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個人主義者(Individualist) と 一匹狼(LoneWolf) の素顔

 私は個人的に動物は究極的には「個(Individual)」だと考えています。
 いくら群で生活する動物であろうと、個々の個体が単独でも生き残れるだけの強さを身に着けるべきで、それぞれの強さを集結することでさらなる強さを獲得する。少なくとも狼の群はその理念で動いています。

 私個人は長らく狼の【セリアン/Therian】と行動を共にしていますが、皆それぞれとても個性的な上に個人的です。人間社会でよく見られる「自分の個性を犠牲にしてでも他のメンバーと同じになろうとする」ような「集団主義(Groupism)」的な特徴はなく、むしろ自分の個性や自分だけが持つ強さを信じて、自分だからこそ出来る事で群に貢献しようとするメンバーばかりです。

 我々のような考え方の持ち主は、社会学的には「個人主義者(Individualist)」と言うそうです。自分が相手を助けたいからという理由で利己的かつ自己中心的に利他する。最終的に自分の血族の利益になるから打算で他者にも奉仕する。そして互いの「個」としての立場を尊重し、出来るだけ平等に扱おうとする。「Individualist」は「利己主義」と訳される場合もありますが、私のような「最終的には他者も助けた方が自分の利益にもなるから他者も尊重する」という考えの持ち主こそが「真のインディビジュアリスト」と言われているそうです。私はただの一匹の動物としてごく自然にこの考えに行きつきました。

 ですので、私は狼犬として群のメンバーを自分の命と同等かそれ以上に大切に扱いますが、それでもなお「集団主義(Groupism)」に対しては真っ向から反対します。群の構成員一人ひとりが互いを思いやれて初めて狼の群は本来の能力を発揮できます。「他のメンバーに合わせないとイジメられるから、気まずいから」、「周りと同じ事をするべきで、周りと違う事をしたら罰せられるから」という消極的かつ後ろ向きな理由で気乗りしないままついてくるメンバーがいると全体の士気が下がるからです。メンバー全員が「個人主義者(Individualist)」で、なおかつメンバー全員が「利己的に利他する」関係にあるからこそ、狼の群は他の種族には見られない固い結束で結ばれるのだと私は考えています。

 逆に言うなら、この結束力についてこれない脱落者が「一匹狼(Lone Wolf)」になるのだと私は考えています。

 一般的な人間のイメージでは「一匹狼」といえば孤高でクールな存在というイメージがありますが、実際の一匹狼の生態は人間が持つ勝手な印象とは異なるらしいという事が近代の研究で明らかになってきているそうです。
 こちらの記事を直接読んでいただいた方が、私が語るよりも信憑性が高いかもしれません。ただし英語です。


「集団主義(Groupism)」といえば聞こえはいいでしょう。自分を犠牲にして他者に奉仕する。全体の利益のために自分を差し出せる。当たり前のように皆がそうする。それは一見すると理想的な美しい社会のように見えるやもしれません。
 しかし逆説的に言うのであれば、「集団主義(Groupism)」は「集団の利益のためなら個人を犠牲に出来てしまう」とも言えますし、「全体の利益のために個人に対して献身や犠牲を要求出来てしまう集団主義(Groupism)」は、正直私が個人的に最も嫌っている考え方です。集団のトップに君臨する者の一存で、誰を犠牲にして誰から搾取して誰が最も得するかを決めてしまえるからです。私は「集団主義(Groupism)」という言葉の耳障りの良さの裏側に隠された残酷な真実を若い頃から今日に至るまで嫌と言うほど経験させられてきました。

 だから私はもう「集団主義(Groupism)」の見た目やファーストインプレッションの美しさには騙されません。どれほど耳障りが悪かろうと、どれほど誤解を受けようと、私は「個人主義者(Individualist)」である事に誇りを持っています。そして私の群のメンバーの大半が「個人主義者(Individualist)」であり、「利己的に利他する」という私の考えに賛同してくれている事が私にとっては何よりも有り難い事だと感じます。


 言葉の印象だけが独り歩きしていて実態が見えにくい事は往々にしてあります。「個人主義者(Individualist)」と「一匹狼(Lone Wolf)」はその最たる例ではないかと私は個人的に思います。

「個人主義者(Individualist) の群れる狼犬」というとなんだか矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、それが私です。私は自分の在り方や生き方に誇りを持っています。自分の意志で利己的な目的で躊躇なく群のメンバーを利他できるという私の感性や行動力そのものが私の最大の武器なのだと信じて疑っていません。そして何の疑いも躊躇もなく群に貢献出来る環境こそが、長い苦難の果てに私がようやく手にしたかけがえのない宝物なのだと感じます。


 私は「集団主義(Groupism)」に対して恐ろしいと感じます。皆が同じユニフォームを着て同じ方を向いて同じ行動をして、そして歯向かう者を容赦なくなぎ倒しながら進んでいく。私は「集団主義(Groupism)」の中にファシズムの悪夢を見ます。その延長線上に【クアドロビクス/Quadrobics】と【セリアン ギア/Therian Gear】があります。

 繰り返しますが、私は個々人の趣味を否定するわけではありません。しかし、【クアドロビクス/Quadrobics】の速さやテリアンジャンプの高さや【セリアン ギア/Therian Gear】の華やかさで優劣をつけてヒエラルキーを作って、最終的には人間のコミュニティに対して人間と同じインプレッション数やフォロワー数で戦いを挑もうとしているコミュニティの在り方には疑問を覚えます。【セリアンスロピー/Therianthropy】とはもっと個人的なもので、集団主義的なものではなかったはずです。

「皆が違っている事が当たり前」、「皆それぞれの違う【セリオタイプ/Theriotype】を尊重する」のが私の世代の【セリアンスロピー/Therianthropy】でした。
 今は違うのでしょうか? 【セリオタイプ/Theriotype】次第では優劣が出来てしまうのでしょうか? だからより有利な「覇権【セリオタイプ/Theriotype】」に憧れて、より有利な【セリオタイプ/Theriotype】になりたいからという理由で自分の【セリオタイプ/Theriotype】を簡単に変えてしまえるのでしょうか? そういう「社会の中で自分の立場を良くしたいという野心」はとても人間的だと私の目には写ります。

 本来の【セリアンスロピー/Therianthropy】は「本当の自分を発見するための実践」です。本当の自分が人間であるのなら、それは悪い事ではありません。むしろ自分にウソを吐いてまで【セリアン/Therian】のフリをしているよりも、自分は【アザーハーテッド/Otherhearted】だと認めて「動物の気持ちになれる自分」に誇りを持って生きていく方がよほど健全で有意義だと私は思います。

 若い世代の「テリアン」の方々は、この問題についてどう考えているのでしょうか? 「偽物の【セリアン/Therian】」になるのがイヤなら「本物の【アザーハーテッド/Otherhearted】」や「本物のクアッドロバー」になればいいのではないでしょうか? 「テリアン」という「間違ったラベル」はそこまで大切なものなのでしょうか? 機会があれば本人らがどう考えているかを聞いてみたいものです。