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【個人的エッセイ】人か神か獣か

 日本の宗教観は世界的に見るとかなり特殊だそうです。
 日本では「強いもの」、「優れたもの」、「何らかの利益をもたらしてくれるもの」を神棚に上げて祀る習慣がごく当たり前のように根付いています。それは人であっても獣であっても、あるいは自然現象そのものであっても構いません。とにかく見境なく「すごいもの」を日本人は崇めてきました。現代にもその習慣は残っており、ネット上にはごく自然に「神」が誕生します。何者かから崇拝されれば、それは日本ではすぐさま神になってしまうのです。

 人間でありつつも神になった方として最も有名なのは、やはり「学問の神」である藤原道真公と、東照大権現こと徳川家康公でしょう。「荒ぶる神」であるアラミタマという側面で言うなら、平将門公も一種の神として崇められているとも言えます。
「神棚に上げて祀る」文化は、日本では何千年もの歴史を持つ伝統的な習慣だと言えます。

 現代ではごく自然に神様が生まれるだけでなく、自ら進んで「神様」になりたがる人も現れました。アイドルになりたい、Vtuberになりたい、SNSで人気者になりたい、フォロワーを増やしたい、そういった「多くの人から支持されたい」という願望は、現代ではむしろ当たり前の欲求になってしまったような気さえします。

 とはいえ、これは以前別の項でもお話しましたが、「人気者になりたい」という願望は「夢を叶えられるか否かを他人の手に委ねてしまう」行為だと私個人は考えています。芸術や文学にも大なり小なりそのような側面があり、私自身もよく苦悩します。「自分が書きたいものを書きたい」と思う一方で、「誰かに読まれたい」、「誰かから求められる情報を配信したい」という気持ちも捨て切れません。この自己矛盾と葛藤は私が抱える最も大きな苦悩と言えるでしょう。

【セリアン/Therian】であるという事は、普通の人とは異なる生き方をするという事です。人ならざる者の視点から描かれたものが人から愛好される事は滅多にありません。フィルターバブル現象はなにも現代のネットが産み出したわけではなく、人は元々自分が知りたい事のみを知りたがり、自分が心地良いと思ったものだけを所望するように出来ているのだと思います。
 或いはそれは人間以外の動物にも当てはまる事なのかもしれません。誰もが皆、心地いい状況や環境に出来るだけ長く留まりたいと考えてしまうものです。そして未知と遭遇する事は、時として苦痛を伴います。


 なぜ人は神になりたがるのか。それは人間という種の動物が同族殺しを頻繁に行う習性を持つ種であるため、擬似的に「人間を超えた存在」になることで他の人間から攻撃されるリスクを減らしたいという生存戦略に基づいているとの研究もあるそうです。
 人間は「群れる事」と「道具を産み出し扱う事」により地球上で最強の生物になりました。しかしそれ故に人間同士の争いが凄惨極まる結果をもたらし、人間自身をも苦しめる事となりました。だからこそ人間は同族である人間を最も恐れ、頂点捕食者であるにもかかわらずリスク分散型の被捕食者的な生存戦略を取らざるを得なくなっているとの研究もあるようです。

 私にとっての【セリアンスロピー/Therianthropy】とは、この「人間誰しも持つ人間的な本能」との戦いと言えます。数字が取りたい、有名になりたい、より多くに影響を与えたい、そういう戦略で生き残りたい、そんな人間的な欲求から解放され、人間以外の獣としてやりたい事に集中する事で、自分が幸せになるためのハードルを下げること。これが私なりの【セリアンスロピー/Therianthropy】との向き合い方だと考えています。

【セリアン/Therian】は良くも悪くも普通の人とは違う生き方を選べます。しかし普通の人になる努力をすれば、普通の人と同じような生活を送る事も出来るでしょう。【セリアン/Therian】に生まれたからといって【セリアン/Therian】として生きなければならないとは限りません。自分の「魂のカタチ」を放棄して「肉体のカタチ」に合わせるのは苦痛を伴う行為ではあるでしょうが、その道を選ぶ【セリアン/Therian】も少なくはないと思います。【セリアンスロピー/Therianthropy】には絶対的な正解も間違いもありません。個人が「そうするのが正しい事だ」と思うのであれば、それはきっと正しい事です。

 しかし私個人は自分の魂の在り方を放棄したくはないと考えています。自分が【セリアン/Therian】として産まれた事には何らかの意味があるのではないか、ならば【セリアン/Therian】として何をすべきか、何を遺すべきか、そういった問いと真摯に向き合う事が私が生きている意義だと考えています。

 以前もお伝えしたとおり、私の感情は矛盾しています。私は【セリアンスロピー/Therianthropy】の正しい情報を皆様にお伝えしたいと考えてこのNoteアカウントを開設しました。しかしそれは私の狼犬としての本能に反します。狼犬は元々犬と狼という二種類の生き物のマゼモノであるため、存在として元々矛盾しているとも言えるでしょう。

 私が考える「より多くの方々に正しい情報を知っていただきたい」という願望は、明らかに「ヒトの欲望」です。しかし「狼としての自分」は「大勢の人間から見つかるときっと酷い事をされる」と恐れています。「犬の自分」は「それでも何らかの形で人間に貢献したい」と考えています。私の中には元々「狼としての正解」と「犬としての正解」という二つの正解があり、互いに矛盾する場合は自分の中で激しい葛藤となり自分自身を苦しめます。
 しかしそれでも私は狼の自分も犬の自分も手放そうという気にはなりません。どちらか片方を殺す事でラクになれるのではないかと考えた事もありましたが、結局出来ませんでした。たとえ自己矛盾する存在であろうと、私は私で在り続けるしかない。私は私で在り続けたい、そう思ってしまうのです。

 だからせめて、私は神にも人にもなりたくない。

 神を目指してしまえば、より多くの信者から崇拝される事を目指さなければならなくなってしまう。それは本来の獣の在り方ではない、狼犬の在り方ではないと私は考えてしまうのです。
 人を目指してしまえば、私の上位互換は世の中にいくらでもいます。仮に私に普通の仕事をやらせれば、私は人並み以下の能力しか発揮できません。私が人としての生き方しかしなくなれば、私の存在意義はなくなってしまいます。

 だからこそ私はただの一匹の獣になりたい。利己的に自分の知性の遺伝子を守る為に利己的に誰かを助け、利己的に何かを書き残す、そういう獣で在りたい。私はそう思って筆を執っています。

 私が遺す情報が誰の役に立つのか、或いは誰からも必要とされないのか、それは分かりません。何かを願ってしまえば、それが果たされなかった時には恨みや呪いになってしまう。それでもなお、私が遺す情報が同胞の役に立つ事を願って、私は筆を走らせます。それが勇気と称えられるか、それとも無謀と謗られるかは、きっと私の没後になってようやく決着する事でしょう。

 名を残すのは人の望み。私は獣として血を遺す事を望みます。私の名前だけ残って肝心の【セリアンスロピー/Therianthropy】の内容が失われれば意味がないからです。

 だから私はただひたすらに【セリアンスロピー/Therianthropy】の情報が残る事を願って書きます。血が残るように。智が残るように。私の命が失われた後も、これを読む【セリアン/Therian】がちゃんと【セリアン/Therian】として生きていけるように。その願いこそがきっと、私の中にくすぶる「人間性」に対する叛逆なのだと私は考えています。