きっと悪い事ではないのでしょう。野生動物も比較そのものはきっと行っているはずです。狼の群の中での順位付けや、相手が自分が戦って倒せそうな相手か否かも比較によって判断されるはずですから。狼の生態や行動から鑑みるに、「比較」という概念を動物は持っていると考えられます。これは犬や猿の行動からも観測されています。
また、犬や猿は「平等」という概念を持っているとの研究もあります。人間が実験のために意図的に作り出した「不平等な状況」に対して犬や猿は不服や不快感を表現したとのデータがあるそうです。
人間は自分自身の種族を「高度な生命体」だと考える傾向があるようですが、近代の動物行動学ではむしろ人間以外の動物の優れた能力が明らかになってきており、「人間も数ある動物種の一つにすぎない」、「特定の能力においては人間はむしろ他の動物種に劣る」、「特定の分野では人間よりも優れた動物も存在し得る」という事が分かってきています。
膂力や体力で人間を勝る動物はいくらでもいます。徒競走をしたら人間が勝てない動物もいくらでもいます。乗り物を使わずに自力で空を飛ぶ動物もいます。人間が生身では決して辿りつけない深海に住む動物もいます。
人間は確かに「道具を作り、使う」事に関しては非常に優れた能力を持っています。だからこそ本来生身では出来なかった事を目的を達成するための道具を産み出す事で実現する事が出来る特異な生態を持った生き物だと言えます。
しかしそれでも、人間以外の動物が人間よりも「劣っている」とは言えないはずです。
そもそも、国や地域でも文化が大きく異なるため、同じ人間同士であっても大きな差がある事がインターネットの普及により明らかになりました。「この条件を満たしているのが当たり前」、「ここまで出来てようやく及第点」、「それ以下は落第点」、そういった価値観も地域や時代によって如何様にも変化する事を我々は知る事となりました。
その中で【セリアン/Therian】の在り方も多様性の一環としてスポットライトを浴びる事となったと言えるでしょう。
前述のとおり、私は「比べる事」そのもの、「比較」という概念は否定しません。
とはいえ、比較した結果「勝っている」と判断されたものを必要以上に持て囃す事は好みません。逆に「劣っている」と判断されたものを貶す事や見下す事も好みません。そういった感情は「悪い意味で人間的なもの」であると私の目には写ります。狼犬である私には必要のない感情であると考えてしまいます。
心理学の研究では、自分と比較して劣った者や不幸な者を観測する事によって精神的充足が得られる感情、或いは逆に自分と比較して優れた者や幸福な者を観測する事によって不快感を覚える感情を「社会的比較バイアス(Social Comparison Bias)」と呼んでいます。人間は本能的にこの傾向を持つとされているようで、だからこそ多くの人はこの「人間の動物的本能」に抗えず、SNS上での自分の評価を必要以上に気にしてしまうようです。一部の心無い人は自分よりも劣った者や不幸な者を貶す事で、この「人間の動物的本能」を充足させているのかもしれません。
しかし狼犬の【セリアン/Therian】である私個人は、この性質を敵視しています。
正直に白状するのであれば、私も「自分の書いた記事をより多くの方に読んでいただきたい、知っていただきたい」と考える事はあります。投稿したにもかかわらず何の反響も得られなければ残念な気持ちになる事もあります。しかしそれはあくまでも人間の肉体という自分のハードウェアが持つ特性であって、自分が魂の底から感じるものではないという確信があります。
私にとって【セリアンスロピー/Therianthropy】の実践とは「動物として正しい事をし続けること」です。狼犬として正しい事、狼犬として普通な事、狼犬としてすべき事は何か。逆に狼犬として間違った事、狼犬として普通ではない事、狼犬としてすべきでない事は何か。それを考えて実行する事が私にとっての【セリアンスロピー/Therianthropy】の実践です。
私は個人的に狼犬は元来 社会的比較バイアス(Social Comparison Bias) を感じる能力がないのではないかと考えています。私の動物的な本能はインターネットでの反響やSNSでの影響力を敵視しています。そんなものがなくても自分は生きていけると自分の本能が強く訴えていると感じます。多くの人間から注目される事に恐怖を覚えます。多くの見ず知らずの赤の他人と「浅く広く」付き合うよりも、自分の知性の遺伝子や遺志を確実に継いでくれる後継者を「狭く深く」大切にしたいと考えます。
だから私は「ゼロを基準にして考えたい」と常々思っています。私がいかなる努力をしようが、普通の人間の方々からは見向きもされないのが当たり前。そもそも多くの野生動物は人間から一顧だにされないのが当たり前。
しかしそれでも動物は生きていけます。人間が動物に対してどのような感情を抱くか否かに関わらず、動物は生きています。或いは、時が来れば死にます。たとえ人間がどのような事をしようと、動物は基本的に自然の摂理の中からはみ出したりはしません。それは本来大きな恐怖でもあるのでしょうが、同時に安堵でもあります。たかか一介の生き物がどれほど努力したところで、自然を超越する事もなければ自然を破壊してしまう事もないのですから。だからこそ自分はせいぜい精一杯生きて死ねばそれでよい。その自分の限界を知る事は一種の安らぎであると私は感じます。
だからこそ。
私は「出来ない事が当たり前」だと考えます。
どのような動物であれ、生まれたばかりの状態は酷く脆く無力です。成長するにしたがって動物は力をつけていきます。そして肉食獣であれば相手を打ち倒す力を得て、草食獣であれば逆に外敵から身を守る術を身に付けます。運が悪ければ当たり前のように命を落とし、運が良かった者だけが生き残れます。自然は本来とても残酷で、しかし同時にとても優しい側面を持っています。死は来るべき時に訪れ、無意味に苦しみを長引かせたりはしないものです。私はそういう世界で生きたいと考えています。
だから。
今のあらゆる物事が比較され、優れたものが必要以上に持て囃され、劣ったものが必要以上に貶され、その褒められたり貶されたりといった評価の流動そのものに価値が生じるような世の中が、私にとってはとても恐ろしいものに思えてなりません。敗れ去った者がいつまでも汚名を背負わされ、死してもなお忘れ去られず風化もせず永遠と悪く言われ続ける状況が恐ろしくてなりません。
勝ったり負けたり、追い抜いたり追い抜かれたり、流行ったり廃れたり、それによって器物や概念やサービスの価値や値段が変わってしまうのならば、裏を返せばそれは「価値そのもの」、「値段そのもの」にしか価値がなく、実際に消費される器物やサービスに対して人々は何の価値も見出していないという事になります。自分にとって本当に大切なものを他人が決める、流行が決める、その場の空気が決める、そんな他人任せの生き方が私は恐ろしくてなりません。
だからこそ私は世界がどう移ろっても、人の価値観がどう揺らいでも、自分で信じたものを信じ続ける強さを持ち続けたいと考えています。私にとってそれは【セリアンスロピー/Therianthropy】であり、狼犬です。他人がどう評価しようが自分は自分の本能や魂の在り方を信じられる。誰が何と言おうと自分は狼犬で在り続ける。たとえ自分が命を落とす事になろうと狼犬の魂だけは死んでも残り続ける。そんな堅固な信条を私は守り抜きたいと考えています。
だからこそ私はこの場所を出来るだけ長く存続させたいと考えています。たとえ結果がゼロであり続けたとしても。
「ゼロである事が当たり前」だと考えるからこそ、ゼロを1にするたった一つのキッカケを大切にできる。「何も出来ない事が当たり前」だと考えるからこそ「まだ何か出来る」事が尊いと感じる事ができる。失敗する可能性を承知で「それでも何かやる」という決意を貴ぶことができる。その価値観こそを大切にしたいと私は思います。
自分はまだ生きている。まだ死んでいない。まだやれる事がある。
だから、無駄だと分かっていても、良い結果が出ない事が目に見えていても、それでもやるかやらないかは自分で決める。そうやって戦い続ける意思を失いたくはないものです。
誰かを打ち倒すための戦いではなく、誰かよりも優れている事を証明するための戦いでもなく。ただ負けないための戦い、生き残るための戦い、滅ぼされないための戦い。全ての野生動物が当たり前のように毎日行っている「死なないための戦い」を、私も自分の命がある限り続けていきたいものです。